橋口稔『ブルームズベリー・グループ―ヴァネッサ、ヴァージニア姉妹とエリートたち』

ブルームズベリー・グループについては名前だけはなんとなく知っていたけれど、しかし、どういう人たちなのかよく知らなかったので。
20代の前半くらいに仲良くしていた友人グループで、30代過ぎてからみんなそれぞれの分野で有名になっていった、という感じらしい。
サロンにも近いが、しかしああいう社交を目的にしていたわけではなく、かなりプライベートな内輪な集まりという印象
エリート層ではあるので、世間からは反発もされた
また、ヴィクトリア朝の価値観からの脱却を模索していた、というところにも特徴がある。


時期としては、1900~1920年
1920~1930年代のイギリスについてはリチャード・オヴァリー『夕闇の時代──大戦間期のイギリスの逆説』(加藤洋介・訳) - logical cypher scape2
この本でレナード・ウルフの名前が頻出だったのだけど、本書を読んでレナード・ウルフがどんな人か分かった。あと、なんでウルフ夫妻の出版社からフロイトの翻訳が出てたか、とか。
また、常松洋『大衆消費社会の登場』 - logical cypher scape2によれば、ヴィクトリア朝の価値観へのアンヴィヴァレンツは同時期のアメリカにもあったよう。

プロローグ

ブルームズベリー・グループについては、70年代頃、特にクエンティン・ベルの回顧録出版以降、研究が盛んになってきた、と。なお、本書は1989年出版
初期の研究においては、文学運動ないし文学を目的にしたグループとされることもあったが、メンバーは、作家、画家、批評家、学者と様々であり、そもそも私的なグループであって文学運動の類いではない(なお、白樺派に喩えられている。時期が近い。文学者と美術家が両方いる。知的エリートみたいなところが似ているようだ)。
文学運動と目したために、フォースターやエリオットをメンバーに含めていた研究者があるのだが、この2人は少なくとも主たるメンバーではない。
クエンティン・ベルの本では、13人の主要メンバーがあげられており、本書ではさらにその中の8人について取り上げているとのこと

第1章 レズリー・スティーヴンの死

1904年、ヴァネッサ、ヴァージニア姉妹の父であるレズリー・スティーヴンが亡くなる。
(ヴァネッサが25歳、ヴァージニアが22歳)
既に母ジューリアも亡く、若い姉弟4人が残された
レズリーとジューリアは再婚同士で、連れ子もいて、再婚後生まれたのがヴァネッサ、トウビー、ヴァージニア、エイドリアンの4姉弟である。最大で10人家族だった時期があり、さらに召使いもいた、とか。
レズリーが亡くなった後、ヴァネッサ以下4名は、ケンジントンハイド・パーク・ゲートからブルームズベリーのラッセル・スクウェアへと転居して、4人だけ(+召使い)で暮らし始める。
父の死という悲しみから逃れるためでもあるし、4人姉弟だけで暮らすという自由な生活の始まりでもあった。
なお、このケンジントンからブルームズベリーへの転居について、親族は反対だったらしいが、筆者によると、家自体はどちらも大した違いはないが、ケンジントンの方が新興の高級住宅地であるとのことで、東京に喩えると、田園調布から本郷へという感じかもしれない、と述べている。


レズリーは、『英国人名辞典』を編纂し、雑誌の編集者として評論活動を行い、思想史の著作を残している。が、後世に注目されるほどではなかった。筆者は、レズリーの文体があまり面白みのないものであることを指摘している。
レズリーの父親は官僚でサーとなっている。これは一代限りのものだったが、レズリーもケンブリッジ大のフェローとなり、のちにサーの称号をえている(ただし、この当時のフェローは聖職者でもあり、キリスト教に疑いを持つようになったレズリーはフェローを辞め、文筆業となった)
もともとは下層中流階級であったのだが、上層中流階級となった「知的貴族」だとのこと。それゆえに、レズリー自身は経済的な不安を常に抱えていて、存命中はかなりお金の使い方に厳しかったらしい。
が、そのためにか、四姉弟には贅沢をしなければ働かずに生きているだけの遺産が残された、と。

