鈴木雅雄+中田健太郎編『マンガ視覚文化論 見る、聞く、語る』

鈴木雅雄編著『マンガを「見る」という体験』 - logical cypher scapeの続編
前著が、シュールリアリスムとマンガとの比較という観点があったのに対して、こちらはよりマンガ中心である。
タイトルが示す通り、視覚文化論とのかかわりから論じられるものが多いが、それだけにとどまらず、聴覚文化論や物語論との接続がなされている。
表現論というところから始まって、マンガを読む際に、読者がどのような体験をしているのか、というところまで踏み込んでいるとも言えるかもしれない。
刺激的な議論が多くて、非常に面白かった

マンガ視覚文化論: 見る、聞く、語る

マンガ視覚文化論: 見る、聞く、語る

序章 「見る」ことから「語る」ことへ(中田健太郎

1 表現論と視覚文化論――「読む」のか「見る」のか
「表現論」から二十年――マンガと近代について考えること(夏目房之介
マンガ、あるいは「見る」ことへの懐疑――いがらしみきおとマンガの「限界」(三輪健太朗)
「マンガと見なす」ことについて――「体験としてのマンガ」と少女マンガ様式(岩下朋世)

2 感覚の広がり――「見る」から「聞く」「感じる」へ
フキダシのないセリフ――私はあなたの声を作り出す(鈴木雅雄)
吹き出しの順序と帰属について(細馬宏通
漫画を「見る」という現象――人間とメディウムを中心にして(泉信行

3 語るイメージの近代――「読む」ことと「聞く」こと
まんがの形式化と物語(佐々木果)
初期ストーリー漫画におけるキャプションとフキダシ――漫画の語りに必要な言葉とは何か(森田直子
漫画を「聴く」という体験――漫画における音声表象の利用についての歴史的素描(宮本大人

4 マンガのフレームとシステム――ふたたび表現をめぐって
多段階フレーム試論――目のひかりからコマへ(伊藤剛
切りとるフレームとあふれたフレーム(中田健太郎
反復の悪夢――漫☆画太郎と出来事の連鎖(石岡良治

終章 観察者の行方――ポスター、絵本、ストーリー・マンガ(鈴木雅雄)

序章 「見る」ことから「語る」ことへ(中田健太郎

各論文の内容と結びつきを紹介するものだが、後半で、中田自身の論も展開されている。
すなわち、マンガの中での「読む」シーンについて
まずは、『黄色い本』や『僕の小規模な失敗』における、登場人物が本や手紙を黙読しているシーンについて。読者が、登場人物の読書を追体験するようになっているシーンだが、単に黙読というわけではなく、様々な知覚がそこに加わってくることを指摘している。
さらに『花もて語れ』における朗読を取り上げ、語り手の語り口がイメージ化され、さらにコマ枠の変化やフォントの使い分けなどによっても語り口を現していく技法により、複雑化された知覚の断片の混ざり合いを見て取る。
「見る」などの読者の知覚について着目することで、従前の記号論物語論の延長にとどまらない議論が可能になると論じている。

1 表現論と視覚文化論――「読む」のか「見る」のか

「表現論」から二十年――マンガと近代について考えること(夏目房之介

マンガ表現論といわれる言説の歴史を振り返ったうえで、「コマ」という概念に着目する。
「コマ」という概念が、実は曖昧であることを意識しつつも、しかし「コマ」概念こそが、視覚文化史を画するものなのではないか、と
テプフェールを取り上げるとともに、江戸時代の出版物の中に見出される「コマ」のような表現にも言及している。しかし、江戸時代にはこの「コマ」のような表現は結局定着しない。
「コマ」の、視覚文化史における「近代」を見出すが、一方で、これは必ずしも明確な始点を持たないのではないかとも述べて、近代を自明視することに注意を促している。

マンガ、あるいは「見る」ことへの懐疑――いがらしみきおとマンガの「限界」(三輪健太朗)

理論的には、映画批評理論やベルクソンを参考にしつつ、具体例としては、いがらしみきおを挙げながら、いがらしみきお作品が、マンガにおける「見る」ことの限界を描くことを通して、人間の知覚の限界をも示そうとしていることを論じている。
視覚と言葉、視覚と時間の2つのテーマがそれぞれ論じられている。
風景が言語化されてしまうことで失われてしまうもの
運動が固定化されてしまうことで失われてしまうもの
人間の知覚は、そうしたものを取り逃してしまう

「マンガと見なす」ことについて――「体験としてのマンガ」と少女マンガ様式(岩下朋世)

「マンガとは何か」という問いを「マンガとはいかなる体験か」という問いのかたちにとらえなおす
(例えば、コマ枠がない作品でも、マンガとして体験することは可能である)
そのうえで、1950年代の、絵物語と漫画やスタイル画の登場について論じている。

