ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』(田村均訳)

サブタイトルは「ごっこ遊びと芸術」
Kendall L. Walton "Mimesis as Make-Believe :On the Foundations of the Representational Arts" - logical cypher scapeの邦訳であり、1年程前に出ていたのだが、ようやく手に取ることができた。
が、まあなにぶん長い本であることと、一応、原著は既に読んだことがあるので、邦訳についてはとりあえず、特に気になるところだけを抜き出して読んだ。
以下、内容のまとめというよりは、改めて読んだ感想など。

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

序章

第I部 表象体

第1章 表象体とごっこ遊び
1 想像の働き/2 想像を促す事物/3 想像活動のオブジェクト/4 自分自身についての想像/5 小道具と虚構的真理 /6 小道具を介さない虚構性——夢と白昼夢/7 表象体/8 非写実的な芸術/9 虚構世界/10 ごっこ遊びという魔法

第2章 フィクションとノンフィクション
1 ノンフィクション/2 虚構と現実/3 言語的戦略/4 虚構と断定/5 発語内行為のふりをすることと発語内行為を表象すること/6 発語内行為としての虚構制作?/7 混合体、中間形態、多義性、不確定性/8 伝説と神話/9 真理と実在についての覚書/10 二種類のシンボル?

第3章 表象の対象
1 対象とは何か/2 表象体と一致関係/3 決定する要因/4 表象と指示/5 対象の使い道/6 反射的表象体/7 対象は重要ではない/8 非現実の対象は?

第4章 生成の機構
1 生成の原理/2 直接的生成と間接的生成/3 含意の原理/4 直接的生成の機構/5 愚かな問い/6 いろいろな帰結

第II部 表象体の鑑賞体験

第6章 謎と問題点
1 ヒロインを救い出す/2 虚構を恐れる/3 虚構性とその他の志向的特性

第6章 参加すること
1 子どもたちの遊びへの参加/2 参加する者としての鑑賞者/3 言語的な参加/4 参加に関する制約/5 聴衆への脇台詞/6 見られないものを見ること

第7章 心理的な参加
1 虚構として恐れること/2 心理的に参加する/3 悲劇のパラドックス/4 サスペンスとサプライズ/5 参加することの眼目/6 参加なき鑑賞

第III部 様相と様式

第8章 絵画的描出による表象
1 描出体の定義/2 絵を見ることと物を見ること/3 描出の表現様式/4 写実性/5 様相横断的な描出/6 音楽的な描出/7 視点(描出体における)/8 結論

第9章 言語的表象体
1 言語による描出/2 語り/3 二種類の信頼性/4 言葉にならない語り/5 不在の語り手と消された語り手/6 物語を語る語り手/7 仲立ち/8 語りによる表象体の視点

第IV部 意味論と存在論

第10章 架空の存在者をしりぞける
1 問題/2 虚構世界の内側で虚構世界について語ること/3 通常の言明/4 非公式のごっこ遊び/5 他のさまざまな形/6 論理形式

第11章 存在
1 暴露と不同意/2 存在と非存在についての主張

謝辞
訳者解説

第1章 表象体とごっこ遊び 3 想像活動のオブジェクト/第3章 表象の対象

ウォルトンにおける想像のobjectについて - logical cypher scape
こういうのがあったので、読み返しておかないとなあと思ったところだけど、まあかかわりのありそうなところは、以前読み返していたのでまあ特段に書くこともないかも。
表象と指示(reference)の関係をめぐって色々と書かれていて、グッドマンとの比較も書かれている。

第1章 表象体とごっこ遊び 4 自分自身についての想像 /6 小道具を介さない虚構性——夢と白昼夢

このあたりは、原著を読んだ際にあんまりよく分からなかった部分だったので、日本語で読み直し。

自分自身についての想像

自分自身についての想像は、キングスカレッジの火事のあたりと、ナポレオンのあたりが英語で読んだときによく分からなかった部分であった。
キングスカレッジについては、想像のオブジェクトについて疑いが生じない例として挙げられているが、自己想像とは違って、キングカレッジの想像においては、誤りが生じうるけれど、自己想像はこの手の誤りは生じないというような話っぽい
ナポレオンの方は、形而上学的に不可能なことを想像できるのはおかしいという反論に対して、対策を色々挙げているような感じ
訳語について、imagination de seは自己想像と訳されている。
あと、読んでいた当時よく分からなかったmode of presentationは現前の様態と訳されていた。訳語が分かってもよく分からないけど……。

