想像のobjectと想像のvividness

導入

最近になって、2月にこんなワークショップがあったことを知った。
https://fiction-4.jimdosite.com/

ワークショップ「フィクションの中へ没入の美学」
2024年2月10日 関西学院大学

  • 高橋幸平(同志社女子大学):フィクションの哲学における没入
  • 松永伸司(京都大学):フィクションがなまなましくなるとき

(スライド)
20240210_fiction_vividness.pdf - Google ドライブ
https://researchmap.jp/zmz/presentations/45585825/attachment_file.pdf
(同じファイルだと思いますが)

  • 小山内秀和(畿央大学):心理学は没入体験にどうアプローチできるのか
  • 岡田進之介(東京大学):没入のための制度としてのフィクション─情動的参与のためのデザインとその規範の観点から

(スライド)
https://researchmap.jp/shinokada/presentations/45570521/attachment_file.pdf


岡田スライドについては、また機を改めて触れるかもしれない。
松永スライドでは、ウォルトンのメイクビリーブ理論が、なまなましさ(vividness)の観点からまとめられている。
内容については、上にリンクした通りなので、スライドを確認してほしい。
この中で、なまなましさが何から由来するかで3つに分けているが、そのうちの2つ目として「「想像のオブジェクト」のなまなましさ」が挙げられている。
想像のオブジェクトからくるなまなましさについては、僕自身、『物語の外の虚構へ』に収録している「メディアを跨ぐヴィヴィッドな想像――『Tokyo 7th シスターズ』における「跳ぶよ」というセリフの事例から」と「2.5次元的実践はいかなるメイクビリーブか」とで論じている。
しかし、松永スライドを見て、改めて頭が整理された。
オブジェクトのこととかあまりうまく整理できておらず、「2.5次元的実践はいかなるメイクビリーブか」ではそのあたりの記述が、若干及び腰になっていたような気がしないでもない。

SNSからサルベージ

で、これに触発されて、SNSでポロポロ書いたのをサルベージしておく

話変わって…… ウォルトンはフィクションをメイクビリーブ(ごっこ遊び)という概念を通じて論じたのだけど 個人的にウォルトン論のポイントは、現実世界の事物がフィクションを生み出す、と捉えたことだと思う。 棒っきれを掴んで「この棒は伝説の剣なんだ」という時、自分が手にしているこの棒っきれという、現実にある事物から、伝説の剣というフィクションが生み出されている、と。 これはいわゆるごっこ遊びだけど、小説や絵とかもそうで、今自分の目の前にある本なり何なりから、フィクションは生み出されてる、と。
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks5a2hsh722l

ただ、ごっこ遊びは、棒を剣に見立てているけれど、小説を読んでいる時には、普通、本を何かに見立てているわけではない。 だから普通、小説を読むことはごっこ遊びだとは思われないし、ウォルトン論はここが分かりにくいところだと思う。というか、ほかの美学者でこの点にツッコミを入れてる人もいる。 で、ここからいま思いついたというか、気付いたことなのだが、プロップとオブジェクトという機能の区別をしてのけたのがポイントだったのか、と。 ごっこ遊びの場合、オブジェクトとプロップは必ず同じ事物が担ってるので、ごっこ遊びだけ見てると区別しがたい気がする
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks5ad2rlhk2v

小説の本は、プロップだけれども(大抵の場合)オブジェクトではない。 何かがフィクションを生み出している時、その時、その何かはプロップなのに対して、 何かがフィクションの何かに見立てられている時、その何かはオブジェクト、ということになるのでは? オブジェクトって、文字通り、何について想像しているのか=想像の対象のことなのだけど、この説明、すごく分かりにくい。 「◯◯についての想像」って、「◯◯(A)を他の何か(B)に見立てる想像」のことなのではないか、と。 単に「想像の対象」とか「◯◯についての想像」とかだと、(A)のことか(B)のことか分かりにくくなる
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks5as2t7q22s

例えば、ゴジラの映画では、スクリーンに映し出される映像は、ゴジラというフィクションを生み出すプロップだけど、オブジェクトじゃない。が、現実の東京をゴジラに壊される虚構の都市として想像するので、現実の東京はプロップじゃないけどオブジェクトになっている。 あるいは、指輪物語の映画の場合、ニュージーランドの山を中つ国の山に見立てて想像するので、ニュージーランドの山はオブジェクト。 逆に、小説の指輪物語においては、オブジェクトってない オブジェクトがなくてもメイクビリーブは出来る ただ、オブジェクトがあると、メイクビリーブはvividに(生々しく・実体的に)なる
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks5c26tc3k2r