2 感覚の広がり――「見る」から「聞く」「感じる」へ

この章は、マンガ読者にとって、マンガで描かれていることがどのように現象しているか、という観点に特に着目しているものが集められているようだ。

フキダシのないセリフ――私はあなたの声を作り出す(鈴木雅雄)

音と絵が同期していないコマから、そもそも「瞬間が加算されて「出来事」が作られるのではなく、まず「出来事」があるのであって」、現実世界でもマンガを読む際にもそれは同じなのではないかと。
擬音語とも擬態語ともいえるような言葉について

マンガと呼ばれる宇宙では、分析すれば時間的なものと考えるのが合理的でありそうな要素と、同じく分析すれば空間的なものと考えるのが妥当に思えるそれとが区別されることなく共存し、協力し合って出来事を語っている。(p.129)

フキダシについても、その順序が不確定になるような例をあげて、単に音声の再現になっているわけではないと論じる
さらに、ナレーションや内語とセリフが混在する表現
ここでは、想起や思考と発話が同時に現象しながら時空間が作り出されている(おそらく現実でも同様に行われていること)
そして、『ベルサイユのばら』などに見られるフキダシのないセリフへと論は進む

フキダシのないセリフの形で提示されている言葉は、発話者が「実際に」口にしたものであると同時に、そしてそれ以上に、特定の聞き手が受け取った言葉なのではないか。(p.140)

そのセリフを「客観的」な音声情報としてだけでなく、聞き手(だけ)にとってとりわけ強い情動的な価値を持ったものとして示そうとするならば、やはり何らかの手段が発明されねばならないだろう。(p.141)

もはやそれが実際に発せられた言葉であるかどうかなど問題でなく、恋人たち2人は互いの思考を何一つ包み隠すことなしに共有しているというのが、読者の印象なのではなかろうか。(p.143)

また、泉信行によって論じられた、登場人物の誰かから見られた主観的なビジョンが描かれている事例とも類比されている。
最後に、このようなマンガのあり方の歴史性について、スモルデレンがあげた「ラベル」から「フキダシ(バルーン)」への変化という論点をあげている。

吹き出しの順序と帰属について(細馬宏通

吹き出しをどのような順序で読むか、またどの吹き出しがどの登場人物に帰属するか、ということには、おおよその通例があって、マンガを読み慣れた読者は戸惑うことなく読んでいくことができる。
しかし、それはあくまでも通例であって、ズレる事例というのもある
筆者は、ワークショップの中で、参加者にどのような順序で読んだかクイズ形式で質問し、判断が揺れる事例を示す。
しかし、これらは単に読みにくいというわけではなく、むしろそこで複数の読みの中で揺れることが、その作品を読む楽しみや、その作品のテーマへとつながっていくことがあるというころを論じている。
細馬による吹き出しの帰属から作品を読み解く論としては、「ONE PIECE」の揺らす吹きだしの帰属と宛先 – マンバ通信も面白い。

漫画を「見る」という現象――人間とメディウムを中心にして(泉信行

泉がこれまで自ら行ってきたマンガ論へのアプローチの仕方を解説している。
マンガの紙面上に描かれていることにとどまらず、それがどのように読者にあらわれているのか、という観点から論じてきていたというのがわかる。
(泉は、紙面上に描かれていることを「表現」、読者の中でのあらわれを「表象」と呼び分けているようである。ここでいう「表象」は、心的なそれを指す)
さらに、感情移入や同一化といったことを、ボディマップ(の複製)という観点から考えていく(泉は、ラマチャンドランやダマシオなどを参照している)
このとき、「感情移入」や「同一化」といった言葉が、雑に使われがちであることを指摘している。
同一化させられるのは、思考なのか、感情や情動なのか、あるいは感覚なのかといったことを区別しなければならない。
例えば、痛そうな体験を描いたエッセイマンガを取り上げ、ここでは「痛い」という感覚については読者に同化させつつも、その登場人物の行為(つい痛いことを繰り返してしまうこと)には同化させないことで、異化を生じさせていることを論じている。

3 語るイメージの近代――「読む」ことと「聞く」こと

この章は、マンガ論と物語論を接続するような試みがなされている論が集められている感じ。

まんがの形式化と物語(佐々木果)

この論文はちょっとむずかしてくわかりにくかった

初期ストーリー漫画におけるキャプションとフキダシ――漫画の語りに必要な言葉とは何か(森田直子

キャプションとフキダシが、マンガにおける「語りnarration」にどのように用いられているかを論ずる。
マンガにおける語り手については、グルンステン(2011)による整理が参照されている。

(1)絵を並べることによる語り(視覚的提示monstrationとmonstrateur)
(2)言葉による語り(キャプションrecitatifとrecitant)*1
(3)絵と文字を組み合わせることによる総合的な「語り」(narrationとnarrateur)