夢と白昼夢

夢と白昼夢は、小道具はないけれど、夢の中でも一応規則みたいなものがあって、虚構的真理が生じているよねーみたいな話

第7章 心理的な参加 6 参加なき鑑賞

この部分はとても面白い。
ウォルトンは鑑賞を基本的に、鑑賞者による参加と考えるが、参加しないような鑑賞もまた鑑賞であり、参加という概念がかかわっているとする。
例えば、メタフィクションや、原著の表紙にもなっているピカソによる『雄牛の頭部』など
メタフィクションは、虚構であることを読者に思い出させる。
『雄牛の頭部』は、自転車のサドルとハンドルで作られた作品で、サドルとペダルであることは明らか。しかし、最小限それが牛の頭であるというごっこ遊びに参加しなければ、作品を鑑賞したとは言えない。

装飾的な織物のデザインなどについて

装飾的な紋様として花、木の実、木の葉、蔓などの具象的な形が用いられているとき、図7-2にあるように、それらは意匠として強く印象付けられ、ごっこ遊びへの本格的な参加は抑圧される。名ばかりの参加は容易だが、その遊びに夢中になることはまずない。(中略)小道具として使われうる図形たちが集まって、見た目に面白くて視線をくぎ付けにするような様式を作り出すやり方の方から強い印象を受け取るのである。(p.280)

交通標識について

こちらはもう、名ばかりの参加すらしてない。

運転者はたんにメッセージを受け取り、その勧告を受け入れる。だが、それにもかかわらず、そのアイコンがメッセージを伝えていると容易に理解できるのは、それが、ある種のごっこ遊びの中で、小道具として使用できることが明らかだからなのである。(p.281)

しかし、そうはいっても、交通標識は想像活動を命令しているようには見えない。
ここで、「装飾的な表象体」という概念が出てくる。
例えば、ガラスケースの中に飾ってあるような装飾的な「椅子」があるとして、これは実際には座るためには供されないけれど、それを理解しながらも、座るということを前提に見られる。座ることを想像する。
これが、飾り物的・装飾的という意味合い
装飾的な表象体も、ごっこ遊びの小道具としてつかわれないけれど、小道具として使用するところを想像する。つまり、反射的表象体ともなっている。

装飾的な花や蔓の意匠を見る場合、私たちは、虚構的に花や蔓を見ているという以上の参加を想像することはないだろう。しかし、少なくともそんな最小限のごっこ遊びにおいて用いられるということが、その意匠の機能である、と想像することはありうる。その意匠は、この創造活動を命令するかぎりにおいて、それ自身を表象体として表象しているのである。(p.284)

想像活動を禁止したり妨げたりする表象体は、装飾的な表象体だけれど、全面的に妨げるわけではなくて、一方では、通常の表象体と同じように想像もさせる。メタフィクションは、その物語が単に虚構でしかないことを明らかにして想像を妨げるけれど、一方で、その物語に没頭させるような想像もさせる。

この二つの虚構的真理が同一の虚構世界に属するのを許容したいとは思わない。それゆえ、二つの別個な虚構世界を認めることにしよう。(中略)この小説を用いて行われる二つの別個なごっこ遊びが存在する。読者は、この二つの間を往ったり来たりするのである(p.286)

また、スタインバーグの描いた、自分が使っているテーブルを自分で描いている男の絵や、ウォーターゲート事件の頃の『ニューズウィーク』誌の表紙で、テープとリールがまるでニクソンの顔のように見えるように配置された写真などを、二つの別個のごっこ遊び・虚構世界が交互に入れ替わっている例として、さらに挙げている。
装飾性の価値としては、虚構に対して「距離感」を与えること、経験を観察すること、経験を想像することを想像することなどを挙げている


