『思想地図』

冒頭の共同討議以外は読み終わった。
この雑誌は、冒頭の共同討議を除くと、
1歴史の中の「ナショナリズム」、2ニッポンのイマーゴポリティクス、鼎談日本論とナショナリズム、3問題としての日本社会、4共和主義の再発明、公募論文
に分けられる。
この中でわけても面白かったのは、2と公募論文であった。
東のデータベース論と伊藤のキャラ論をフレームとしつつ、それらをさらに精密化したり、応用させたり、作り替えたりして、様々な現代文化を論じている。
オタク文化論界隈には、まだまだ面白いことが残っているということを感じさせてくれるもので、興奮させられた。
東浩紀自身が、この界隈が去ってしまったということが惜しくなるようにも思えるし、あるいは、東浩紀の時代の終焉が、図らずも東浩紀編集の雑誌上で結実したともいえるのかもしれない*1
では、それ以外の章はどうかといえば、面白いことは面白かったが、知的な興奮というものが得られるには到らなかった。よい勉強になったという感じである。
ところで、この表紙デザインはちょっとよくないのではないか、という感じがする。
榎本俊二の、各章の扉絵は悪くないのではあるが、表紙の扉絵についてはそれほど奮っているという感じがしない。また、そもそものデザインとしてこれでいいのかとも思う。西島大介的な表紙に馴れすぎたからかもしれないが。

1歴史の中の「ナショナリズム

中島岳志による「日本右翼再考」と高原基彰による「日韓のナショナリズムとラディカリズムの交錯」で構成されている。
中島論文は、幕末から戦前にかけての右翼思想をコンパクトにまとめている。
高原論文は、日韓両国それぞれの戦後政治史と左右両翼のイデオロギーの変遷がまとめられており、「民族主義」などの言葉やいわゆる左翼運動の意味合いが日本と韓国で異なっていることを示している。
単に僕自身が、この時代の歴史や思想に疎いので、普通に勉強になった。

2ニッポンのイマーゴポリティクス

伊藤剛「マンガのグローバリゼーション」

大塚英志の『ジャパニメーションは何故敗れるか』批判となっている。
まず伊藤は、「日本人」と「マンガを読む/描くぼくら」との乖離を指摘する。これは、鼎談「日本論とナショナリズム」で東浩紀が指摘する二つのナショナリズムと、ある程度重なるところがあるかもしれない。そもそも東は、『動物化するポストモダン』の第一部で、日本のオタクの中にある、ある種のナショナリズムジャポニズムについて
指摘していた。
マンガ表現は必ずしも「日本」を描くようなものではないはずだが、マンガ文化・マンガ実践といったものが日本独自のものとして、国内外において認知されていることは確かであろう。だからおそらく、「マンガを読む/描く」際には、日本を意識するようなことはないのだが、「マンガを読む/描くぼくら」を対象化しようとすると、日本が意識されるようになるのではないだろうか。
伊藤は、大塚がリベラルであるかのように見えて、意図せずしてエスニックな閉鎖性を纏ってしまっていることを指摘している。
さて、マンガとは「日本」的なのかそうではないのか。
伊藤は、マンガをキャラ・コマ・言葉の三要素によって分析するが、手塚によってキャラが抑圧され、コマを重視する少年・青年マンガ、言葉を重視する少女マンガへと分化していった(これがマンガのモダン)とする。
大塚が主張する、「傷付く記号的身体」を持つことの「倫理性」もまた、キャラの抑圧=マンガのモダンの一種である。
一方で、キャラの自律がマンガのポストモダンであり、さらにキャラこそが、マンガを広く日本国外へと広げている要因と見る。それは、キャラこそが感情移入の基点となるからだ。そのことは例えば、日本のマンガともディズニーアニメとも離れた、フランス在住のイラン人BD作家の発言も傍証となっている*2
大塚は、キャラを抑圧し「倫理性」を説く「父」として振る舞っているように見える。しかし、キャラは、そのような近代の抑圧を軽やかにかわし、そのような抑圧から逃れたいと思っている世界中の男の子や女の子からの支持を得ているのだ、と伊藤は結んでいる。
 