この最後の、ゴジラ映画の例についてはあまり正確ではなかったので、この記事のかなり後ろの方で、修正している。

ウォルトンのオブジェクト概念、以前何某か書いて、しかし、結局よくわからないままになっていたよな、と思い、読み返してみた。 正直、この時の経験で「ウォルトンのオブジェクトわけわからん……」みたいになっていたのだけど、今読み返してみると、いや、当時の自分かなりきっちり検討しているのでは、と思い直した。 あんまり付け加えることない(俳優はあんまり表象の対象じゃないんじゃないかと思うけど) かなり攻略できた感じがするし、ここで未解決になってることは実際微妙なとこじゃないかなと思う(程度問題なのでは)
https://sakstyle.hatenadiary.jp/entry/20170410/p1

https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks75pypmaz25


先のポストで、似ているようで微妙に違うゴジラの例とロードオブザリングの例を出したわけだけど、これ、表象のオブジェクトと想像のオブジェクトの例にそれぞれ相当するなと気付いた(というか、表象のオブジェクトと想像のオブジェクトとがあるのをすっかり忘れてた) その上で、表象のオブジェクトは、想像のオブジェクトのうちの一種だろう、という認識です。
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks75vxbyos27

映画『ゴジラ』における東京は、(『ゴジラ』という)表象のオブジェクトであり、かつ想像のオブジェクトである(何かが表象のオブジェクトであるならば、それは必ず想像のオブジェクトにもなっている)。
映画『ロード・オブ・ザ・リング』におけるニュージーランドは、(『ロード・オブ・ザ・リング』という)表象のオブジェクトにはなっていないが、想像のオブジェクトにはなっている。

表象のオブジェクトと想像のオブジェクトを巡って

sakstyle.hatenadiary.jp

上述の記事は、ウォルトンのobjectという概念を巡っての議論を自分なりに追いかけたものである。
上述のポストにもある通り、思いのほか、2017年時点で自分もちゃんと検討していたようで、あまり付け足すことはない、というか、そんなに結論は変わらないのだが、改めて考えてみた。

2017年の議論の概要

さて、議論というのは、以下のようなものである。
ウォルトンの”Mimesis as Make-Believe”の、田村均による邦訳『フィクションとは何か』において、an object of imaginationとan object of a represenationという語の中に現れるobjectが、前者では「オブジェクト」、後者では「対象」と訳し分けられていたことについて、高田敦史がブログ内で、この2つをこのように訳し分ける必要はないのではないかと指摘し、それに対して、田村が応答、また、松永伸司も加わってなされたものである。


既に述べた通り、ウォルトンによれば、オブジェクトは、想像に対してvividnessを与えるわけだが、vividnessを与えることが、objectの定義に含まれるのかどうかで、田村と高田・松永の間で解釈の相違がある。
正確に言うと、田村は「想像のobject」については、vividnessを与えることが定義に含まれている(「ウォルトン的な意味」という独特な用法でobjectという語が用いられている)、「表象体のobject」については、含まれていない(一般的な意味でobjectという語が用いられている)。だから、objectを「想像のオブジェクト」「表象体の対象」と訳し分ける、という見解である。
これに対して、高田・松永は、確かにウォルトンは、vividnessを与えることがobjectの役割ないし効果であることを論じてはいるが、しかし、objectの定義としているわけではない(ウォルトン的な意味なる用法はない)。だから、どちらも対象と訳してよい、ということになる。

2017年の議論:『ワイアット・アープ』を例として

議論となっている事例として、俳優と登場人物の事例が挙げられている。
映画『ワイアット・アープ』は、実在の人物であるワイアット・アープを俳優のケヴィン・コスナーが演じているものである。
以下では、想像についても、表象についても、いずれもオブジェクトと訳すことにする。
また、田村はrepresentationを「表象体」と訳しているが、ここでは簡便のため「表象」とする。

  • 田村の解釈
想像のオブジェクト 表象のオブジェクト
ワイアット・アープ ×
ケヴィン・コスナー ×

映画『ワイアット・アープ』は、アープについての虚構を生成しているので、アープが『ワイアット・アープ』という表象のオブジェクトになっている。が、アープが、観客の想像にvividnessを与えているわけではないので、アープは、想像のオブジェクトではない(少なくともウォルトン的な意味では想像のオブジェクトではない。志向性の標準的な見解では想像のオブジェクトになっていることは認めている)。
映画『ワイアット・アープ』は、ケヴィン・コスナーについての虚構を生成しているわけではないので、コスナーは表象のオブジェクトではない。が、コスナーは、観客の想像にvividnessを与えているので、コスナーは、想像のオブジェクトである。
すなわち、表象のオブジェクトと想像のオブジェクトは、外延も一致しないし、別の概念であり、ここでのオブジェクトはそれぞれ違う意味で用いられている。