第8章 絵画的描出による表象

グッドマンとウォルハイムを参照し批判しつつ、ごっこ遊びによる描出depictionの説明を行っている。
絵と現実世界が類似しているのではなく、絵を調べることと現実世界を調べることが類似しているのだという。
グッドマンのいう稠密性は、この調べることの類似性によって生じている
が、絵は必ずしも稠密でなくてよいし、絵の稠密性には限界がある、とも指摘している。
また、グッドマンの議論では区別できないものとして、ウォルハイムの言う「体系的に混ぜこぜにされた表象体」を挙げる。混ぜこぜの絵でもごっこ遊びをすることはできるが、明らかに影響を受ける。正常な体系の絵を調べることの方が、現実世界を調べることによく似ている。
グッドマンの理論だとこのふたつは区別できない。
ところで、これについて、エリオット・ソーバーの言うところの「透明性」において、このふたつは異なっていると述べられているが、その「透明性」がどういう概念か詳しくは述べられていない。というか、ソーバーってこういう描写に関わるような議論もしていたのか、ということに驚いた。”Simplicity”という論文らしい。

写実性について

この言葉は多義的であり、いくつかを分類しているが、その中で少し面白い話をしている。
顕微鏡や高速写真などの手段によって、分子や疾走する馬の足やカバの扁桃腺や諸々を描く絵や写真というものがある。
これらは、見ている人のごっこ遊びの中で、現実生活では見ることのできないものを見ている、ということ虚構として成り立っている。
しかし、虚構の中で、どのようにしてそれらを見ることになっているのか。見ている人たちの視力が異常に鋭くなっていることが虚構となっているのか(こういう問題は、第6章の「見られないものを見ること」でも触れられている)。この点で、これらの絵や写真は空想的である。
しかし、別の意味では「写実性」が支持されている。
電子やカバの扁桃腺について特別な仕方で理解することができる。また、さらにある種の「知覚的接触」を手に入れる、と述べられている。

様相横断的な描出と図表・グラフ

様相横断的な描出として、図表やグラフのことが挙げられている。
ウォルトンは、図表やグラフは絵ではないと考えており、そこに連続性を見て取るグッドマンとの違いがある。
ウォルトンは、様相横断的な描出というのはこれを認めていない。音やにおいを見ることはできない。絵を通して、音を聞き、においを嗅ぐようなごっこ遊びはあるかもしれないが、音やにおいを見るということはない、と。
図表やグラフにいたっては、視覚はおろか知覚的なものですらない。描出は知覚的ごっこ遊びの小道具、というのがウォルトンの定義だが、グラフを見ることによって増加率を知覚するというごっこ遊びは生じない。
グッドマンがいう充実性の欠如の帰結である、とも述べられている。

追記(20170713)

ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")後半(6〜9章) - logical cypher scapeを参照しなおしてみると、
絵はpictorialなimage、図表やグラフはpictorialではないimageという分類になっている。
また、グラフや図についてのごっこ遊びについても触れられている。
描写:『芸術の言語』から現代の分析美学へ
このスライドの2枚目を見ても、depictionのことを、pictorial representationと言い換えてる。
ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")後半(6〜9章) - logical cypher scapeの方では、
科学的なイメージの章において、透明性があるかないかでこの違いを説明している。ここでいう透明性は、カルヴィッキ独特の概念。


音楽について

ウォルトンは、描出を視覚には限定しない(なので、知覚的なごっこ遊びの小道具と呼ぶ)。
また、非具象的・抽象的と呼ばれる絵画についても、ごっこ遊びを生じさせる表象体であるという議論を別に行っている。
では、音楽はどうなのか。
しかし、ウォルトンは音楽について、表象的な要素があることと知覚的な芸術であることは認めるが、必ずしも描出にはならないと述べている。
音楽が、聴覚的なものを表象しているとき、音楽は描出といえるが、音楽は多くの場合、非聴覚的なもの(感情とか)の表象となっており、描出とはいえない。
ところが、「表現的expressive」ということに着目した場合に、音楽を描出的であるとみなす解釈も可能であるとウォルトンは述べている。

