グッドマン『世界制作の方法』

訳者あとがきに従えば、グッドマン哲学は、「ヴァージョンの複数性」「非実在論」「根本的相対主義」ということになる。
ヴァージョン=世界である。
グッドマンは文字通り、世界は作られるものであり、そして多数の世界=ヴァージョンがあると考えている。しかし、再三繰り返されているとおり、それは可能世界論ではない。彼が想定しているのは、現実世界だけであり、複数の可能世界ではない。
ニュートン以前の学者とニュートン以後の学者は別の世界に住んでいる、というクーンのパラダイム論にも、ある意味では似ている。
パラダイム論に対しては、ニュートン以前とニュートン以後で語彙の意味が変わっているとしても、それは翻訳可能なのだから、それらを繋ぐ共通の何かがあるはずだ、という反論がある。
グッドマンは、世界制作とは作り直しのことである、と主張する。
世界制作とは、以前あった世界を再構成していくことなのである。その点では、パラダイム論のように一気に変化するというわけではないし、パラダイム間を繋ぐ共通の何かを想定しなくても、翻訳できるのは当然のことである。
そして、翻訳可能である、ということと、事実なり実在なりは関係ない。それが非実在論である。
しかし、だからといって何でもあり、というわけではない。正しいヴァージョンと間違っているヴァージョンはあるのである。ただし、それは実在や真理によって定まるわけではない。実在や真理はヴァージョンによって異なるからだ。
このヴァージョンというのは概念枠のようなものだと思うが、概念枠とはいわずに世界と言ってしまうところが、とてもラディカルだと思う。
認識論と存在論の区別がないのではないのかなあとも思う。
世界について知ることと世界がそのようにあることは、共に世界制作ということの両面なのだろう。


これは、芸術の哲学でもある。
グッドマン哲学の凄さは、世界制作という考え方そのものと、様々なジャンルを扱っていることの二点があるのだろう。
グッドマン哲学は、科学哲学であると同時に芸術哲学でもある。
科学を芸術のように扱っているともいえるし、芸術を科学のように扱っているともいえる。科学も芸術も、共に世界制作なのである。
芸術に関しては、第二章から第四章が割かれている。
それぞれ、「様式の地位」「引用に関するいくつかの問題」「いつ芸術なのか」となっている。
このサブタイトルだけみると、引用というのは、何やら細かなテクニカルな話題がされていて、芸術の本性から離れているように思わなくもない。
だが、実際にはこの章がとても面白い。
言語、絵画、音楽の比較論であると同時に記号論となっている*1
引用かどうかというのは、引用された記号と引用した記号が同一かどうかに拠っている。
綴りが同一か(構文論的)、外延が同一か(意味論的)の二つの同一性がある。
言葉に関しては、どっちもどういうことか分かる。
絵画の場合、構文論的同一性というものが曖昧。
音楽の場合、意味論的同一性というものが曖昧。
ここでふと思い出したのが、伊藤剛の「キャラ」概念。
これはまさに、マンガ表現の中における同一性の問題についてだと思う。
「キャラ」の同一性というのは、構文論的同一性とも意味論的同一性とも言えないようなものではないだろうか。
グッドマンは、絵画には綴りの同一性のようなものはない、と考えている*2。文字ならば、誰が書いても、どんなフォントでも、同じだといえるが、絵画の場合、そういうことはいえない、ということだ。
そう考えてみると、「キャラ」は図像ではあるが、構文論的同一性を備えているように思われる。
「キャラ」概念は、まだ色々とポテンシャルがあるのではないかと思う*3
「いつ芸術なのか」では、芸術作品には、どんなものでも記号作用があると論じ、
記号作用として、再現representationと表出expressionだけでなく例示exenplificationを挙げる。
また、この例示などの記号作用について考えると、内在的特徴(形式や作品のあり方)と外在的特徴(主題や作品が示しているもの)の区別というものは不可能になる。
芸術作品の記号作用に着目することで、グッドマンは、「芸術がそれであるもの(本質)から芸術がなすもの(機能)へと注意を転じた」のである。


また、芸術が、科学と同様に世界制作に関わっていることも強調する。
グッドマンは、正しいヴァージョンと間違ったヴァージョンを区別する。彼は、虚偽のヴァージョンというものに価値を見いださないし、虚偽のヴァージョンを可能世界という形で存在させたりもしない。
では、虚構作品や虚構的存在はどうなるのであろうか。
それは、隠喩的に現実世界へと適用されることで、正しいヴァージョンの一つとなるのだ(虚構作品もまた、現実世界を制作しているし、現実世界そのものである)。


では、正しいヴァージョンと間違ったヴァージョンを区別するためにはどうすればいいのか。
先述したとおり、グッドマンは、真理というものでそれをすることはできないと考えている。
彼は、有用性、信憑性、整合性を挙げる。
また、妥当性についても論を割く。
妥当性に関しては、帰納法の問題としてグルーのパラドックスがあるわけだが、彼はその投射可能性の問題を結局、慣習へと帰す。
慣習、それはまた実践のことでもある。
ヴァージョンの正しさというのは、真理や実在によって支えられるのではなく、適切な実践に応じているかどうかということに支えられてくるのである。
多くの実践によって検証されたヴァージョンは、それだけ強固になっていく。
このあたりは、後期ウィトゲンシュタインとよく似ているように思う。


図書館から借りてきたので、読んだのはみすず書房版。
ただ、最近ちくま学芸文庫からも出たらしいので、なんとなく両方の書影を貼っておく。

世界制作の方法

世界制作の方法

世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)

世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)

*1:記号論ということに関していえば、むしろ別の著作がそれに充てられている。いくつかのグッドマン用語が注釈無く使われている。それらの用語には、巻末に訳者による解説が付されている

*2:グッドマン用語で、自書体のみの記号体系とか単一記号体系とか呼ぶらしい。綴りの同一性がある場合、異書体のある記号体系

*3:ただし、もし仮に「キャラ」について哲学するのであれば、さらに考えなければならないことは多い。というよりも、伊藤剛による「キャラ」の定義、「固有名による名指し」と「図像」が気になっている。「固有名による名指し」というのは、クリプキによる固有名論を想起せざるをえないが、「キャラ」概念とクリプキの「命名儀式」はあまり相性がいいとは思えないからだ。