第2章 ヴァネッサの結婚

ブルームズベリー・グループのメンバーはほぼ全員がケンブリッジ大出身である
ヴァネッサとヴァージニアは女性のため、学校教育は受けていないが、スティーヴン家においてよい教育を受けてきた。
この章では最初に、スティーブン家の姉弟(父母の連れ子も含む)の社交性と知性について色々述べている。
知的エリートの側面と俗物的な社交好きの両方の側面があった、と。ヴァネッサとヴァージニアは必ずしも社交的な性格というわけではないが、社交界へ出入りはしていた。
トウビーはケンブリッジ大に入るだけの優秀さはあるが、ケンブリッジ大の中ではそこまででもないくらいの知的レベルの人で、なおかつ、母親譲りの社交的な面も持ち合わせていた。
彼らの母親というのは社交的というか世話好きな性格であり、ヴァージニアはおせっかいに感じていたらしい(母ジューリアは『灯台へ』のラムジー夫人のモデルとされる)。連れ子の方は、この母に似て、知性よりも社交性の方が強くてスノッブな人だったみたいな評価を本書の中ではされている。
ケンブリッジ大には「使徒会」という成績優秀者を集めた読書会・懇談会みたいなものがあって、毎週決まった曜日の夜に談話している会があり、レナード・ウルフやリットン・ストレイチーはそのメンバーだった。一方、トウビーはこのメンバーには含まれていなかった。
それで「使徒会」を模した「深夜会」というのを、ラッセル・スクウェアのスティーブン姉弟邸で始めたのが、ブルームズベリー・グループの始まり。
ケンブリッジ大は男性しかいなかったわけだが、深夜会は、ここにヴァネッサとヴァージニアという女性が加わっていたことになる。
ここで彼らは、(「美とは何か」みたいな)抽象的な会話を楽しんでいた。また、沈黙があっても気にならない関係だったようで、そのあたりがサロンや社交界とは違う点なのだろう。
この抽象的な会話というものについて、筆者は、G.E.ムアからの影響があったのではないかとしている。
この当時の彼らは、新しい価値観、新しい感受性というものを求めており、彼らの感受性にとってムアのメタ倫理学が合致したらしい。メタ倫理学的な議論を好んだ理由を「感受性」という言葉で説明しているのが、なんか面白いなと思った。
(ムアが「人間の交わりの快楽」と「美しいものの享受」に価値を置いたところも彼らは気になったらしい)


さてまあ、男女混合のグループなので、当然そういう人間関係が生じてくる。
口火を切ったのはクライヴ・ベルで、ヴァネッサに求婚した。が、何回も断られている。
事態が動いたのは、姉弟ギリシア旅行で、旅行中にヴァネッサとトウビーが体調を崩す。ヴァネッサは持ちこたえたのだが、途中で帰国したトウビーはそのまま腸チフスとなり26歳で亡くなってしまう(なお、トウビーは、ヴァージニアの『波』に出てくるパーシヴァルのモデルとのこと)。
そしてこの2日後、ヴァネッサやクライヴからの求婚を承諾するのである。
2人が結婚したことで、ヴァージニアとエイドリアンは家をでることになる。ほど近い場所に住み始め、ブルームズベリー・グループは、2つの拠点をもつことになる。
トウビーの友人よりも少し年下の、ケインズなどが加わることになる。
リットンの従兄弟でパリで美術を学んでいた画家のダンカン・グラントも合流する。

第3章 後期印象派

グループと外部の接触、あるいは外部からどのように思われたかについて。
まず、ブルームズベリー・グループというとよく引き合いにだされる「ドレッドノート号悪戯事件」(Wikipediaだと「偽エチオピア皇帝事件」)の話から
これ、首謀者のコールはエイドリアンの友人だが、グループのメンバーではない。事件を起こした6人のうち、エイドリアンとダンカン、そして人手が足りないので誘われたヴァージニアの3人がグループメンバーだった。
悪戯自体はうまくいったが、コール自身が新聞にリークしたことで発覚する。コールは騒ぎを起こすこと自体が目的。
で、まあ世間からは総スカンを食らうことになるのだが、筆者は、特権階級がそれを笠に着て勝手なことをしている、という構図が嫌われたのだろうとしている。今後もブルームズベリー・グループは何かと反感を買うのだが、基本的にはこの、特権階級にあぐらをかいて、みたいなことが大きな要因だろう、と。
ところで、ヴァージニアはこの頃、精神的にかなり不安定であったという。元々、神経症を患っていたが、この頃、小説を書き始めつつも軌道にのらず、フェミニズム活動も始めたりと色々な活動をして少し参っていたらしい。その後、サセックスに家を借りる