きわめて「表現的」な音楽の場合、虚構として成り立つのは、その人が見たり、聞いたり、その他何らかの仕方で外的な事物を知覚するということではない。そうではなくて、その人が(自分自身の)感情や情動、情緒、心情、気分といったものを経験し、意識するということが虚構として成り立つのである。(中略)さらに、私としては、聴覚的な感じの体験(音の知覚ではなく)がその感情の感じであるということがその感情の感じであるということが、その現実の聴覚的な感じについて虚構として成り立つと示唆したい。虚構としての外的対象の知覚の代わりに、虚構としての内観、つまり自分への気づきがある。(中略)聴覚的な感覚経験は、どういうわけか視覚的な感覚体験よりもこの役割に適している。これは、非常に印象深い。おそらく、内観するということが、何らかの仕方で、見ることよりも聴くことに似ているのであろう。(pp.330-331)

このくだりは、説明が不足していて、あまり説得力の感じるところではない(詳しくは別の論文"What Is Abstract About the Art of Music?"で論じているらしい)が、ウォルトンって、representationではなくexpressionについてはどう論じているのだろうか、というのが気になっていたので、なるほど、そういう感じなのか、というのは興味深かった。
あと、聴覚的な感じが感情の感じとなっているとか、内観は見ることよりも聴くことに似ているとかは、根拠なく断定されてしまっているような感じがする。
音楽については、あともう一点
作品世界をほとんど持たず、ごっこ遊び世界が優越しており、このことにより、音楽鑑賞が、絵画や文学の鑑賞よりも個人的で私的な経験であることを説明できる、と述べている。

視点について

絵画は視点を持つが彫刻は視点をもたない(鑑賞者は別の方向からでも見れるから)とか、音楽も視点を持たない(一人称でも三人称でもない)とか、主観ショットの話とか、『羅生門』の話とか、エスキモーロールの解説図(船が転覆した際の説明をするのに、人が回転するのではなく、周りの世界が回転するように描かれている)とかについて書かれている。
で、絵を「として見る」とか「の中に見る」という観点からとらえていると、視点のことをとらえ損ねる、と。絵を何として見るか、絵の中に何を見るかということではなく、どのようなやり方で絵を見るかというところにあるから。つまり、ごっこ遊びだ、と。


第9章 言語的表象体

言語的表象体は、描出とは異なり、間接的である。
語り手を通じて間接的に提示されるが、描写にはそのような間接性はない。
ウォルトンはこの章で、語り手についての様々な議論をしているが、語り手のあり方についてはかなりの幅を許している。
小説の中には、はっきりとした語り手がいないような作品もある。
例えば、三人称・全知の語り手によるものなど。
ウォルトンは、語り手が存在しないと解しても問題ない場合や、語り手の存在を認めても解釈に意味をもたらさない場合があることを認めつつも、語り手の存在を承認しておくと「語りによる介入の、きわめてかすかな暗示に鋭く気づくことを私たちに促し、いろいろな作品で語り手が示す目立ち方の程度の、無限に微妙な多様性を認識することを容易にする(p.361)」と述べている。
はっきりとした語り手が存在しないとしても、感情や態度を帰属させる先はあるかもしれない。皮肉っぽかったり、同情的だったりなんなり。「運よく」とか「悲しそうに」とかいった副詞の表現などにそれは現れてくる。
物語に対して作品が示している態度を読み取る(「かすかな暗示に鋭く気づく」)のに、語り手に帰属させておくとよい、というような感じだろうか。
描出における様式のようなものとしても、語り手による仲立ちを捉えられる。
普通、語り手が仲立ちをすると考えられるが、ウォルトンは、物語を語る語り手(物語とは違う世界にいる語り手)*1は、仲立ちに失敗するという。報告をする語り手(物語と同じ世界にいる語り手)であれば、語り手についての虚構的真理が、物語についての虚構的真理にとっても重要だが、物語を語る語り手の場合、物語についての虚構的真理は語り手についての虚構的真理には依存しないから。
それでも、先に述べたように、描出における様式のような感じで、物語を語る語り手も仲立ちを行いうる。

