開催日時 2008年5月11日(日)
開場 11:00〜終了16:00
場所 東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第1・第2展示室
(JR線・東京メトロ日比谷線 秋葉原駅徒歩1分、都営地下鉄新宿線 岩本町駅徒歩5分)
B−56 筑波批評社(会場内地図)です。
今回は、持っていく冊子の紹介をしたいと思います。
告知・宣伝エントリとしては、異常な長さになるような気がしますが、どんな雑誌なのか気になっている人、どうしようか迷っている人に対して、情報提供できればいいなと思っています。
『筑波批評2008春』
座談会「『偶然性・アイロニー・連帯』を読む」
リチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』は、例えば東浩紀が度々言及する本ではあるけれど、実際には一体何が書かれているのか。それを受けて、一体どういうことを考えることができるのか。
筑波批評社同人6名で、読んで語った。
第一部では、ファイナル・ボキャブラリーとは何か、私的と公共的の区別とは一体どういうことなのか、そしてリベラル・アイロニストとはどういう考え方なのかを読み解いていき、
第二部では、ローティのそのような考え方をうけて一体どのような立場がありうるのか、ローティへの批判やリベラルの可能性について考えていった。
ローティや政治哲学に関して、僕たちは全く専門家ではなくて、むしろ素人であるが、しかし『偶然性・アイロニー・連帯』入門となるような、そんな内容になりえたのではないかと思っている。
4万字の最初から最後まで、読み応えのあるものになっているはずだ。
アイロニカルな共同体――その成立条件
id:klovによる、公共性論。
現状、僕たちの暮らす社会は、メタ・ユートピア(ノージック)かゾーニング社会へと向かいつつある。それはまた、宮台真司や東浩紀が指摘していることでもあるだろう。
しかし、メタ・ユートピアやゾーニングは果たしてうまくいく社会設計なのだろうか。
本論は、そのような社会設計の提案に対してある問題提起を行っている。
公共性の言語のために
公共性とは討議の場のことである。
では、そのような討議の場とは、一体どのようなものであるべきなのか。また、いかにして可能になるものなのだろうか。
仮想的な議論ではあるが、理念の提示にも意味はあると考えている。
シノハラユウキなりの政治哲学である。
社会システム・テレビゲーム・NPC〜広義の動物としてのマッチョ、ウィンプ、決断主義者と公共性〜
社会なんてそんな簡単に変わんねーよ、という主張はある意味当然であり、多くの人はそういう前提で生きている。
id:Muichkineは、そんな人たちをいくつかのトライブに分けて分析しながら、文学的想像力の方向性を探し出していく。
すでにサブタイトルに書いてあるが、そこで出てくるトライブは、「動物」「マッチョ」「ウィンプ」「決断主義者」と、はてな界隈でよく飛び交っている、しかし得体のしれない単語である。そうした言葉を巧みに整理しながら、単なる交通整理には終わらない評論となっている。
実は、『2007』に掲載した評論とリンクしているので、よければバックナンバーも手にとってほしい。
届かない手紙は青い車にのせて
id:tsuttonが、よしもとよしとも『青い車』の時代的布置を、岡崎京子、小沢健二を補助線としながら読み解いていく。それはつまり、95年とは一体いかなる年だったのか、ということでもある。
だが、一体今何故95年なのか、という疑問もあるかもしれない。
小熊英二は、戦後思想とは戦争体験の言語化であると述べたが、それに倣うのであれば、ゼロ年代、ポストゼロ年代の思想は、失われた10年としての90年代の言語化となるはずで、だからこそ95年が一体どういう年だったのかが重要となるはずだ。
友達に会いにサウスパークへ行こう
最近のアニメ業界で最も大きな話題は、何といっても『サウスパーク』の全エピソード無料ネット配信開始だろう。
この原稿を最初に読んだとき、この挑発的な(?!)冒頭に驚いた。らきすたでもギアスでも電脳でもアイマスでもなく、サウスパークか。
もっとも、『サウスパーク』を取り上げたからといって、ただちに批評として優れているとか劣っているとか言うことはできない。
しかし、これもまた、現代ポップカルチャーのある側面を捉えようとした、批評的な論となっていることは間違いないはずだ。
神州国はどこにある
フィクションの世界とは一体何であるのか、という抽象的な問いを、星野智幸『無間道』の中から見いだそうとする、シノハラユウキによる評論。
そうした問いを発することは、『無間道』という具体的な作品を読み解いていくことにも影響を与えるだろうし、また現実と虚構の倒錯した関係へと僕たちを誘っていくことにもなるはずだ。
これらの原稿を集めるにいたって、何か統一したテーマは与えなかった。
実際、取り上げられている固有名を拾い集めてみても、ローティ、宮台真司、東浩紀、マッチョ・ウィンプ、よしもとよしとも、サウスパーク、清涼院流水、星野智幸となかなか一貫性がない。
しかし、僕はこれらの原稿に、表層的な違いを越えて、何か類似した問題意識が通底しているように感じられてならない。
今回の執筆者のほとんどは、それぞれにブログを持っていて、自分の論を各自に展開している。そんな中で、何故同人誌を作るのかといえば、このような一致を見いだすことができるからかもしれない。そしてそれが、『筑波批評』という雑誌の特徴となっていけばいいと思う。
読者には、是非手にとって、その特徴を確認してもらいたい。
『筑波批評2007』
冒頭を飾る座談会は、「ケータイ小説は文学の夢を見るか」
そろそろ落ち着いてきた感があるが、ケータイ小説のヒットというものは多くの人にインパクトをもたらしたはずだ。
ケータイ小説とはそもそもどういうものなのか、そして今後どうなりうるのか。
そして、2chやニコニコ動画といったネット文化とケータイ小説の類似について論じた座談会。
以前、レビューしていただいたので、そちらも参考してもらえるといいかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/i-Ag/20071214/p1
id:Muichkineによる、舞城王太郎+前田司郎論は、『2008』の彼の評論ともリンクしており、ポスト群像劇の可能性について論じられている。
また、図書館ブログ界の有名人、id:min2-flyによる、電子図書館概説が、実はとても興味深く面白いものとなっている。
その他、mixi・Amazon・twitter論、『虐殺器官』論、『パターン・レコグニション』論、『キャラクターズ』・『アサッテの人』論、『二〇〇二年のスロウ・ボート』論を掲載。
『物語の(無)根拠』
前回の文学フリマにて、途中で売り切れとなってしまった黄色い本、増刷です。
『ソフラマ!01号』(B−40 あもるふぉすにて)
こちらは、id:tsuttonらの同人サークルあもるふぉすの発行する、総合ライトノベル誌。
僕自身は、同人に参加していませんが、寄稿させて頂きました。
「セカイと暴力の限り――『ダブルブリッド』論」
文学フリマの前日、10日に最終巻が発売されるということなので、『ダブルブリッド』がいかにセカイ系であってセカイ系でないのか、ということを論じました。
日常と非日常が繋がってしまうこと、そしてそこにいかに暴力が関わってきているのか。