本章の本題は、章タイトルにもある通り、後期印象派展について。
ブルームズベリー・グループに、年長者であるロジャー・フライが参加するようになる。ベル夫妻が旅行中に偶々出会ったのだが、特にクライヴが美術への考え方で意気投合する。
で、このロジャーが、フランスの美術をイギリスに紹介しようということを考えていた。
グループのメンバーは概ねフランス贔屓で、クライヴもダンカンもパリで美術を学んでいたし、ヴァネッサもたびたびパリを訪れていたし、リットンはのちに『フランス文学道しるべ』を書く。
で、セザンヌゴーギャンゴッホ、さらに他にピカソマティス、ドラン、ルオー、モーリス・ドニなどの作品の展示と販売を行った。
後期印象派」はその際にロジャーがつけた名前
この展覧会への反応は、笑いと怒り
寛容な人は笑い、不寛容な人は怒った。それでいて、販売は上々だった
後期印象派展も、ブルームズベリー・グループとしての活動ではなかったが、彼らはロジャーの後援者であり、また、彼ら自身の感受性が、外部からはどのように見られるのかということを知る機会となった。
ロジャー・フライはのちに、室内装飾や生活用品のデザインをてがける「オメガ工房」をつくり、ヴァネッサとダンカンはこれに参加した。ただし、オメガ工房もやはりブルームズベリー・グループとしての活動ではなく、グループとは関係ない画家も参加している。

第4章 ヴァージニアの結婚

章タイトルは、ヴァージニアの結婚だが、リットン・ストレイチー、メイナード・ケインズ、レナード・ウルフについてそれぞれ書かれている。
グループメンバーも30近くなってきて、少しずつ大人になっていく。
リットンは、ケンブリッジのフェローになることを目指していたが、いよいよそれを諦める。
ケンブリッジのフェローは聖職者でもあるため妻帯しない。ただ、この時期には既に妻帯は許されるようになっていたが、やはり独身者が多く、これは同性愛者が多かったため。リットンもまた同性愛者であったので、安住の地としてケンブリッジに残ろうとしていた。
しかし、リットンの知性は、大学向きというよりは在野向きであったようで、フェローになるための試験には連続で落ちていて、筆者も、大学に残っていたらその才能を生かせなかったのでは、みたいなことを書いている。
ところで、リットンという名前はミドルネームで、名付け親がリットン調査団のリットンその人だったことに由来しているらしい。


さて、一方のケインズの方であるが、彼もまた同性愛者であり、そしてフェローを目指し、実際にフェローとなった。
リットンとケインズは似た者同士でもあり、しかし、全然反対の性質でもあった。
ケインズは親とか先生とかのいうことを聞いて勉強してきた優等生タイプで、自由に生きるタイプのリットンに憧れを抱いていたが、人間関係をうまくこなすのはケインズの方で、何かの争い(同じ人をとりあうとか)があると、必ずケインズの方が勝つという関係だったらしい。
ケインズは親もまたフェローであるのだが、研究活動よりも大学運営実務をこなした人で、祖父は商人であった。筆者はその点で、ケインズ家は、スティーヴン家のような「知的貴族」とはちょっと違うところがある、としている。
グループメンバーのなかでは一番蓄財に成功した人でもある。
ケインズ家が非国教徒であるのもスティーヴン家とは違うところ


そして、レナード・ウルフであるが、彼はユダヤ人であり、父親が弁護士として成功したものの、亡くなってしまう。彼は「使徒会」に入れる程成績優秀ではあったが、卒業後、セイロンに赴任している。資産なきジェントリ階級がジェントリであるためには、植民地へいくというのが最良の手段だったのである(フェローは名誉職であるために給料が安く、法曹職になるためには勉強の期間を支える財力が必要だった)。筆者は、イギリスが植民地支配を行った原動力はそれだったという。
また、ジェントリ階級には、政治を行う者と与えられる者の区別という哲学が教え込まれている、とも。
セイロン時代、リットンと頻繁に手紙をかわしている。レナードは都落ち、リットンもフェローになるのに失敗した時期であった。ヴァージニアについてのやりとりもしているのだが、レナードはこのあたりのことを自伝には書き残していない、と
リットンからのせられたこともあったのか、帰国後、ヴァージニアに求婚する。実はこれに先だって、ヴァージニアはほかの男性からも次々と求婚を受けていた。