「全知」の語り手について

ところで順番が前後したが、「全知」の語り手について。
ウォルトンは、語り手が全知であるということは虚構的真理にはならないのではないかと述べている。あるいは、どうして語り手は全知たりえているのか、と問うのは愚かな質問にあたるとも。
むしろ、慣習的な規則として、語り手がPと言っているならば、Pが自動的に虚構的真理になることが含意される、ということが、「全知」と言われるところのものであって、実際には、全知でないこともありうるし、語り手が全知かどうかというのは不確定なままでよいのだ、というようなこと書いている。
全知の語り手、みたいな用語がわりと定着したりしているけれど、そもそもあまりちょっといい言葉ではないのではないのか、みたいなところが、結構この章のポイントなのではないのか、と思った。

引用符でくくられた登場人物のセリフについて

ここも語り手による間接的なものではなく、直接描写されている部分とされることがあると思うのだけど、ウォルトンは、そのセリフを発してる人物がそのセリフを語っている語り手になっている、というようなことを述べている。

視点について

最後に、小説における語りのパースペクティブと、映画における主観ショットとの類比を論じている。
ここでの類比の指摘で再び、描出と言語的表象体の違いが出てくる。映画の方には、「語り手に対応するものはまったく存在していない(p.374)」と述べている。このあたり、視覚的表象にも語り手を想定するカリーとの違いか*2
小説においては、読者である自分が語り手から登場人物の認識していることを聞くことが虚構として成り立つけれど、映画においては、視聴者である自分が登場人物の認識していることを自身がその立場にたって見聞きすることが虚構として成り立つ。


第10章 架空の存在者をしりぞける/第11章 存在

英語で読んだとき、一番よく分からなかった意味論に関わる章
順番的にも一番最後のため、原著を読んだ際には力尽きていたこともあり、内容がほとんど頭に入らなかった記憶がある。ただ、今回改めて見直したら、一応色々書き込みしたあとは残っていたので、当時一応読んだようだ。
さて、今回日本語で読んでみたところ、やはり難しかった!
英語で読んだときよりはさすがにわかったと思いたいのだが、日本語でもいまいちよくわからなかったなあ、というのが正直なところだ。

通常の言明

虚構に関する通常の言明を、ウォルトンは以下のように言い換える。
つまり、(1)→(1b)、(5)→(5a)(5b)

(1)トム・ソーヤーは自分の葬式に出席した。(p.391)
(1b)『トム・ソーヤーの冒険』は、次のようなものである。すなわち、その作品の公認のごっこ遊びにおいて種類Kのふり行為に携わる人物は、自分が真なることを話しているということを、そのごっこ遊びにおいて、自分が真なることを話しているということを、そのごっこ遊びにおいて、自分自身について、虚構として成り立つようにする。(p.395)

(5)北部の森で育つ巨大な蚊はアリゾナで井戸を掘るのに利用された。(ポール・バニヤン物語に結び付けて言われた場合)(p.392)
(5a)ポール・バニヤン物語は、次のようなものである。すなわち、その作品の公認のごっこ遊びにおいて種類K*のふり行為に携わる人物は、自分が真なることを話しているということを、そのごっこ遊びにおいて、自分が真なることを話しているということを、そのごっこ遊びにおいて、自分自身について、虚構として成り立つようにする。(pp.395-396)
(5b)ポール・バニヤン物語は、次のようなものである。すなわち、その作品の公認のごっこ遊びにおいて北部の森で育つ巨大な蚊はアリゾナで井戸を掘るのに利用されたと断定する人物は、自分が真なることを話しているということを、そのごっこ遊びにおいて、自分が真なることを話しているということを、そのごっこ遊びにおいて、自分自身について、虚構として成り立つようにする。(p.396)


虚構に関する通常の言明は、ある行為が適切なふるまいであるかどうかという点で判定される。
前者の方は、「トム・ソーヤー」という固有名詞が出てくるので、言い換えの方では、「トム・ソーヤーは自分の葬式に出席したと断定すること」は「種類Kのふり行為」となって、虚構の固有名詞は消去されている。
後者の方は、元の言明に、虚構の固有名詞がないので、(5a)だけでなく、(5b)のような言い換えも可能になっている。

