石田尚子「フィクションの鑑賞行為における認知の問題」

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森さんのこのツイートを見かけて、読みにいった。
ただ、前半3章読まずに、4章から読んだ
1~5章がおおむねサーヴェイで、6章でフィクション鑑賞における石田説が展開される。

序論
第一章 フィクションとは何か
 第一節 フィクションの定義
 第二節 文学理論における試み
 第三節 分析哲学における試み
第二章 言語哲学における虚構上の存在の問題
 第一節 ラッセ
 第二節 サール
 第三節 グッドマン
第三章 ウォルトンによるメイクビリーブ理論
 第一節 メイクビリーブ理論の概要
 第二節 メイクビリーブ理論に対する反論
第四章 マトラヴァーズにおける「直面」と「表象」
 第一節 「フィクション」に対する反駁
 第二節 直面と表象について
 第三節 マトラヴァーズの理論における問題点
第五章 二つの意識による説明
 第一節 シェフェールによるフィクション的没入
 第二節 キヴィによる証拠的信念と知覚的信念
 第三節 キルティダンの信念的理論
 第四節 パスコーの実在主義者的理論
 第五節 フィクション鑑賞の特性はどこにあるか
第六章 フィクション鑑賞における二つの心的機能について
 第一節 背景知識とは
 第二節 IM 機能とBK 機能
 第三節 フィクションのパラドックスの解決
結論と展望
参考文献


フィクションの哲学について各説を、「区分派」と「還元派」とに大きく分類し、還元派による区分派の批判を受けつつも、区分派の立場から論じる。
区分派というのは、フィクションとノンフィクションを区分する考えで、還元派は、フィクションとノンフィクションの違いは本質的じゃないという考え
ウォルトンは区分派、マトラヴァーズが還元派


マトラヴァーズは、表象の内容を理解するにあたってフィクションもノンフィクションも同じ(信念と想像の区別なんてものはない)ということを心理学から論じている。
ただ、ノンフィクションが実はフィクションだと分かった時などに、鑑賞者の情動的反応が変わることを、マトラヴァーズ説は説明できないと筆者は指摘する。
第5章では、フィクション鑑賞における二つの意識による説明をいくつも紹介する。


二つの意識による説明は、色々なバージョンがあって論者によって色々言っているのだな-(そもそもキルティダンやパスコーは名前も知らなかった)と勉強にはなったが、どれも信念の宙づり説の亜種っぽい感じがする。
信じるかつ信じないとか矛盾じゃん、というよくあるツッコミに対して、いろんな方法で別に矛盾してないと説明しようとしているのが各バージョンという感じがする。


筆者が提案しているのも、ある意味ではそうしたものの一種かもしれない。
フィクションを鑑賞する際の心的機能として「IM機能」と「BK機能」という分類を行う。
IMは没入Immersionのこと
BKは背景知識Background Knowledgeのこと
鑑賞における、娯楽モードと批評モードといってもよい。
IM機能は、フィクションの内容をフィクションであることを忘れて(ノンフィクションと同じように)鑑賞しているような状態(
BK機能は、「この作品はフィクションである」「この○○を演じているのは××という俳優である」というような、作品についての背景知識を呼び出しているような状態
石田説のポイントは、この2つの機能はそれぞれ強まったり弱まったりするということ。
典型的なフィクション鑑賞は、IM機能が強まりBK機能が弱まった状態で行われるが、批評的なモードで鑑賞する場合には、逆にIM機能が弱まりBK機能が強まった状態で行われる、と。
ウォルトンのメイクビリーブ論では、鑑賞におけるモードの違いないし没入度合いの違いを説明できないが、IM機能の強弱によって説明ができる。
また、フィクションかノンフィクションかの区別は、弱まりながらもBK機能が働いていることにより説明ができる。


面白かったのは、作品に没入しながらも作品の背景情報に基づく鑑賞もするような「マニアックな」鑑賞を、IMとBKの両方が強まった状態として説明できるとしていること。


様々な鑑賞のあり方を、二つの機能の強弱によって説明する、というのは使い勝手のよさそうなフレームだなあという気がするし、色々説明できそうな気もする。
一方で、メイクビリーブ説の代わりになるのかと言われるとよく分からない。
想像という心的態度で鑑賞者の心的状態を説明するのは難しいかもしれないが、メイクビリーブは心的状態についてのみに関わる議論ではないと思うので。


背景知識について
順番が前後したが、背景知識については、上に挙げたようなその作品がフィクションかどうかというもの以外にも色々ある(現実世界についての知識とか)。マトラヴァーズが指摘したように、同じ背景知識がフィクションの理解にもノンフィクションの理解にも使われる。というか、両方に使われるものの方が多い
でも、「この作品はフィクションである」という知識はフィクションの鑑賞にしか使われないし、その逆にノンフィクションの鑑賞にしか使われない背景知識もある。
そういう分類をちょっとしている。


フィクションであることを前提にしているということについて
これまた順番が前後しているが、本論では繰り返し、そもそも鑑賞において、見ながら、あるいは見た後に「これはフィクションだったな」とか判断したりしているわけじゃなくて、そもそも事前に「これからフィクションを見るぞ」と思ってみているものじゃないのか、ということが指摘されている、と思う。
「作り物」「こしらえ物」を見る態度というのが前提としてあるんじゃないか、という話で、これを指摘している人ってあまりいなくて、西村-森ラインくらいじゃないのか、と。
で、フィクションを鑑賞する時にBK機能が働いていると本論の主張は、これに基づいているところがある