第5章 良心的徴兵忌避

ヴァージニアは、心の病を患っていたため、元々はかなりヴァネッサに頼っているところが多く、しかし、ヴァネッサの結婚後は、ずっとヴァネッサを頼るわけにもいかなくなっていった。30歳近くになって、そういう意味でも、結婚相手を考える時期になっていた。
なお、ヴァージニアの心の病は、おそらく躁鬱病だったとされるが、統合失調症的な要素も見られたという。
結婚後、ヴァージニアは初の小説『船出』を書き上げるが、評判を気にして鬱状態にはいり、自殺未遂
レナードは、その後、ヴァージニアが鬱にならないようにかなり気遣いをしていたらしい。これにより、30年の結婚生活・作家生活をすることができたが、しかし、ヴァージニアは最後には自殺してしまう。
ところで、ヴァネッサとクライヴのベル夫妻の夫婦仲はわりと早い段階で冷めてしまったらしい。クライヴは独身時代のヴァージニアに粉をかけていたこともあって、三角関係が生じていたこともあるとか。逆にヴァネッサは、ロジャーと関係を持っていた時期もある。
2人は結婚は維持したまま、結婚相手以外と関係を結ぶようになる。
ヴァネッサはサセックスに移住し、ダンカンと生活するようになり、ダンカンの子どもを妊娠するが、しかしベル姓となり、クライヴの子として育てられた。
レナードは、こうしたベル夫妻のありようを「堕落」と感じていたようである。


第一次世界大戦は、イギリスにとって初めての徴兵制による戦争でもあった。
ブルームズベリー・グループのメンバーの多くは徴兵制に反対し、徴兵制成立以後は、良心的徴兵忌避を行った(これは制度的に認められていた)。
ただ、この良心的徴兵忌避こそ、ブルームズベリー・グループは批判されることになる。
本章では、ブルームズベリー・グループの個々のメンバーと良心的徴兵忌避の関係が解説されている。
徴兵制反対運動に特に積極的だったのは、リットンとエイドリアン
バートランド・ラッセルや後に首相となるマクドナルドも参加した「民主的支配のための同盟」の事務局でエイドリアンは働き、同時期にキャリンという女性と結婚しているが、キャリンの叔母がラッセル夫人という関係らしい。
なお、キャリンとともにエイドリアンは精神分析を学ぶ
リットンは、良心的徴兵忌避を申請しているが、この申請は認められなかった。しかし彼は、身体的理由のために徴兵されなかった。
レナードは、徴兵制には必ずしも反対ではなかったが、ヴァージニアの看病があるため徴兵を避けたいという動機があり、腕が震える神経症が認められて徴兵を免れている
ケインズによる良心的徴兵忌避の申し立てはなんだかよく分からない。彼は大蔵省の要職なので、それによってそもそも徴兵は免れていた。グループの他のメンバーは、彼が大蔵省を辞めた上で良心的徴兵拒否をすることを求めていた。

第6章 平和の帰結

第一次大戦後、メンバーが30を過ぎると、みな、それぞれの仕事で有名になっていく。
実質的には、この頃にはブルームズベリー・グループは失われていたが、しかし、逆に外部からはこの頃からこのグループが発見されるようになる。
このグループというのは、結局、20代の若者たちが友だちの家に集まっておしゃべりを楽しんでいた、というものであって、大人になってくると、自由に会話を楽しむということは難しくなっていったようである。もっとも友情関係が失われたわけではなく、その後も継続的に集まってはいる。が、昔を懐かしむことを目的としたものに変わっている。
一方、外部からは、グループ同士でえこひいきし合っていると見えていたようである。筆者はこれについて、似たような感性を培った者同士なのでそう見えるのだろう、としている。
第6章では、グループメンバーそれぞれの活動についてまとめられている

1918年『著名なヴィクトリア朝人たち』刊行
野心作にして問題作
タイトル通りヴィクトリア朝の偉人4名(フローレンス・ナイチンゲールなど)について書かれているが、リットンは彼らに対して批判的。
リットンはアフォリズムを好んだ
詩や批評も書いたが、むしろ、リットンの才能を生かせるジャンルは伝記であった、と筆者は述べている。

1919年『平和の経済的帰結』刊行
大蔵省の要職に就き、講和会議ではドイツに多額の賠償金を課すことに反対し、辞任している。
『平和の経済的帰結』も主な内容は条約批判だが、ここでは、ケインズの人物描写がリットンからの影響が指摘されている

