池田信夫『ハイエク知識社会の自由主義』

ハイエクについて何かいい入門書はないかなあ、と思っていた今日この頃、ふと本屋で見つけた一冊。
ハイエク池田信夫も、名前は知っているけど、どういう人かいまいちよく知らなかったので読んでみた。
僕がハイエクの名前を知ったのは、東浩紀紀伊国屋のフェアで紹介していたからだが、最近は、春秋社が全集を刊行するなどしていて、ハイエク・ブームが来るのかなあという感じがする*1


ハイエク思想を時期を追って紹介すると共に、それと関連する他の学者や学説が紹介されていく。それは主にハイエクの同時代人についてだが、時には現代の状況とも照らし合わせられている。
僕はほんと、ハイエクについては名前を知っている程度だったし、経済学についてもほとんど無知同然だったわけだけれど、そういう人でも十分に読んでいくことができるくらい分かりやすい。
また、ケインズ経済学や新古典派経済学についても、ハイエクに関係してくる限りにおいてではあるが、紹介されている。
サミュエルソンとかフリードマンとかも名前くらいは聞いたことあったけど、ああそういう流れですか、ということが何となく分かった。


さて、ハイエクというと一応経済学者なわけだが、本書に従えば、彼は一種の哲学者ないし思想家ともいえる。
というのも、彼の著作は、ガチで経済学専門というようなものではないからだ。『隷従への道』とか『自由の条件』とか、確かにタイトルを見るとそんな感じである。
それから、彼は最初、心理学をやろうとしていたらしく、『感覚秩序』という心理学の本もあるらしい。しかもそれは、当時の行動主義心理学を批判し、現在で言うところのコネクショニズムモデルのようなものだったらしい。
晩年には、法哲学の著作を書いている。


彼は、世紀末のウィーンに生まれた。
経済学にはオーストリア学派というものがあるらしく*2、その流れに属するらしい。
それにしても、20世紀初頭から大戦間期にかけてのウィーンというのは面白いところだ。
本書でも指摘されている通り、当時のウィーンにはシュレディンガーがいて、量子力学が生まれてくる。
あるいは、哲学の世界でいえば、論理実証主義を掲げるウィーン学団がいたわけだし、ウィトゲンシュタインは、哲学者としての活動はケンブリッジで行っていたとはいえ、ウィーン出身である。
本書では、ハイエクと後期ウィトゲンシュタインの思想の類似性についても、ほんの少しだが、言及がある。
しかしまた、この時期のウィーンの雰囲気だけが、ハイエクに影響を与えたわけではない。
ヒュームの懐疑主義、バークの保守主義、イギリスの慣習法に基づく制度といった、イギリスの知的伝統を、彼は踏襲し、また尊重しているのである。


ハイエクの最大の前提は、人間とは合理的なわけでもないし、完全な情報を持ち合わせているわけでもない、ということである。
全てを知ることは出来ないし、合理的な経済活動をしているわけでもない。
問題は、そうであるのにも関わらず、秩序が維持されているのは何故か、ということである。
その一つの答えとして、市場があり、自生的秩序という考え方がでてくるのである。
彼は、政府による市場の介入に批判的であるわけだが、それは一つには、完全な情報を持ち合わせているような奴はいないからだが、もう一つには、社会の目的って何かということが分からないからでもある。
彼は、何らかの組織であれば、合理的な主体が合理的な計画でもってやっていくという方法はありだと言っている。それは、その組織の目的というものがはっきりしているからである。
しかし、社会の目的というのははっきりしない。社会について、合理的な計画をたててやっていくということはできないのである。
では、社会というのは、どうやって成り立っているのか。
それは、慣習によってであるし、また、状況の変化に対しては進化論的に対処するのである*3
ただし、彼は後になって、どのような制度を作ればよいのか、ということを考えるようになる。
つまり、彼は当初、ケインズなどを批判して、政府が介入せずとも市場に任せればよいというようなことを主張したわけだが、そもそも、市場経済というのが成立しているのって西欧だけじゃないか、という問題が出てくる。
ハイエクは、大陸型の実定法的な法体系よりも、英米型の慣習法的な法体系をよいとする。
また、平等な分配を求める感情を「部族社会の感情」だとしている。
彼は、功利主義の考えるような最大多数の最大幸福、いわば効用が最大化するような社会を目指すことは批判する。
彼は、自由が最大化するような社会をよい社会だとする。ここでいう自由とは、積極的自由ではなく、消極的自由である。つまり、誰かが何かやりたいと思ったら、それが基本的に妨げられないということである。そのためには、英米外の慣習法的な法体系がよいと考えているわけである。