  • 松永の解釈
想像のオブジェクト 表象のオブジェクト
ワイアット・アープ
ケヴィン・コスナー

松永は「ケヴィン・コスナーが表象の対象ではない(コスナーについての虚構的真理が生成されない)という見解に同意できない」と述べている。
『ワイアット・アープ』はコスナーについての虚構も生成しているので、コスナーは表象のオブジェクトにもなっている。
このケースにおいて、両者の外延は一致するし、オブジェクトという言葉が異なる2つの意味で使い分けられてはいない。

  • 高田の解釈
想像のオブジェクト 表象のオブジェクト
ワイアット・アープ
ケヴィン・コスナー ×

映画『ワイアット・アープ』の観客は、アープについての想像もしているし、コスナーについての想像もしているので、アープもコスナーも共に想像のオブジェクトである。
一方で、映画『ワイアット・アープ』は、ケヴィン・コスナーについての虚構的真理は生成していないので、コスナーは表象のオブジェクトではない。
田村は、表象のオブジェクトと想像のオブジェクトがそもそも一致していないことを示して、この2つのオブジェクトという語の意味が異なると論じているのに対して、松永と高田はこれらが一致しうることを示して、オブジェクトという語の意味は同じであると論じている。
その上で、高田は、アープ(登場人物)が想像のオブジェクトか否かの点で、田村と解釈が異なっており、
コスナー(俳優)が表象のオブジェクトか否かの点で、松永と解釈が異なっている。
前者について高田は、そもそも田村自身が、表象のオブジェクトと想像のオブジェクトが一致することがあることを認めている(『キングコング』のニューヨーク)ことを指摘している。また、アープについて、ウォルトン的な意味での想像のオブジェクトになりうるのではないかとコメントしている。同様のコメントは、かつて自分もしていた。
後者について高田は、ウォルトンが俳優が表象の対象になると明示的に述べているのは、俳優が反射的表象になっている時に限られ、一般的に、俳優は表象の対象にはならないのではないか、と述べている。
ただし、ここはすごく微妙なところである。
松永は、『ワイアット・アープ』はコスナーについての想像を命じているのであり、だから、コスナーについての虚構的真理を生成しており、コスナーは表象の対象であると述べている。
そして、高田も、『ワイアット・アープ』がコスナーについての想像を命じていることは成り立ちそうであると述べつつ、しかし、これに相当することをウォルトンは何も触れていないことを指摘している。
というか、高田は、ウォルトンは、この点を見逃したが、何らかの論点先取的な想定をしたか、あるいは、想像の命令による虚構的真理の定義を撤回したかしていて、コスナーについての虚構的真理なるものを想定していないだろう、として、解釈がかなり困難な箇所であると論じている。

2017年の議論に対する今現在の自分の見解

さて、話戻っていて、今現在の自分の見解なのだが
正直、ウォルトンの記述に全く立ち戻っていないし、松永スライドに触れて、ふと思い返してみただけ、という状況で何をいうのか、という感じではあるが、
高田解釈が一番納得がいくなと思った。

例えば、ゴジラの映画では、スクリーンに映し出される映像は、ゴジラというフィクションを生み出すプロップだけど、オブジェクトじゃない。が、現実の東京をゴジラに壊される虚構の都市として想像するので、現実の東京はプロップじゃないけどオブジェクトになっている。 あるいは、指輪物語の映画の場合、ニュージーランドの山を中つ国の山に見立てて想像するので、ニュージーランドの山はオブジェクト。

と書いたが、
この時、「現実の東京をゴジラに壊される虚構の都市として想像する」と書いたが、ここで虚構の都市と書いたのだが、「東京がゴジラに壊されているところを想像する」と書いた方がよい。
ゴジラ』は、東京についての虚構的真理を生成しており、東京は表象のオブジェクトになっている。
そしてまた、観客は東京についての想像をしているので、東京は想像のオブジェクトにもなっている。
一方、『ロード・オブ・ザ・リング』のニュージーランドの山についてだが、これは実際はかなり複雑である。
ニュージーランドの山を中つ国の山に見立てて想像する」
(a)ニュージーランドの山は、中つ国の山についての虚構的真理を生成している(プロップである)
(b)観客は、ニュージーランドの山が中つ国の山であることを想像する(想像のオブジェクトである)。
(c)しかし、『ロード・オブ・ザ・リング』はニュージーランドの山についての虚構的真理は生成していない(表象のオブジェクトではない)。