  • ロジャー・フライとクライヴ・ベル

1920年 フライ『ヴィジョンとデザイン』刊行
芸術はそれ自体が目的であり、秩序と多様性が求められる。フォーム
1916年 ベル『芸術』刊行
ここで美の代わりに「意味を持つ形式significant form」という言葉を使う。
『分析美学入門』にも形式主義者として、ベルの議論が紹介されていたのでそこだけ確認してみたところ、「意味のある形式」と、それによって喚起される「美的な情動」の定義が循環していることで悪名高いとのこと。
ベルやフライが形式に着目したのは、当時のモダニズム美術との共鳴であり、彼らはセザンヌからの影響を受けていた、というようなことも書いてあった。
本書では、ベルは知性にコンプレックスがあって、それによる気負いとエリート意識が露骨に出た文章を書いているとされている
続く『文明』も、そうした気負いとエリート意識がでている、と

  • ヴァネッサ・ベルとダンカン・グラント

1920年 ダンカン初の個展
1923年 ヴァネッサ初の個展
2人は画家として活動
フランスからの影響を受けた作風で、イギリスでも人気が出るが、そこが彼らの限界でもあり、オリジナルなものへ突き抜けるところまでは至らなかった模様
生活の中に美術を位置づけ、部屋に飾る用の絵画を手がけ、さらには家具に直接絵を描いた。彼らの作品は、美術館などよりも、チャールストンの農家などで見ることができる、と。
なお、筆者が彼らの作品を直接見た際に印象に残ったのは、暗さで、それは彼らが新しい感受性を求めながらも、なおどこかでヴィクトリア朝の名残があるのかもしれない、と述べている。

  • レナード・ウルフ

ウルフは政治の道へと進む。
第一次世界大戦後、戦争を避けるための研究を始め、フェビアン協会から研究費の提供を受けながら、国際連盟の案を提案する。
1916年『国際的政府』刊行
H.G.ウェルズと知り合う。ウェルズ『世界史』の執筆にも協力した。
メンバーの中ではもっとも真面目なタイプ

1925年『ダロウェイ夫人』刊行
前年に、およそ10年近く住んでいたリッチモンドのホガース・ハウス(ここで出版社も営んでいた)を引き払い、ブルームズベリー地区で戻っていた
1927年『灯台へ』刊行
1931年『波』刊行
ここでは、ダロウェイ夫人がヴァージニアの分身であること、『灯台へ』が父親や子供のころに毎年訪れた避暑地を描いたものであること、『波』が一生を回想するものであったことが解説されている。

エピローグ

1917年、リッチモンドの家にレナードは印刷機を備える。
自分たちの本を出版するとともに、ヴァージニアに植字の仕事をさせることで健康が保てるのではと考えた。ホガース社として、レナードやヴァージニア自身の小説や、のちにエリオットの詩集を出版する(ホガース社から出版した人が、ブルームズベリー・グループのメンバーと見なされることもあったらしい)。
エイドリアンは精神分析の道に進んでおり、ウルフ夫妻の出版社がフロイトの翻訳を出版したのはその関係。


1931年、リットン・ストレイチーが胃癌のため51歳で亡くなる。
1934年、ロジャー・フライが68歳で亡くなる
1937年には、ベル夫妻の長男であるジュリアンがスペイン内戦で戦死
これについてはリチャード・オヴァリー『夕闇の時代──大戦間期のイギリスの逆説』(加藤洋介・訳) - logical cypher scape2にあった。
スペイン内戦については斉藤孝『スペイン戦争――ファシズムと人民戦線』 - logical cypher scape2
1941年 ヴァージニアの自殺


ケインズ
1925年、リディア・ロボコワと結婚。ただ、リディアとグループメンバーはお互いに親しくなることができなかった
リディアとケインズについては海野弘監修『華麗なる「バレエ・リュス」と舞台芸術の世界』 - logical cypher scape2でも。
ケインズは1938年に自分たちは「ムアの宗教は受け入れて、ムアの道徳は捨てた」と回想している。
ここでいう「ムアの宗教」とは「人間の交わりの快楽」と「美しいものの享受」であり、「ムアの道徳」とは彼のメタ倫理学のこと
筆者は、ケインズがグループの中では異質な存在であったと繰り返し述べているが、そうではあるものの、彼はずっとグループのメンバーと親しい関係を続けていた、とも。
1946年 心臓病で亡くなる


1961年 ヴァネッサ没
1964年 クライヴ没


ブルームズベリー・グループの人々は自分たちの記録を残そうとしていたが、ちゃんと自伝を書き残したのはレナード・ウルフ一人
1969年 レナード没
最後まで生き残ったのはダンカン・グラントで、1978年に93歳でなくなっている。