小池隆太のマンガ・アニメに関わる物語論関係の論考を読んでのよしなしごと

『マンガ研究13講』『マンガ探求13講』や『アニメ研究入門』『アニメ研究入門(応用編)』という本があり、未読ではあるのだが、いつか読みたいと思っていて目次だけは確認している。
その際、気になった論考がいくつかあるのだが、いずれの本の中にも小池隆汰という研究者がいて気にかかっていた。
で、しばらく放置していたのだが、最近になって何となく検索してみたら、論文がいくつかリポジトリで読めることが分かったのでざざっと眺めてみた。

この人の論文いくつか読んでた 自分のやりたかったことってフィクションの哲学よりナラトロジーだったのでは、という思いを新たにしている(以前も別の機会にそう思ったことがある) 自分の人生の中で、ナラトロジーに度々接近してるはずなのだが、なんかふわっとした接触のまま、ちゃんと向き合えてない気がする。 (多分、なんか具体的に作品分析しないと身につかないんだろうな……)

https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks55vxfwfs2n

アニメ関係

宮崎駿『ルパン三世 カリオストロの城』の物語 構造とキャラクターの移動/運動の関係について
宮崎駿『魔女の宅急便』の物語構造における「飛行」の意味について
宮崎アニメの分析は物語の構造論
プロットの要素を分析した上で、宮崎アニメにおける空間の上下の秩序と登場人物の上下移動の関係を論じている。
思い出のマーニー』論もあったけど、自分が未視聴なので未読

マンガ関係

マンガにおける「語り」の生成について ―つげ義春『ねじ式』における物語論的フレーム
羽海野チカ『ハチミツとクローバー』におけるコマ間内語
「声」 イメージがマンガの物語構造に与える影響について
コマ間内語の「位置」 -羽海野チカ『ハチミツとクローバー』第61話の分析

マンガの方は、マンガがどのような「距離の制御」を行っているかということを、視覚的フレームから物語論的フレームへの「変換」として論じる
「変換」を物語の生成と呼び、「視点」ではなく「物語の生成点」と呼ぶ。
視覚的フレーム上ではおかしいことを、物語論的フレームで解釈する。
結構難しいのだが、面白い。


どうしても自分の論にも引きつけたくなるのだが……
「分離された虚構世界」ってナラトロジーっぽいのではないか、と。
ウォルトンのフィクション論には生成原理というのが出てくるが、生成原理にもいくつかあって、物語世界が分離しちゃうことがあるよみたいな話なんだけど
生成原理の内実をゴリゴリ探求してきたのは、むしろナラトロジーなのでは、と。
作品から物語世界がどう立ち上がってくるか
あるいは、物語世界は作品(物語言説)を通してしかアクセスできないが、その不透明さは一体どんな仕組みによるものなのか
みたいなことで通じるところがあるのでは。
こっちの方がより詳細な分析ができる気がする。
やはり、自分がやるべきはフィクション論じゃなくて物語論だったのか……


ただ、なんでそんな視覚的フレームから物語論的フレームへの「変換」が可能なのか、というのは、メイクビリーブの出番のような気もする。
マンガ表現論があくまでも目に見えるところにとどまることに拘るのに対して、物語論的フレームという目に見えないものを導入することで、マンガにおける多層性みたいなものをよりうまく捉えているような気がする。
現実にマンガの紙面を見る、というのに対して、「物語の生成点」から物語世界を見る、という変換が起きていて、「物語の生成点」から見られた物語世界というのは紙面上に直接描かれてはいない(=目に見えない)んだけれど、メイクビリーブすることで、想像的に見えているのではってことで、フィクションの哲学により基礎付けができるのではないか、というのが、脊髄反射的な思いつきなんだけど。
まあ、思いつきなので、これで本当にうまくいくのかは検討してない。
あと、仮にうまくいくとして、これってナラトロジーにとって嬉しいものなのかどうか、よく分からない。