『現代思想2022年1月臨時増刊号 総特集=ウィトゲンシュタイン』

『論考』刊行100周年を記念した特集号。
本誌前半には『論考』について、中盤には「倫理学講話」について、後半には『探求』についての論文が収録されている。


『論考』の読み方が時代によってどのように変遷してきたかを論じている吉田論文、ダイヤモンドのウィトゲンシュタイン解釈を論じる槙野論文、アンスコム論文、アスペクト論について論じた山田論文、カベルのウィトゲンシュタインを論じた齋藤+スタンディッシュ論文、ブランダムによる規則のパラドックス解釈を論じた白川論文あたりが面白かった。
あと、面白かったと言えるほど内容が理解できてないけど、野上論文の分析哲学っぽさ(?)は読んでてちょっと楽しかった気がする。


飯田 隆 『論理哲学論考』五〇周年から一〇〇周年へ

断固読みについて

吉田 寛 現代社会の中の『論理哲学論考』一〇〇年

読みの変遷

  • 論理的解釈

第一次大戦後。近代理性の徹底として
論理実証主義者やラッセル、ムーアらによる読み

  • 倫理的解釈

『論考』6.4番台以降の「倫理学」「神秘」に注目する読み
1951年までは、ウィトゲンシュタイン自身がこの立場
1960年代以降、M.ブラック、P.エンゲルマン、ジャニク&トゥールミンなど
また、黒崎宏、星川啓慈、鬼界彰夫らもこの系譜

  • 批判的解釈

近代理性への自己批判
論理的解釈と倫理的解釈の合流(いいとこ取りとも)
1960年のステニウスから、P.M.S.ハッカーやD.ペアーズをへてオーソドックスな解釈へ
飯田隆ウィトゲンシュタイン』、永井均ウィトゲンシュタイン入門』もこの流れ
言語論と倫理との調和を図る読み方であり、かつ前期と後期を統一的に理解する立場

  • 治療的解釈

”The New Wittgenstein"(2000)という論文集に集結
「治療的読み」ないし「決然とした読み」と呼ばれる
C.ダイヤモンドが代表的
はしごを投げ棄て、近代主義的な見方(『論考』の論理観)を乗り越える
「ポストモダニスト解釈」とも

野家啓一 日本におけるウィトゲンシュタイン受容・補遺

ウィトゲンシュタイン読本』(1995年)に収録された「日本におけるウィトゲンシュタイン受容」で「いい足りなかったこと」「いい損ねたこと」について

C・ダイアモンド 次田瞬+大谷弘[訳] はしごを投げ捨てる

『論考』の読み方を変えたとされるダイアモンドによる、「はしごを投げ捨てる」読みとはどのようなものか
ウィトゲンシュタインフレーゲラッセルをどのように読んだのかという観点から

荒畑靖宏 世界が存在するのにどうして論理がありえようか?――論理学をめぐるラッセル・フレーゲウィトゲンシュタイン

未読

槇野沙央理 『論考』を意味あることとして取り扱おうとした主体は本当にあなた自身であるか

ダイヤモンドの提案した読み方が一体どのようなものであり、どのような意味があるのか
『論考』自体がナンセンスなものであること
語りえないけれど何か意味のある領域があるんじゃなくて、語りえないもの=ナンセンス
そのとき、『論考』を意味のあるものとして読んでいた自分を捉え直す

古田徹也 前期ウィトゲンシュタインにおける「意志」とは何か

未読

大谷 弘 「倫理学講話」と倫理的言語使用

絶対的価値判断はナンセンスだが、ナンセンスではない倫理的言語使用はある
ところでこれ、槇野=ダイヤモンドが指摘している、ダイヤモンド的解釈への典型的な抵抗のように見えなくもない(ウィトゲンシュタインの書いていること自体はナンセンスだとしても、何か意味があるはず、という読み方)

小泉義之 兵士ウィトゲンシュタイン――言語の省察

未読

田中祐理子 同時代人たちの「世界」――ウィトゲンシュタインとアラン

未読

鈴木祐丞 ウィトゲンシュタインの「宗教的観点」――『論考』とトルストイ、『探究』とキェルケゴール

ウィトゲンシュタインが「宗教的」という時、それは何を意味するのか、ウィトゲンシュタイントルストイキェルケゴールからどのような影響を受けたか

G・E・M・アンスコム 吉田 廉+京念屋隆史[訳] ウィトゲンシュタインは誰のための哲学者か

哲学者には、非哲学者のための哲学者と哲学者のための哲学者がおり、ウィトゲンシュタインは後者だとする。
「理解」や「思考」に関することについて取り上げ、それが「読む」ことを例として展開されていることを、哲学者のための哲学だと指摘している

吉田 廉 我々はみなどこか愚かである――アンスコムウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタインアンスコムの関係を、プラトンとアリストレスの関係に見立てる
教える者と教わる者の関係。後者が、前者の註解者ではなく、独立した哲学者になること 

山田圭一 見ることの日常性と非日常性――アスペクト論の展開と誤解と新たな展開可能性

ウィトゲンシュタインアスペクト論は、ハンソンとウォルハイムによって、それぞれ科学哲学と美学に応用されるが、いずれもウィトゲンシュタイン解釈としては誤解に基づいているという
アスペクトというのは哲学者の病
しかし、アスペクト転換に創造性(例えば比喩)への展開可能性を見いだす

谷田雄毅 ポイント(Witz)とアスペクト(Aspekt)――言語ゲームの意味を問うとはどのようなことか

『探求』の読解において、あまり注目されてこなかった「ポイント」概念を通じて『探求』を読む。

菅崎香乃 『哲学探究』第二部は何を目指したのか――草稿から推測する

「意味を体験する」ことについて

鈴木崇志 自分に向けて話すこと、他者に向けて話すこと――ウィトゲンシュタインフッサール

ウィトゲンシュタインフッサールの「独り言」論を比較する

齋藤直子+P・スタンディッシュ 正しく目を閉じること――ウィトゲンシュタインとおとなの教育

ジェイムズの「盲目性」という概念を踏まえつつ、スタンリー・カベルのウィトゲンシュタイン解釈を見ていく
私的言語と自己知識(他者についての盲目性は自己についての盲目性でもある)

杉田浩崇 ウィトゲンシュタインと子ども――言語ゲームの習得/刷新モデルを超えて、その機微へ

教育哲学におけるウィトゲンシュタイン受容について

野上志学 蝶番認識論、とりわけそのウィトゲンシュタイン的反懐疑論について

コリーヴァおよびプリチャードによる、二つの蝶番認識論についての検討

白川晋太郎 なぜ懐疑論者は懐疑論者でないのか?――ブランダムの推論主義を「治療」に活用

規則のパラドックスに対して、ブランダムはどのように応答したか