鬼界彰夫『生き方と哲学』

「生き方」を考えるとはどういうことかを考える本。
その一方で、「プラトニズム」批判も展開されている本であり、まさに「生き方」と「哲学」の本になっている。
ウィトゲンシュタイン研究で知られる筆者だが、この本で前面に出てきているのは実はアリストテレスキルケゴールである。
だが、「プラトニズム」批判となっている分析のあたりは、後期ウィトゲンシュタイン的である。


ところで、実は、というほどのことでもないのだが、僕は学生時代に鬼界先生に教わっていたことがあり、
出来の悪い教え子ではあったけれども、読みながら鬼界先生からの講義を思い出したりしていた。
例えば、この本ではレイモンド・チャンドラーが何度か引用されているけれど、僕はちょうど飲み会で先生がチャンドラーについて熱く語っていたところに居合わせたことがあったりするw


本書は基本的には、
アリストテレスの「キネーシス」と「エネルゲイア」の区別を重視して進んでいく。
キネーシスとは、目的をもった活動のことで
エネルゲイアとは、能力を自然に発揮している活動のことである。
もっと具体的にいうと、
キネーシスというのは、もっとも主要なものが、働くことである。生きるためにはお金が必要であり、そのお金を得るためには、働かなければならない。
エネルゲイアは、具体的には、料理をするとか散歩をするとか家族や友人と語らうとか本を読むとか楽器を演奏するとかが挙げられている。ここでいう料理や演奏は、予め定められたものを作ったりするものではなく、自分や家族が楽しむために気の向くままに行われるようなもののことを指している。
生きるためにはキネーシスは絶対に必要であるが、キネーシスというのはあくまでも「何かのため」の活動でしかない。そして、生き物の生というのは、「何かのため」に行われるものではない。
キネーシス的な活動は最低限にして、エネルゲイア的な活動を中心にすることこそが、よき生き方である、というのが基本的な主張である。
そして、「生き方」を巡って人が思い悩んでしまうことの原因の一つとして、このキネーシスとエネルゲイアの区別を忘れてしまって、あらゆる活動がキネーシスだと思いこんでしまうことがあるという。そこで、「何のために」生きるのかと考えてしまうから、苦悩へと陥ってしまうのだ、と。


この主張そのもの(人によっては賛否あるかもしれないが)よりは、むしろその周辺の色々な分析とかが、個人的には面白かった。
本文より注の方が面白いんじゃない、と思ったところがあったりなかったり……w
先に「プラトニズム」批判と大きくくくったけれど、
「善」とか「数」とかいった概念について、客観的な実在があるとする考え方全般が批判されている。
こうした概念の根を、「実践の一致」に見るのが、鬼界=ウィトゲンシュタインの分析のやり方である。
我々は、どこか抽象的な世界に住んでいるのではなくて、あくまでもこの地球、この時代、この社会の中に生きている。
そうした中で、たまたま生まれた「実践」が、たまたま「一致」している。
そこからスタートして、「数」も「善」も出来ている。
ウィトゲンシュタインいうところの、「ザラザラした大地へ戻れ」である。


本当は、もうちょっと詳しくまとめたかったのだけれど、
読み終わってから休みを挟んで一週間たってしまったら、こんな大雑把な感じになってしまった。
功利主義倫理学批判、というか、最近流行りの政治哲学批判、ととれなくもない感じで
じゃあこの本の立場は、一体何になるのかなと考えてみるのも面白いような気がしたりしたのだけれど。
プラトニズムだけれど、自然主義でもないよね、みたいな、とか。
この本だけだと、結構科学というものを小さく見ているような感じがするけれど、先生は実際にはダーウィンとかチョムスキーとか好きな人で、自然主義的なところもあると思っている。
自然主義でいけるところはそれでいきつつ、しかし、それではいけないところが人間の生活の中では多くを占めているんじゃないの的な立場かなあと思ったり。本書でいうところの、「人称的世界」の話。
科学哲学だと、「科学的世界像」と「日常的世界像」(素朴〜とか)との齟齬をどうするのか、という問題があって、後者は前者に換言できちゃうとか、そもそも後者は間違っているので消去しちゃうというような立場もあるわけだけれど、後者は後者で全く別なものに根ざしているので残しましょうというような感じかな。
そもそも、それを齟齬だと思っちゃうのがおかしい、というか?
そういう立場をどう評価するかは、また色々と分かれそうな気がするけれど。


この本は、誰か哲学者の考え方などのまとめというようなことはなく、必要に応じてアリストテレスなどが引用されている。
引用先としては、哲学者だけに限らず、先に述べたチャンドラーやシェイクスピアドストエフスキーといった小説からのものも多い。
哲学や倫理学、というものに対する姿勢としては、実存主義的(?)なところに近いのかもしれなくて、キルケゴールニーチェなんかも結構出てくる。
むろん、ウィトゲンシュタインが多いのだが、ウィトゲンシュタインについていえば、ウィトゲンシュタインの生き方そのものに筆者が惚れ込んでいる、というのが近い。
アリストテレスなりなんなりといった場合は、自分の主張を組み立てるための道具として使っているが、
ウィトゲンシュタインの場合は、ウィトゲンシュタインが如何に生きたかということが書かれており、本文でも書かれているが、ウィトゲンシュタインの生き方とは一体どういうものだったのか、というところが発想がスタートしている。
ウィトゲンシュタインフィリップ・マーロウの生き方はよい、と思った筆者が、ではそれはどんな生き方なのか、ということを考えた本であるともいえる。


追記
ウィトゲンシュタインの「沈黙」が前期と後期とではどう違うのか、みたいな話は、この筆者ならではかもしれない。

生き方と哲学

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