増田聡*3「データベース、パクリ、初音ミク

DJ音楽文化に、東のデータベース理論が適用されるだろうということは広く言われていることであるが、増田はそのことを前提としつつ、オタク文化とDJ文化との差異を指摘していく。
オタク文化にとって、基本単位となるのがキャラである。これは、作品のコンテクストから自律している。
一方DJ文化にとって、基本単位となる音楽断片は、キャラと比較して作品のコンテクストから自律していない。例えば、キャラの絵だけを見て楽しむことはできても、サンプリング素材だけを聞いて楽しむことはできないだろう。
貫テクスト同一的存在者*4の性質が、オタク文化とDJ文化では異なるのである。僕は、『SRE』や『無間道』において、文字列が貫テクスト同一的存在者としての地位にあるのではないかと考えている。データベースないし貫テクスト同一性のの基本単位として、一体どのような存在者が考えられるのかというのは、かなり面白い問題だと思っている。
増田はさらに、パクリというものを二つに分類する。
一つは、労力削減というパクリ
一つは、パブリシティについてのパクリ
前者は、要するに剽窃のことである。全く同じ文章や絵をそのまま載せることである。これはオタク文化においては認められていない。二次創作であっても、絵はオリジナルのものをコピーするわけではなくて、同人作家自らが描く。一方で、DJ文化においてはそれが認められている。DJはわざわざ新たに録音したりするわけではなく、既に録音されている音をそのまま使うのである。
後者は、オタク文化では認められている。というよりも、これが認められないと同人文化は成立しない。つまり、ハルヒの同人本をみんなが書くとしたら、それはハルヒだと集客力があるからであって、同人誌を書くにしてもそれがハルヒであると分かるように描く。一方、DJ文化では、メジャーな音源をそのまま分かるようにして使うのはあまりよしとされていない。元ネタが何であるかをなるべく隠そうとする。
パブリシティについてのパクリという概念が定着してきたことと、情報の束である私としてのアイデンティティ感覚ができたことが、昨今の過剰ともいえるパクリフォビア現象、つまり矢井田を林檎の、倉木を宇多田のパクリと言ってみたりするようなものの原因と見ている。
そして最後に、上述した二つの分類*5が絶妙に混合したものとしての初音ミクを取り上げている。

福嶋亮大「物語が見る夢」

これは、『ユリイカ』に掲載された「チャイニーズ・イノセンス」と対をなす論文であろう。
郭敬明ら中国人作家の読み仮名が振られていたのがありがたかった*6
日本のアニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベルが、中国や台湾の文化、文芸に影響を与えていることは、もはや前提とした上で、つまり日本と中国、台湾では似たような作品が出てきていることは当然として、しかしそれぞれの国によって、それらの作品の使われ方が異なっていることが論じられている。
福嶋が、最近のブログでずっと論じ続けている「神話」である。
日本において、物語はキャラクターを魅力的にさせるために使われているとしたら、中国では、作家のアイドル化をもたらすために使われており、台湾では、ネット上のプラットフォームとしてのWEB作家を立ち上げるために使われているのだという。
虚構とは何か、物語とは何かといった問いに対して、消費の形態や社会における機能といった視座から答えようとしている。これは、東が『ゲーム的リアリズムの誕生』において、環境分析と呼んだ手法と通じているが、それをより深化させたものであるし、虚構や物語といった概念に対して、見直しを迫るものでもあるように思える*7

呉咏梅「中国における日本のサブカルチャージェンダー

中国の若者に、日本のテレビドラマがどのように受容されているかについての報告。

3問題としての日本社会

川瀬貴也の「「まつろわぬもの」としての宗教」は、臓器移植や人工中絶といった医療の場において現代人にとっての「宗教性」が現れるということを論じている。
脳死者や胎児が、果たしてどのような身分をもった存在であるのか、法律的には決着がつきつつあるといっても、未だにはっきりとした答えがあるわけではない。例えばそうした問いに対する、合理的ないし功利主義的な答えに対して、多くの人が何らかの違和感を覚えるだろう。その違和感を、川瀬は「宗教性」と呼んでいるのである。
人間とは何か、「人間性」とは何かと問うときに、この「宗教性」は立ち上がってくる。
芹沢一也「<生の配慮>が枯渇した社会」では、現在の社会状況が「福祉国家から新自由主義国家へ」などと図式化されることへの批判が述べられている。明治から現代に到るまでの、統治を追うことによって、日本では「福祉国家」がそもそも成立しておらず、現在の状況も「新自由主義」と必ずしも言えるわけではないということを論じていく。統治形態の変遷を追うことによって、「福祉国家」とか「新自由主義」とかいった言葉ではうまく説明できない部分をフォローしようというのである。
厚生省が、総力戦体制のさなかにできていったとかが面白かった。
今、シノドスVol.2も読んでいる最中なのだが、そこでの芹沢と鈴木謙介との対談も、死刑や少年犯罪の問題が語られていて面白かった。
韓東賢の「社会的関係と身体的コミュニケーション」は、1970年代の東京朝鮮学校の生徒たちのケンカ文化について論じたもの。『GO』は見たが、『パッチギ』を見ていない僕としては、そもそも朝鮮学校=ケンカという図式自体があまりピンとこないので、そういうのもあるのねという感じ。