様々な人と、ハイエクが比較されている。
まずは、やはりなんといってもケインズハイエクだろう。
本書の指摘でへぇと思ったのは、この二人の対立というのは、ケインズが良くも悪くも政治家で、ハイエクが学者だったことにあるという点。
ケインズというのは、即効性のある何らかの対策というものを求めていたのであって、理論としてはそれほど出来がよいものではなかったようだ。
しかし、ケインズ的な政策を行うと、短期的には効き目があっても、長期的には効き目がない、ということをハイエクは指摘したわけである。それに対するケインズの反論は、「長期的にはみんな死んでしまう」
現在では、そもそも効き目があったかどうかすら疑問が呈されているらしい。
また、ケインズはのちになると、ハイエクを賞賛したりもしているらしい。
それから、社会主義との戦いという点で、ハイエクポパーは同じであり*4、また互いに仲が良かったらしい。
ただし、ポパーはやはり社会が次第に完成していくというイメージを持っていて、その点でハイエクとは相違していたようだ。
むしろ、ハイエクの思想は、マイケル・ポラニーのものと近い。
ハイエクの考えている知識というのは、ポラニーの暗黙知のようなものであるようだ*5
それからまた、経済思想としては、ハイエクフリードマンもまた同じところに属すると思われている*6。だが、ハイエクが合理的な個人なるものはいないということを前提していたの対して、フリードマンはそうではない。
また、ハイエクはバークの保守主義に影響を受けており、サッチャー政権がハイエクから影響を受けているが、ハイエク自身は自らを保守主義者だとは思っていなかった。


本書は最後に、インターネットの世界からハイエクを再評価すると共に、批判的検討を加えて終わっている。
読んでの感想は、ハイエクの哲学・思想はかなり面白い、ということである。
もちろんこの本が、ハイエクを絶賛する形で書かれているから、というところはあるが、それを置いても面白い。
個人的には、英米型の慣習法的法体系ないし慣習をもとに社会が成り立っている云々ということと、ポラニーの暗黙知との関連性あたりが、とても興味深いし、自分の考えていることとも近いところだなあと思う。それから、これは多分後期ウィトゲンシュタインとも近いのではないかと思う。
経済政策については、勉強しないとよく分からないなあというところはある。
というのも、僕は素朴にサヨクなところがあるのでw ケインズ的な政策っていいんじゃないのと思っていたわけで、これを読むことで、そこは程よく相対化されたと思う。
参考文献などについて、サポートブログが立ち上げられている。
とりあえず、目次にリンクしておく。


最後に、確かにそうだなあと思ったのでw

オーストリア人って名前かっこいいよなー。ハイエクとかウィトゲンシュタインとかクリムトとかハプスブルクとか。ドイツ人はそうでもないのにね。
「てかマジ、ブラック・スワンなんですけど」(にやおベース)

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)

*1:というか、本書に従えば、ハイエク再評価というのはもう既に起こっている

*2:創始者メンガーメンガーはマッハに影響を受けたらしい。マッハは、アインシュタインにも論理実証主義にも影響与えているし、レーニンやボルツマンと論争しているし、この時期の諸々の潮流と関係持っていてすごい。閑話休題、不確実性とリスクについて論じた、フランク・ナイトとかもオーストリア学派らしい

*3:革命ではなく進化によって

*4:ウィーン出身という点でも同じ

*5:参照:http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20080828/p1

*6:フリードマンシカゴ学派であり、このシカゴ学派というのはオーストリア学派の後継に当たるらしいが、本書はこの二つはやはり根本的には考え方が違うと指摘している