俳優は表象のオブジェクトなのか

うーん……?
この(c)はやはり怪しいな。
ここは、高田・松永の解釈が分かれているところであり、高田がいうように、コスナーやニュージーランドの山についての虚構的真理は生成されていない、というのは一見正しいようにも思うのだが、
松永が言うように、虚構的真理と作品世界内で成り立っていることは区別すべき、という指摘も正しいように思う。というか、そもそも自分の「フィクションは重なり合う」はまさにそれを前提にした議論である。
表象のオブジェクトという時に、表象が生成する虚構的真理全般についていっているのか、作品世界内で成り立つ虚構的真理のみについていっているのか。
MMBでのメイクビリーブ理論を文字通り適用すると、表象作品は、作品世界内では成り立つ虚構的真理だけでなく、作品世界内では成り立っていない虚構的真理も生成している、ということが導かれるのだが、ウォルトン自身がその点を割と軽視しているのではないか、と思われるきらいがある。
で、論文「フィクショナリティと想像」で少し考えを修正しているっぽいのだが、それがうまい修正なのかどうかもよくわからない。
さて、そんなわけで、やはり松永解釈の通り、『ワイアット・アープ』はゲヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成している、と考えたい。
がしかし、高田が以下のように指摘していることも考える必要がある。

もし、俳優が一般に表象の対象でもあるのだとすると、定義上、ほとんどの俳優は反射的表象になるだろう。しかしウォルトンが反射的表象の例にあげているのは、レーガンの役を演ずるレーガンだ(p.211, 訳p.212)。「レーガンが俳優であるという事実は、レーガンを表象体の対象とすることにほとんど関係がない」とも言われている(p.212, 訳p.212)。俳優一般を反射的表象だと考えているようにはとても見えない。また別の箇所では、俳優は「演技によって虚構的真理を生成する」とも言っているが(p.243, 訳p.244)、俳優についての虚構的真理を生成するという言い方はしていない。

レーガンレーガン役を演じている作品が何か知らないので、ここでは例を『マルコヴィッチの穴』に変える。
『ワイアット・アープ』がケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成するあり方と、
マルコヴィッチの穴』がジョン・マルコヴィッチについての虚構的真理を生成するあり方は、確かに異なっているように思える。
この違いは、松永が指摘するように、『ワイアット・アープ』が生成するコスナーについての虚構的真理は、しかし『ワイアット・アープ』の作品世界内で成り立っているわけではないのに対して、『マルコヴィッチの穴』が生成するマルコヴィッチについての虚構的真理は、『マルコヴィッチの穴』の作品世界内で成り立っている、という違いである。


これをもう少し整理する方法はないか。
拙論「2.5次元的実践はいかなるメイクビリーブか」において「反射的プロップ」「非反射的プロップ」という概念を提案した。
これは、クレヴィアーがプロップを反射性を有するかどうか(=自己表象するかどうか)という観点で分類したことに由来する、シノハラによる造語である。
クレヴィアーはプロップが作品世界を持つかどうかと、反射性を有するかどうかを対応させている*1
ごっこ遊びで用いられる棒や人形は、反射的プロップである。
それに対して、絵画や小説などの表象作品は、基本的には非反射的プロップである。
ここで「基本的には」という制限をつけているのは、例えば小説『はてしない物語』のような作品は、自己表象している=反射的だからである。
(つまり「表象作品であるならば、非反射的プロップである」は成り立たない。しかし、「非反射的プロップであるならば、表象作品である」は成り立つように思われる。単に反例を思いついていないだけかもしれないが)


