ウィトゲンシュタイン『青色本』

文フリよりもさらに2週間くらい前に読み終わっていたのだが、なかなか書く時間がなかった。
帯に「もっとも読みやすいウィトゲンシュタイン」とあり、実際そうかもなあと思う。
といっても自分は、ウィトゲンシュタインの『論考』と『探求』の一部を読んだに過ぎないのだけれど、そもそもあの2作は一人で読める気が全くしない。誰か専門家の助けを借りないと分からなすぎる。
ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951 (講談社現代新書)に書いてあるけれど、『論考』と『探求』は彼のノートの中から抽出されたエッセンスだけが書かれていて、そこに至るプロセスは省かれている。なので、読みにくいのだと思う(普通に僕たちが読む本の書かれ方と違いすぎる)。
それに対して、青色本は講義の記録であり、口述筆記であることもあって、プロセスが圧縮されずに残っている。で、この中にはところどころ、「なんか『探求』に載ってそー」みたいな文が時々出てきたりしていて、それゆえに『探求』に対する注釈みたいな感じで読めるのかな、と。
加えて、野矢茂樹による後ろの解説もわかりやすい。
例えば、ウィトゲンシュタインから「意味の使用説」のようなものを読み取るのは誤読である、という指摘は、ついつい忘れそうになってしまうので要注意なところ。つまり、彼は使用説でも何でも「○○説」のようなものを唱えようとしているわけではない。彼にとっての哲学は一種の「治療」なのだし。
青色本』は講義録だから、「○○と考えてみよ」みたいな文が多い。まあそういうのは『探求』にも多いけど。


冒頭から、「哲学的な困惑の大きな源の一つ、名詞があればそれに対応する何かのものを見つけねば困るという考え」とあり、こうした考えを否定していくというのが、まずは大きな方向性としてある*1
基本的にはそのような方向性で、哲学を治療していく
で、規則の話や家族的類似性の話があって
「期待する」とか「望む」とかの分析になる。持続している何かの感情ではない*2
そして、「望む」ものが満たされるまで、何を望んでいるのか知らないと言うことがあるのか、ということで、「知る」という語の分析に移っていく。
ここで、歯の痛みを知る、あるいは知らないということが例に挙げられる。ここで、無意識的歯痛(歯痛はあるのだが痛いのを知らない)という状態があったとして、そういう言い方は可能なのか、ということだが、それは新しい用語法においては誤りではないといっている

とはいっても、この新しい表現は、我々の規約を一貫して貫き通すことを難しくさせるような挿し絵や比喩を呼び起こして我々に道を誤らせるのである。
p.56

これが、今までの哲学に対する一つの応答だといえる。哲学的な言葉遣いというものを、ウィトゲンシュタインは単なる誤りだとはいわない。それらは新しい表現法であり、その上では誤りではない。しかし、我々を誤解に導きやすい表現であって、それを意識しなければ道を誤ってしまうというわけだ。


そして、再び「望む」などの表現に戻り、「事実でない事態を考えることができるのはどうしてか」という問いへと進んでいくことになる。
ここでは、命題だとか文の意義だとか呼ばれるような「事実の影」を思考の対象であると言いたくなるが、そうではないということが述べられていく。
ここの流れを、ちゃんと再構成できないので、出てきた話題を羅列するにとどめる。
・ある肖像が誰かの肖像であるのは、類似性ではなく意図による
・スミス氏を待っているとき、誰を待っているのかと問われて、スミス氏を示すことができないか(例えば、スミス氏の写真を見せる。だがもちろん、スミス氏の写真を待っているのではなく、スミス氏を待っているのだから、スミス氏の写真(事実の影)は待っている対象ではない。では、スミス氏の写真を示すことはスミス氏を示すことにならないのか)
・経験の連なり(キングスカレッジという語と本物のキングカレッジとの結びつきは、以前からあった)


そして、p.104から最後までの70ページ近くが、私秘性について論じられている。
まず、痛みについてが再び例にあげられる。
不可能性について、論理的不可能性と物理的不可能性の分類があげられるなどして、
独我論者の表現法が、いわば「新しい表現」であると述べられる。
また、「私は」と使うときに二つの用法、「客観としての用法」と「主観としての用法」があることが述べられている。
こうした特異な用法をもつがゆえに誤解をもたらしてしまう、というわけだ。


ところで、このようなウィトゲンシュタインの「治療」は、果たして本当に独我論を癒すことができるのだろうか。
僕は、かなり多くの哲学的問題をこの方法で癒す(というか突破口を見いだす)ことができるのではないかと思うが、独我論について、少なくとも『青色本』はそれほど成功しているようように思えないし、それは他ならぬウィトゲンシュタインも分かっていたのではないだろうかと思わせる。野矢も解説で同様のことを述べている。
難しくて、なかなか手に負えない。


読んだ直後のtwitterのpost

なんか微妙に乗り物酔いしてる。それに耐えながら青色本を読んだ。読んだは読んだが、酔いのせいで頭に入らず
しかし、青色本の後半が頭に入ってこないというか、難しいのは、気分が悪いせいだけではなく、気分がよい状態で読んでも同じだとは思う
後半というのは私秘性の話。自分が私的言語批判として理解していた以上のことが書かれていた。
つまり、今まで自分がウィトは〜ということを言ってるのだろうと思っていたのだが、青色本を読んでみると、〜だけでは十分ではないと言っているっぽい
哲学が色々語の用法に混乱を来しているという指摘はわかるんだけど、その混乱を解けば私秘性の方も何とかなるのかがどうかがよくわからない。結局残っているような気がするんだが。

ここで、「〜ということ」は、まさに言葉の使い方をただすことで誤解を正そうとしていることを指している。私秘性はどうもそれでは不十分のようである。


ちくまさん、この流れで『探求』も文庫化お願いします!



青色本 (ちくま学芸文庫)

青色本 (ちくま学芸文庫)

*1:これは、ウィトゲンシュタインを始め、この時期の哲学者の重要な仕事だと思う

*2:ライルの傾向性に近い?