4共和主義の再発明

白田秀彰「共和制は可能か?」は、何ともシニカルな文体で綴られていて、まずそれが面白かった。
超近代的共和制に関する思考実験は、僕としてもこういうのができればいいのになと思っているので、よかった。
黒宮一太「死者への気づき」はタイトルによって大体内容が分かるが。死者への気づきが、故郷喪失者であるわれわれに、故郷とのつながりを回復させるであろうというような内容。
僕は、故郷喪失者として何とかやっていきたいんだけどなー。

公募論文

黒瀬陽平「キャラクターが、見ている」

アニメ論版テヅカ・イズ・デッド
テヅカ・イズ・デッド』において、マンガのモダンが抑圧したものは二つあった。すなわち、キャラとフレームの不確定性である。
キャラはともかく、フレームの不確定性という概念は、非常にマンガ固有のものであるように僕には思われたのだが、黒瀬論文は、アニメにおけるフレームの不確定性を論じる。
一つには、アニメ版「あずまんが大王」の失敗である。ここでは、カメラ・アイという手法が導入されることによって*8、自律したキャラ表現との齟齬を起こすようになったと論じられている。
似た話として東による押井守批判があるだろう。そこでは、パト2以降の押井アニメの絵柄の変化が挙げられていた。押井が、より映画的な(ここでいうところのカメラ・アイ的な)表現を志向した結果、いわゆるマンガ・アニメ的な絵柄との齟齬をきたして、絵柄を変えることになったというのである。押井(そして宮崎)以外の、日本の主要なアニメがむしろそうしたマンガ・アニメ的絵柄を推し進めていく、つまりアニメのポストモダン化へ進んでいく中で、押井(宮崎)は、アニメのモダンに拘ったというわけである。
アニメのポストモダンを象徴する作品として、黒瀬が挙げるのが『ぱにぽにだっしゅ!』である。ここでは、SDキャラというものを導入することによって、フレームの外にいるはずのキャラが、同じフレームへと入ってくる。同一画面に、カメラによるフレームだけでなく、SDキャラというフレームが重ね合わされているのだ。こうして、キャラの自律=キャラのフレーム化というものがなされたというのだ。
ところで、この論文の前半では、アニメにおいて物語論(構造論)はなされても、表現論がなされてこなかったことが批判されている。
これに関して、twitter上にこんな発言があったので引用する。

結局僕らが物語論(構造論)を好むのは、過去を参照しなくてもよいからなんだよな。

https://twitter.com/mon_sun/statuses/803025404

自分の知ってることだけで構造論って書けるから。表現論は過去の蓄積を参照しないといけないし。

https://twitter.com/mon_sun/statuses/803026123

個人的には、誠に耳の痛い話である。
勉強しなくても、何ごとか言えてしまうような気がしてしまう。うん、よくない。

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

*1:ただ、東の動ポモが、いわゆる「科学革命」であり、そしてここに掲載されている増田、福嶋、黒瀬論文は「通常科学」であるといえるかもしれない。そうであるならば、東というオタク文化批評家は終わったかもしれないが、東パラダイムは決して終わっていないともいえる

*2:伊藤は、日本のマンガ、アメコミ、BD(バンド・デシネ)、連環画といった類似したジャンルを扱える上位概念の必要も訴えている

*3:執筆者紹介に『その音楽の<作者>とは誰か』の著者とある。この本、読んだことはないのだが、以前レポートに一部分を引用した記憶がある

*4:僕が今作った造語

*5:基本単位についてのそれとパクリについてのそれ

*6:覚えられないけど

*7:無論、福嶋がバルトやレヴィ・ストロースに依拠していることを考えれば、かつてからあった考え方でもあるのだろうが

*8:アニメ的なフレームの不確定性の抑圧であろう