ここで問題を複雑にするのは、演劇作品や映画作品における、俳優や小道具、舞台セットあるいはロケ地である。
俳優や小道具、舞台セットあるいはロケ地は、それぞれ反射的プロップである。
ごっこ遊びの棒が反射的プロップなのは、その棒が「この棒は伝説の剣である」という棒についての虚構的真理を生成しているからである。これは、俳優や小道具、舞台セットあるいはロケ地にも同様に当てはまる)
しかし、演劇作品や映画作品そのものは、(普通は)反射的プロップではない。
普通、ある映画Aは「この映画AはBという何某かである」という虚構的真理は生成しないからである(メタフィクション的な作品の場合、この限りではない)。
さて、映画『ワイアット・アープ』がケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成するとは一体どういうことかというと、
映画『ワイアット・アープ』の部分をなす俳優ケヴィン・コスナーが、ケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成している、といえるのではないだろうか
かつ、映画『ワイアット・アープ』において俳優ケヴィン・コスナーを除く他の部分は、必ずしもケヴィン・コスナーについての虚構的真理は生成していない、ということなのではないだろうか。
つまり、映画『ワイアット・アープ』の”部分”が、コスナーの虚構的真理を生成している、という限定的な意味において、確かに『ワイアット・アープ』はコスナーの虚構的真理を生成しているとはいいうるが、しかし、コスナーが『ワイアット・アープ』という表象のオブジェクトである、とまでは言えないのかもしれない。
というか「レーガンが俳優であるという事実は、レーガンを表象体の対象とすることにほとんど関係がない」という記述に対して整合するように解釈するとこうなるのではないか。
一方で、映画『マルコヴィッチの穴』は、俳優マルコヴィッチは当然として、俳優マルコヴィッチを除く他の部分も含めて、マルコヴィッチについての虚構的真理を生成しているのであり、その意味で、マルコヴィッチは『マルコヴィッチの穴』という表象のオブジェクトにもなっている。
(直観的にいうと、『マルコヴィッチの穴』はマルコヴィッチについての表象だが、『ワイアット・アープ』はコスナーについての表象ではない、となる。ただし、『ワイアット・アープ』という表象の一部分だけを取り上げると、それはコスナーについてのプロップになっている、という感じ(なお、表象はプロップの一種なので、表象もまたプロップである。表象以外にもプロップは色々ある。俳優はプロップではあるが、表象ではない)
そして、マルコヴィッチが『マルコヴィッチの穴』という表象のオブジェクトになっている時、俳優のマルコヴィッチは反射的表象である。
(上で、俳優は表象ではないと述べた矢先に、俳優マルコヴィッチは反射的表象である、と述べているのは矛盾もいいところである。この用語法はおかしいので本当はどうにかしたいが、とりあえず今はいい方法が思いつかないので放置する)
しかし、映画『マルコヴィッチの穴』は反射的表象ではない*2


演劇作品や映画作品といった表象は、それ自体は非反射的なプロップである。
ところが、その構成要素である俳優や小道具、ロケ地などの部分は反射的プロップである。
そして、個々の構成要素がそれのみで生成する虚構的真理と、構成要素同士が組み合わさった状態で生成する虚構的真理とがあり、それらの虚構的真理は、必ずしも同一世界上で成り立つとは限らない。
演劇作品や映画作品といった表象を、部分と全体とで区別するという発想は、おそらくウォルトンにはない。
また、個人的にも今色々考えている中で、ふと思いついたアイデアなので、本当にこれでうまくいくのかどうかは分からない。
しかし、俳優ケヴィン・コスナーがコスナーについての虚構的真理を生成することと、「レーガンが俳優であるという事実は、レーガンを表象体の対象とすることにほとんど関係がない」という記述とを整合させるにあたっては、このような解釈が可能なのではないかと思う。
また、メイクビリーブ理論から帰結すると思われる「『ワイアット・アープ』はゲヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成している」については、「『ワイアット・アープ』の部分がゲヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成している」という修正が余儀なくされるが、この修正はさほど問題がないのではないか。

想像のオブジェクトとvividness
  • 十分性について(表象なし・想像のオブジェクトのみでvividではない想像の可能性)

ところで、田村と高田の対立点として、「想像のオブジェクト」にウォルトン的意味なるものはあるのか、ということがあった。
これについて田村は、『ワイアット・アープ』におけるワイアット・アープは、表象のオブジェクトにはなっているが、ウォルトン的意味で想像のオブジェクトにはなっていない。何故なら、アープは想像にvividnessを与えていないから、と述べている(なお、標準的な意味であれば、アープが想像のオブジェクトであることを認めている)。
対して高田は、アープが想像にvividnessを与えていると考えることもできるのではないか、と反論している。
ところで、我々は、ワイアット・アープについて、『ワイアット・アープ』という表象なしでも想像することができる。例えば、もし21世紀現在のロサンゼルスにワイアット・アープが蘇ったら、というような想像である。この時、アープはこの想像のオブジェクトになっている。
しかし、この想像がvividなものであるかは保証されない。全然vividではない想像にしかならない、ということは十分考えられる。
想像のオブジェクトではあるが、想像にvividnessを与えないものはあるのである。想像のオブジェクトであることは、想像にvividnessを与えることの十分条件ではない。
もっとも、田村はオブジェクトの標準的な意味での用法を認めるので、その場合のアープは、標準的な意味では想像のオブジェクトだけど、ウォルトン的な意味では想像のオブジェクトではないのだ、と答えることはできる。
田村の訳し分けにのっとれば、アープは想像の対象だが、想像のオブジェクトではない、ということになる。
しかし、これは英語だとどちらも、an object of imaginationである。何の注釈も定義もなしに、全く同じ単語に2つの意味があると読んでしまっていいのだろうか。
想像のオブジェクトという語を、標準的な意味で使っている時とウォルトン的な意味て使っている時がある、と考えるよりは、想像のオブジェクトは、想像にvividnessを与えることもあるし与えないこともある、と考えた方が分かりやすいだろう、と。