また、議論をすすめる枠組みとしては、スモルデレンによる「ラベルからバルーン」へが参照される
遡ると中世美術においてもフキダシのようなものが見出される。しかし、スモルデレンは、「イエローキッド」によるフキダシの使用を画期として、それ以前と以後を区別した。
中世美術などに見られるのは「ラベル」で、人物名を示すなど「ラベル」的に使われており、声の表象とは用いられていない。これが、音声表象へと変わったのが「バルーン(フキダシ)」である。
キャプションが、マンガにおける語りにおいてどのように用いることができるか、という点について、テプフェール作品をちょっとおもしろい方法で分析している。
テプフェール作品は、言葉はキャプションとして書かれており、フキダシとして書かれてはいないのだが、筆者は、フキダシに置き換えてみるということをしている。
テプフェール作品は、キャプションをフキダシに変えてしまっても読めてしまう。
一方で、フキダシに変えてしまうことで、もともとあった効果がなくなってしまうところもある。
前者については、キャプションが普通「叙述」だと思われがちなところ、フキダシに変えてしまっても違和感ないということは、「提示」的なところがあったということである。
また、後者については、例えば、絵による語りとキャプション(言葉)による語りのズレによってもたらされるものである。ズレがアイロニーを生んでいた。

漫画を「聴く」という体験――漫画における音声表象の利用についての歴史的素描(宮本大人

マンガにおける音声表象について、理論面と歴史面の両方について素描している。
例えば、フレームの外の声
シオンが映画について、視点と聴取点が分離されることを挙げたとを念頭に、『のらくろ上等兵』にもやはり、視点と聴取点が異なる表現技法があらわれていることを指摘する
また、マンガにおけるオノマトペについて、夏目、四方田、笹本、佐々木、泉による議論を紹介している。
オノマトペは、「代用サウンド」であるだけでなく、内面などをあらわしているものであることもある。映画理論における、「物語世界内の音」「物語世界外の音」といった分類と、マンガにおけるオノマトペの議論をつなげていく。
佐々木は、オノマトペを「誰による知覚か」と問い、音声表象の問題から語りの問題へとつなげていく。単なる音声表象ではない、と。
この論では、冒頭に、有名な藤子不二雄による『新寶島』体験の記述が引用されているが、そこで藤子が「轟音を確かに聞き」というところに注目している。
さて、歴史的側面として、まず夏目が戦前戦中のマンガについて、オノマトペがあまり使われておらず「静か」であると述べていたところから始まる。
これに対して、無声映画との対比から、オノマトペがないからといって当時の読者にとって「静か」だったとは限らないということと、また実際に、オノマトペが様々な手法で使われていた事例をあげている。
また、物語世界外の音の使用についても、紹介している。

4 マンガのフレームとシステム――ふたたび表現をめぐって

多段階フレーム試論――目のひかりからコマへ(伊藤剛

紙面を区切るものとして、コマ、目、目の中のひかりなどを段階的にとらえるという議論
脚注におる「物語空間」というのがちょっと興味深かった

「物語世界」には含まれないような「仮想的なカメラ」を置くことができるような「空間」(p.332)

切りとるフレームとあふれたフレーム(中田健太郎

フレームというと「切り取る」ものと考えられることが多いが、あふれたものとして捉えるという論
あふれたフレームの具体例として「シール」をあげる
平面でありながら多層的であるあり方としての「シール」
絵の上に重なるフキダシ、スクリーントーン、コマそのものを実際にシールにしてしまった事例など
フレーミングとレイヤリング
フキダシによる多層性により、「超越論的イメージ」が作品空間に貼り付くことや時間の多重性
イメージの時間とフキダシの時間

マンガのコマはフキダシという治外法権地を認めつつ、テクストとイメージという相容れないはずのものを、「おなじ物質で」あるかのように同居させている。(中略)マンガのなかではさまざまな水準のものが、たとえば「経験的なイメージ」と「超越論的イメージ」が、唯物論的世界と観念論的世界が、実在のものと認識されるものが、ひとつの物質性のもとにとらえられているのだから。(p.358)

反復の悪夢――漫☆画太郎と出来事の連鎖(石岡良治

任意の時間を、階段→トラック→爆発というオートマティズムへとつなげてしまう恐ろしさ

終章 観察者の行方――ポスター、絵本、ストーリー・マンガ(鈴木雅雄)

マンガを視覚文化論の中に位置づけるために、ポスターや絵本と比較する
近代の視覚文化というか、美術は、ナラティブに奉仕しない芸術を目指したのだとグリーンバーグによって宣言されたが、いまや実際にそうではないことがわかっている
マンガは映画と比較されてきたが、それ以外にも、時間を生み出す近代のイメージとして、ポスターや絵本をあげる
そして、ポスターは「重ね合わせ」、絵本は「連結」、マンガは「並置」を手段としてきたいのではないかと論じている。

*1:eにアクサン