今月は2つ学会に行って、3つWSを聞いてきたので、簡単にメモ
科学基礎論学会秋の研究例会は、11月7日に東大駒場キャンパスで
日本科学哲学会は、11月21日・22日に首都大学東京で開催
科学基礎論学会WS「現実とフィクションの相互作用」
松本大輝「虚構的情動のパラドクス」
フィクションのパラドクスには、真正性の問題と合理性の問題がある
シミュレーション論者の立場からみていく
オフライン性を特徴とする、心的シミュレーション
虚構的恐怖をシミュレーション的恐怖と同様のメカニズムと考える。
合理性の基準も、シミュレーション的恐怖と同じかどうかでさらに立場が分かれる
鑑賞というゲームにどれだけ寄与したかが合理性の規準となる
高田敦史「事実・虚構・理由」
行為の理由には、動機付け理由と規範的理由がある。
フィクションのパラドクスの規範的理由ヴァージョンがあるのではないか。
行為論では、事実だけが規範的理由を与える。
虚構的真理が虚構的行為の理由を与えるか。
誤信念によるケースと同様の分析になってしまわないか(誤信念は理由を与えない典型的なケース)
意味論的相対主義
事実ではなく評価者のもつ情報が理由を与える。
情報にはforceも含まれると考えると、ごっこ遊びと誤信念を区別できるのではないか
科学基礎論学会WS「意識のハードプロブレムは解決されたか――鈴木貴之著『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』を読む」
鈴木貴之「意識のハードプロブレムについて生産的に議論するには」
鈴木説=「志向説+本来的表象」による「ミニマルな表象理論」であり「自然主義的観念論」
生物の認知システムは、対象を知覚すると本来的表象をもつ。本来的表象は意識経験を実現する。経験される性質は、物に帰属される性質だが、物理的性質には還元されない。
金杉武司「説明上のギャップは本当に物理主義にとって無害なものなのか?」
鈴木説=コウモリ問題は、命題的知識と非命題的知識の違いによるものであり、その違いは物理的に理解可能
金杉→その非命題的知識が何故得られるのかが分からない、というのが、説明上のギャップであり、無害化できていないのではないか。
科学哲学会WS「心の哲学と美学の接続点」
源河亨「美的判断の客観性と評価的知覚」
美的判断の特徴は、主観的普遍性
この「主観」と「普遍性」の両方を説明するために考えられてきた様々な説を見ると、評価と知覚の両方が必要らしい
知覚体制化(ゲシュタルト)と選好は、何か関係しているっぽい→ここから、評価と知覚を繋げられるのではないか。
内容と直接関係ないが、パワーポイントが、白黒でシンプルに作られていてかっこよかった。
また、プレゼンもタブレットを使ってやっていた(タブレットでプレゼンしてる人見るの初めてだった)
清塚邦彦「絵の知覚と描写内容」
seeing-inにおける分離の問題
ホプキンスとブラウンによる分離の議論について
描写の内容を決めるためには、一般的知識(現実性原則?)を用いた「何を」という観点と、ブラウンがいう「二次的主題」のような描写とつながりをもつ分離から捉える「どのように」の観点が必要
森功次「Acqaintance Principaleと美的証言」
作品を直接鑑賞せず、人からの証言によって、美的知識を得ることはできるか
例えば、批評家が「あの絵は美しい絵だ。」と言ったのを聞いて、その絵を見ていない人が、その絵が美しいという知識を得ることはできるのか。
絵を見ていないのにもかかわらず、その絵が美しいということを知ることができるというのはどこかおかしい気がする。
一方で、実践的には、批評家なり何なりの美的な証言というのは、役に立っている。
道徳判断など、他の価値判断についても同様の証言の問題はある。
徳美学という近年新しくでてきている流れとの接続
批評家が持つことを期待されている能力とは何なのか。