  • 必要性について(オブジェクトはないがvividな想像の可能性)

ところで、想像がvividになるために、想像のオブジェクトは必要条件になっているのか、という問題もあるが、これも答えは否だと思われる。
松永スライドにもどると、自然発生的な想像はvividな想像になりやすい、ということが紹介されている。
自然発生的な想像にとって、オブジェクトは必要ではない。
例えば、写実的な画風で描かれたドラゴンの絵画を見て、思わずそのドラゴンの鋭い爪を恐れるようなvividな想像をしたとしよう。
しかし、この時、この想像に想像のオブジェクトは存在していない。
注意しなければならないのは、そのドラゴンは想像のオブジェクトではないということである。
「そのドラゴンについて想像している」と言いたくなるが、これは正しくはない。
正しくは「「そのドラゴンが鋭い爪で人に襲いかかっている」ことや「私はそのドラゴンに恐れを抱く」ことを想像している」となる。
想像のスコープ内では、そのドラゴンはオブジェクト(対象)になりうる。例えば、私の想像のうちでは、そのドラゴンは恐怖のオブジェクト(対象)になっている=そのドラゴンについて恐怖している。しかし、私は現実世界で、そのドラゴンについて恐怖しているわけではない(というか、現実世界に恐怖の対象は存在していない)。
想像するという行為は、現実世界で行っている行為なので、そのオブジェクトも現実世界に存在している。
あるいは、 「◯◯についての想像」とは「◯◯(A)を他の何か(B)に見立てる想像」のこと論法をここで適用してみよう。
繰り返すが、棒を使ったごっこ遊びをしているとき、棒を剣に見立てている=棒が剣であることを想像している=棒についてそれが剣であるように想像している。
一方、ドラゴンの絵画を見ながら「そのドラゴンが鋭い爪で人に襲いかかっている」ことを想像している時、そのドラゴンを何かに見立てている=そのドラゴンが何かであることを想像している、わけではない。つまり、これはドラゴンについての想像ではないのである。
(棒のごっこ遊びで敷衍してみると、棒が剣であることを想像しているといえても、剣が棒であることを想像している、とはいえない。想像の内容の中にしか出てこないものは、想像のオブジェクトにはならない)
しかし、そうでありながら、「そのドラゴンが鋭い爪で人に襲いかかっている」ことや「私はそのドラゴンに恐れを抱く」ことの想像は、vividな想像になることができる。
そのドラゴンについて描かれた絵画が、優秀な想像のプロンプターになっていて、思わず想像してしまう時、それはvividな想像だと言える。
ここに想像のオブジェクトは必要ではない。

2017年の議論に対する結論

想像のオブジェクトという概念は、ウォルトン理論にとって重要な位置を占めており、その重要性の理由の一つは、オブジェクトが想像にvividnessを与えることが多いから、というのは確かだと思う。
しかし、メイクビリーブゲームにおけるvividな想像にとって、想像のオブジェクトの存在は、十分条件でも必要条件でもない。
つまり、想像がvividになるかどうか、と、想像にオブジェクトがあるかどうかは、それぞれ独立している。
とはいえ、往々にして、想像のオブジェクトが想像のvividnessにかかわっていることは確かだし、また、想像にvividnessを与えるために想像のオブジェクトが利用されることもある(そうした事例を確かにウォルトンはいくつか挙げている)
というわけで、重要性と定義は分ける、という点で、2017年の話と同じ。

今回SNSにポストした内容への訂正

例えば、ゴジラの映画では、スクリーンに映し出される映像は、ゴジラというフィクションを生み出すプロップだけど、オブジェクトじゃない。が、現実の東京をゴジラに壊される虚構の都市として想像するので、現実の東京はプロップじゃないけどオブジェクトになっている。 あるいは、指輪物語の映画の場合、ニュージーランドの山を中つ国の山に見立てて想像するので、ニュージーランドの山はオブジェクト。
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3ks5c26tc3k2r

うーん、これ、現実の東京はプロップじゃないって書いたけど、つまり、プロップとオブジェクトが一致していない例としてあげたかったんだけど、微妙かもしれない。
東京をロケ地として撮影している以上は、その限りにおいて、東京もプロップになっているのでは。少なくとも『シン・ゴジラ』の立川とかは。
一方、シャーロック・ホームズの小説を用いたメイクビリーブゲームにおいて、現実のロンドンがプロップになっているかといえば、おそらくなっていないだろう。

