- 鼎談「マンガにおける視点と主体をめぐって」
夏目房之介、宮本大人、泉信行による鼎談。
『漫画をめくる冒険』の解説といった感じ。
タイトル通りマンガにおける視点と主体についての話だが、『漫画をめくる冒険』という本そのものの語り手は一体誰か、という話もしていて面白い。
『漫画をめくる冒険』の応用編(?)
『スクラン』と『3月のライオン』の比較
『よつばと!』に出てくる猫目表現について。
「わかりやすいが記述できない」ものとしての、猫目表現と「キャラ」
漫画空間の中にしかありえないもの
- 「いつかあなたとはお別れしなくてはなりません」吉田アミ
- 「福満しげゆぎ、あるいは「僕」と「美少女」の小規模なセカイ」杉田俊介
福満の描く女の子ってエロいよねっていう話
- 「平坦な戦場をループさせることで生き延びること」濱野智史
『リバーズ・エッジ』と『ひぐらしのなく頃に』について
「惨劇」をどのように乗り切るか。一つは、不感症的にスルーすることであり(『リバーズ・エッジ』)、もう一つは、立ち向かうこと(『ひぐらしのなく頃に』)である。
この両作品はその点で対立しているように見えるが、繋げることを試みる。
それは、「惨劇」に立ち向かうための「ありえない別の世界の記憶」をロードする「奇跡」とは何か、という問いを起こさせる点にある。
- 「うるさくて何が悪い」麻草郁
黒田硫黄の絵のうるささ(黒と白の使い方)について
- 現実を素材に夢を練る
荒川弘インタビュー
実家が酪農家である話とかニーナの話とかが面白いといえば面白いんだけど、特にここにまとめるようなことはないかも。
- マンガの/と批評はどうあるべきか?
東浩紀と伊藤剛の対談。
批評は越境するもの(境界を撹乱するもの)だ、という東の志向は、ずっと変わっていない*1。福嶋や黒瀬のことを東が買っているのも、彼らがやっていることが越境的な仕事だから。
それから、大塚英志の話。
あと、年をとったらどうするか話。
岡田斗司夫はかつてオタクは貴族だと言っていたが、貴族というのは制度や血縁によって貴族たりえるところを「オタクは気合いだけで勝手に貴族になっているのだから、そんな気合いは年齢を重ねたら消滅するに決まっている(笑)」(東)
- 「『テヅカ・イズ・デッド』のそれから」伊藤剛
海外マンガとの出会い。
実作指導と理論の関係。
伊藤剛の「キャラ/キャラクター」論を一般化するための準備。
キャラとキャラクターの循環的な構造について。
固有名論などとの接続なども試みようとしてて、面白いと思う。
- 「コマ割りは「何を」割っているのか」野田謙介
フランスのマンガ研究の翻訳を手がける野田による、フランスのマンガ研究と日本のマンガ研究を繋げる試み。
日本では「コマ割り」としか言われないが、フランスでは「コマ割り」に相当する語として「デクパージュ」と「ミ・ザン・パージュ」があるという。
大雑把に言ってしまうと*2、「デクパージュ」は時間(シナリオ)を割っており、「ミ・ザン・パージュ」は空間(ページ)を割っている。
確かにコマは、時間を割るものでもあるし、空間を割るものでもある。
コマを割ることによって、時間が経過する=動きが生じる。
その一方で、コマというのは、一つのページを複数の部分に分けている。
もちろん、この両者は分かちがたく結びついている概念であるわけだが。
ところで、僕は長らく気になっているマンガ表現として、同じ一つの絵であるのにもかかわらず、コマが割られている、というのがある。例えば、ある人の顔が描かれていたとして、その真ん中にコマの枠線が引かれているものである。
僕は、その枠線が何のためにあるのかなかなか理解できなかったので、以前友人に聞いたところ、時間経過を表しているのではないか、という答えを得た。
まさにデクパージュ。
でも、カメラのカット割りというよりは、パンみたいなものかなとも思う。
やはり時間と空間の両方に関わっているのか。
- 世界の断片をつなぐマンガの力
島田虎之介インタビュー
これも面白いインタビューだけど、まとめようがない。
- 「「クールジャパン」と「MANGA」」小田切博
日本のマンガが売れているというが、その実態はどういうものか。
面白いから「勝手に」人気が出たわけではなく、やはりそれ相応のビジネスとしての試行錯誤があったこと。
また、アメコミから日本のマンガへと人気が移行したわけではなく、アメリカにおけるコミックス全体の刊行数が増えていること。
- 「漫画の新しい体質」福嶋亮大
イメージ操作の方法としては、西洋絵画の遠近法が主要なものとして挙げられるが、それ以外にも様々な方法がありうる。漫画というのは、いわば西洋絵画が主要なものとして利用してきたイメージ操作方法とは異なる、他の複数の操作方法を取り込んでいったものである。
西洋絵画が、イメージ操作に関するある種の秩序(象徴秩序)を作ったとすれば、漫画は漫画で別の秩序(記号的秩序)を作ったといえるが、昨今それもまた変わってきている。つまり、イラストレーターや4コママンガなどが生みだした、キャラの秩序である。
- 「おたくと漫画」森川嘉一郎
おたくの自己イメージの歴史?