非公式なごっこ遊び

さらに、現実の状況と混ざっているような言及とか、作品間での比較については、非公式なごっこ遊びという形で、通常の言明でなされた戦略の拡張版として処理される。
インワーゲンからのツッコミというか、これの場合は成り立たないのではという指摘に対して応答しているところがあるけれど、よくわからなかった。

存在しないものについての存在言明

第11章では、さらに、登場人物が登場人物であること、虚構であることを明らかにするような言明について、ふり行為の暴露とか否定とか呼んで、装飾的表象体に近いものだとしている。


が、ここからさらにちょっと面白い話をしていて、
グレゴール・ザムザは存在しない」のような、虚構の登場人物に関する存在言明と、
「ヴァルカンは存在しない」のような、虚構ではないが指示対象の存在しない(指示を否定している)存在言明についても、どちらもごっこ遊びを用いて包括的な説明を試みている。

その種の説明は、話し手や聞き手が現実にふり行為やごっこ遊びに関わっていると仮定しなくてもよい。(中略)さらに、非公式のごっこ遊びは、既知のいかなる虚構作品にも結び付いていなくてよいことを思い出しておこう。(p.422)

「虚構的存在者に関する」存在主張は、このように存在主張と一般的に合致しており、虚構に関する他の言説の多くとはっきり異なっている。他の言説の方は、一定の種類のごっこ遊びの中で、一定の仕方で何らかのふりをすることは虚構において真なることを話すことである、という断定から構成されている。存在の肯定と否定は、肯定されたり否定されたりするのが「虚構的存在者」の存在である場合でさえ、似たような仕方でふり行為やごっこ遊びとかかわってはいないのである。
だがこれで話のすべてではない。多くの存在主張が、以上の結論の示唆するところよりはごっこ遊びと深くかかわっている。(中略)ふり行為の暴露が、多くの場合、さらなるふり行為という手段で達成されることを思い起こそう。同じことが否定に関しても当てはまる。(29)(引用注:「グレゴール・ザムザは登場人物である。」)や(30)(引用注:「グレゴール・ザムザは存在しない。」)を断定するとき、その人は「グレゴール・ザムザ」を指示的に用い、「登場人物である」や「存在しない」という述語によって指示対象にある特性を帰属させる、ということが虚構として成り立つだろう。(中略)それゆえ、その言明は非公式のごっこ遊びを含意しており、その中では、二種類の人間――「現実の」人間と「登場人物」――が存在すること、つまりある人々は「存在する」が他の人々はそうではないことが虚構として成り立っている。(p.425)

存在しない者についての存在言明は、非公式のごっこ遊びの中で、存在しない者が存在していることが虚構として成り立っている、というようなことなのだと思う。
これって、マイノング主義的なことが成り立っているようなごっこ遊びということなんだろうかな。
例えば、ここでウォルトンは「タビーは可愛いクマだけど、本物じゃないのが残念」とか「神話の獣はそんなに危険ではない」とかいった言明を例にあげている。こういうのは、クマや獣に「本物じゃない」とか「神話の」とかいった特性を与えているように読み取れる。つまり、クマには「本物の」クマと「本物じゃない」クマとがいるかのように話している。
こういう言い回しをそのまま文字通りのとらえると、マイノング主義っぽくなるのではないかと思われる。
ウォルトンは、「本物じゃない」というのは、実際にクマの持っている性質ではなくて、「本物の」クマと「本物じゃない」クマとがいるようなごっこ遊びをしているのだ、と述べているのだと思う。
なるほどなーとは思った。

しかし、種類Kのふり行為とかいう複雑な話をするくらいなら、文化的人工物説の方がわかりやすくて魅力的かもしれないなと思った。
キャラクターは存在しないというより、キャラクターという人工物を作ってそれでごっこ遊びをしている、という方が。


ところで、意味論の章では、ちょいちょい、ガレス・エヴァンズへの言及があったように思うので、気になる。
とりあえず、藤川本を読まないといけない。