ケース・スタディー

かなり色々なケースを色々と考えないといけない。

棒は、反射的プロップである(棒は、棒自身についての虚構的真理を生成している)。
ゆえに棒は、想像のオブジェクトでもある。
このメイクビリーブゲームには、表象は関わっていない(作品世界はない)。
棒は、この想像にvividnessを与えている。

  • (2)切り株ゲームにおける、藪に隠れた切り株

切り株は、反射的プロップである(切り株は、切り株自身についての虚構的真理を生成している)。
ゆえに切り株は、想像のオブジェクトでもある。
このメイクビリーブゲームには、表象は関わっていない(作品世界はない)。
しかし、この切り株が藪に隠れた状態で、ゲームの参加者が全く知覚していない場合、この想像にvividnessを全く与えていないかもしれない。

ロンドンは、表象のオブジェクトである(ロンドンについての虚構的真理がある)。
ゆえにロンドンは、想像のオブジェクトでもある。
ロンドンは、プロップではない(ロンドンについての虚構的真理を生成しているのはロンドン自身ではない。「シャーロック・ホームズ」シリーズの小説が、ロンドンについての虚構的真理を生成している)。
ロンドンは、「シャーロック・ホームズ」シリーズの想像に、vividnessを与えている。

東京は、表象のオブジェクトである(東京についての虚構的真理がある)。
ゆえに東京は、想像のオブジェクトでもある。
東京は、反射的プロップにもなっている(東京についての虚構的真理を(撮影されている範囲内においては)東京も生成している)。
東京についての虚構的真理は、『シン・ゴジラ』の作品世界内でも成り立っている。『シン・ゴジラ』という表象が、東京についての虚構的真理を生成している。
だから、『シン・ゴジラ』の撮影に用いられた東京は反射的表象だともいえる。
なお、『シン・ゴジラ』自体は反射的表象ではない。
東京は、『シン・ゴジラ』の想像に、vividnessを与えている。

ニュージーランドは、想像のオブジェクトである。
また、ニュージーランドは、反射的プロップでもある。
しかし、ニュージーランドについての虚構的真理は、『ロード・オブ・ザ・リング』の作品世界内では成り立っていないし、『ロード・オブ・ザ・リング』という表象はニュージーランドについての虚構的真理は生成していない(『ロード・オブ・ザ・リング』の部分(であるニュージーランド)がニュージーランドについての虚構的真理を生成している)。
ゆえに、ニュージーランドは、表象のオブジェクトだとは言い難いかもしれない。
ニュージーランドは反射的表象ではない。
ニュージーランドは、『ロード・オブ・ザ・リング』の想像に、vividnessを与えている。

  • (6)映画『ワイアット・アープ』におけるワイアット・アープ

ワイアット・アープは、表象のオブジェクトである。
ゆえにアープは、想像のオブジェクトでもある。
アープは、反射的プロップではない(アープは、アープ自身についての虚構的真理を生成していない)。
アープは、『ワイアット・アープ』の想像に、vividnessを与えていない(ことの方がおそらく多い)。

コスナーは、想像のオブジェクトである。
また、コスナーは反射的プロップにもなっている(コスナーについての虚構的真理をコスナーは生成している)。
しかし、コスナーについての虚構的真理は、『ワイアット・アープ』の作品世界内では成り立っていないし、『ワイアット・アープ』という表象はコスナーについての虚構的真理は生成していない(『ワイアット・アープ』の部分(であるコスナー)がコスナーについての虚構的真理を生成している)。
ゆえに、コスナーは、表象のオブジェクトだとは言い難いかもしれない。
コスナーは反射的表象ではない。
コスナーは、『ワイアット・アープ』の想像に、vividnessを与えている。

マルコヴィッチは、表象のオブジェクトである(マルコヴィッチについての虚構的真理がある)。
ゆえにマルコヴィッチは、想像のオブジェクトでもある。
マルコヴィッチは、反射的プロップにもなっている(マルコヴィッチについての虚構的真理をマルコヴィッチも生成している)。
マルコヴィッチについての虚構的真理は、『マルコヴィッチの穴』の作品世界内でも成り立っている。『マルコヴィッチの穴』という表象が、マルコヴィッチについての虚構的真理を生成している。
だから、『マルコヴィッチの穴』の撮影に用いられたマルコヴィッチは反射的表象だともいえる。
なお、『マルコヴィッチの穴』は、『マルコヴィッチの穴』についての虚構的真理は生成していないので、反射的表象ではない。
マルコヴィッチは、『マルコヴィッチの穴』の想像に、vividnessを与えている。