- 鼎談「失われた成熟を求めて」
東浩紀、伊藤剛、金田淳子の鼎談。
話の展開があまりにも高速。というか、東がわりと面白そうな話題をふるのだが、話が展開していく前に、別の話が始まってしまっている感じ。
評論って本来は老人ないし中高年のものではないか、という東の指摘。
- 「国際会議「マンガ、60年後……」について」中田健太郎
パリで行われた国際会議「マンガ、60年後……」についてのレポート
- 「オタク現象と日本のポストモダニティ」東浩紀/コメンテーター=ミシェル・マフェゾリ
パリで行われた国際会議での、東の発表。
『動物化するポストモダン』と、その後の議論に関する、実によくまとまったまとめ。
作者本人がまとめているんだから、よくまとまっているのは当然なんだけど、わかりやすくすっきりまとまっている。
東の議論を誤解している人や東の意図を理解しかねている人は、読むといいと思う*3。
コメンテーターの発言の中で「へぇ」と思ったのは、「大きな物語の終焉」という言い方とは別に「大きな物語の飽和」という言い方もあるらしい。
- 「日本マンガにおける「演出」と「フレーミング」」
パリの国際会議で行われた発表の一つ。発表者はグザヴィエ・エヴェールとパスカル・ルフェーヴル。コメンテーターはアリー・モルガン。訳は野田謙介。
長谷川町子『サザエさん』、手塚治虫『罪と罰』、ちばてつや『あしたのジョー』、小島剛夕『子連れ狼』、高橋ツトム『地雷震』、すえのぶけいこ『ビタミン』における、コマ割りや演出方法についての解説と比較。
- 西洋的「オタク」についての覚書」マルコ・ペッリッテリ(訳、中田健太郎)
日本の商品や作品は「無国籍的」と言われるが、決してそんなことはなく、ヨーロッパでは「日本的」なものとして受容されていること
ヨーロッパの「オタク」は、日本への興味が強い人たちという意味なので、オタクという語は使わない方がいいかもしれないということ
パリの国際会議での発表が結構面白かった。
また、翻訳者たちがみな困っているのが「マンガ」をどう訳すかである。
日本で「マンガ」という場合は、日本のマンガもアメコミもバンド・デシネ*4も含んだ広義の意味で使われる。
だが、海外で「マンガ」という場合、それは日本のマンガだけを指す。例えば、フランスであれば、日本のマンガもアメコミもバンド・デシネも含んだ広義の言葉としてバンド・デシネという言葉を使うし、アメリカであれば、コミックスという言葉を使うらしい。
伊藤剛が『思想地図』の論文で、マンガ、バンド・デシネ、アメコミ、連環画を含む言葉の必要性を指摘しているのは、このパリでの体験が原因なのだということが分かった。
(下記コメント欄にて、指摘を受けました。こちらの推測を事実のように書いてしまったことをお詫びします。*5)
また、海外でもマンガ研究があることは知っていたが、独自の術語(デクパージュなど)があるということに驚いた*6。
誰かの論文で、「マンガの一般理論を」と書かれていたけれど、なるほどマンガの一般理論かーと思った。
確か、ジュネットのナラトロジーとかの批評理論っていうのも、「文学の一般理論を」ってことで出てきたものだよね。
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*1:若い時からずっと言っている
*2:本文中、この大雑把な分け方に対する批判もあることが述べられているが
*3:そういう人は読まない気がするけど
*4:フランスのマンガ
*5:『思想地図』論文を読んだとき、「なるほど、そういうものか」と思いながらも何故必要なのかよく分かっていなかった。今回、これを読んで、そういう状況があることが分かり、合点がいった。というふうに自分が納得したので、伊藤剛もそうだったに違いないと思いこんだ次第
*6:『コードギアス』でぐぐると、海外のサイトでの感想がまとめて翻訳されているサイトが見つかる。これを読むと、海外でのアニメ語りというのが、日本とは少し異なる形で盛り上がっているのだなあということが分かって面白い