指輪物語』を用いたメイクビリーブゲームにおいて、表象のオブジェクトも、想像のオブジェクトも存在しない。
ただし、何らかの要因が『指輪物語』の想像に、vividnessを与える可能性はある。

はてしない物語』は、『はてしない物語』自身についての虚構的真理を生成している。
ゆえに、『はてしない物語』は、表象のオブジェクトであり反射的表象である。
すなわち、『はてしない物語』は想像のオブジェクトでもあるし、また、反射的プロップでもある。
はてしない物語』は、『はてしない物語』の想像に、vividnessを与えている。

  • (11)表象ぬき想像のアープ

表象なしにアープについて想像する。アープは想像のオブジェクトだが、この想像はvividではない。

  • (12)あるドラゴンの絵についての想像

表象のオブジェクトも想像のオブジェクトはないが、vividnessは生じる

プロップ 反射的プロップ 反射的表象 想像のオブジェクト 表象のオブジェクト vividnessの要因
(1)棒 なし
(2)隠れた切り株 なし ×?
(3)「ホームズ」ロンドン × × ×
(4)『ゴジラ』東京
(5)『LOtR』ニュージーランド × ×
(6)『ワイアット・アープ』アープ × × × ×?
(7)『ワイアット・アープ』コスナー × ×
(8)『穴』マルコヴィッチ
(9)小説『指輪物語 × × なし なし
(10)小説『はてしない物語
(11)表象なしのアープ想像 なし なし なし なし ×?
(12)あるドラゴンの絵 × × なし なし

※オブジェクト以外の要因がvividnessを与えうる


想像のオブジェクトになっている場合、vividnessを与えていることが多い。
が、vividnessを与えないだろうと思われるケースもあって、それはいずれも、ゲームの参加者が知覚できないオブジェクトの場合である。
これは想像のオブジェクトが何故想像にvividnessを与えるのかといえば、それは参加者が見知ったものだから、という理由による。
アープは、歴史上実在した人物ではあるが、『ワイアット・アープ』の鑑賞者は本物のアープを見たことはないだろう。だから、アープはvividnessを与えない、ということ。
ただ、このあたりは、場合による気がする。

最後に

  • 反射的プロップは必ず想像にvividnesを与えるか

実はこの話をするにあたり、「反射的プロップ」という自分の造語をわざわざ持ち出したのは、表象のオブジェクト問題を解釈するため、という理由もあるが、あわよくば、反射的プロップがvividnessの十分条件になりはしないだろうか、という思惑があった。
Aが想像のオブジェクトであることだけでは、Aについての想像がvividになることの十分条件にはならないが、
Aが反射的プロップである(ならば、必然的にAは想像のオブジェクトでもある)ことが、Aについての想像がvividになることの十分条件になる、
といえると、個人的には自分の理論のうまみになる、と思ったのである。
しかし、Aが反射的プロップであっても、想像がvividにならない例がありそう(上述の、藪に隠れた切り株の例)なので、この思惑はかなわなかった。
一方で、今回考えた例は、上述の通り、オブジェクトが知覚できていない場合は想像がvividにならない、と知覚できるかどうかを結びつけたのだが、ここも正直、これが必要条件といえるのかどうか、あまり自信がない。

  • 歴史上の人物と想像のvividness

また、アープは想像のオブジェクトではあるが、想像にvividnessを与えない、という見解を、ここではとってみたが、歴史上の人物が想像にvividnessを与えないのかどうか、あまりよい直観がない。

  • vividな想像を考える上で

結局、何かが想像のオブジェクトなのかどうか、ということはわりとはっきり言えるが、
そもそも、ある想像がvividな想像になっているかどうかについては、その条件をはっきり言うことはできないのではないか。
個別に、これはvividな想像になっているか、なっているとしたら何故だろうかという時に、個別にその源泉を見ていくことはおそらく可能であり、そのときの指標として、松永スライドにある通り、自然発生的な想像であるか、想像のオブジェクトがあるか、de se的想像であるか、あたりを用いることはできる。
しかし、これらは、必要条件にも十分条件にもなっていない。
これがあれば必ず想像がvividになる、とか、想像がvividになっているならば必ずこれがある、とは言えないのだろう。
とはいえ、上述の指標は、vividな想像と深い関わりがあるのは確かなので、制作者がvividな想像をさせたいと考えた時に、利用することは可能だろう。
この点において、僕はフィクションの哲学に実用性がある、と思っている。

*1:厳密に言うと、クレヴィアーのいう世界とウォルトンのいう作品世界は別の概念ではあるが……

*2:確かそうでなかったと思うが、もし作中に映画『マルコヴィッチの穴』が登場しているならばその限りではない