『ナラティヴ・メディア研究』第5号

2015年11月に行われたマンガ研究フォーラム「マンガのナラトロジー ―マンガ研究における〈物語論(ナラトロジー)〉の意義と可能性」での発表論文が収録されたもの。
森本浩一が発表を行い、野田謙介、中田健太郎、三浦知志、三輪健太朗がコメンテーターとしてコメントした。
進行は佐々木果


全然気付いてなかったのだけど、この森本浩一って『デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』*1の人か
森本論文が30ページほどあるが、それ以外はこの森本発表に対するコメントとして書かれたものなので、2〜4ページ程度の短いものとなっている。

「ナラティヴ・メディア研究」第5号について(森田直子
ナラトロジーとマンガ研究の転換点(夏目房之介
まんがのナラトロジーの意義と可能性(佐々木果)
物語経験の時間性(森本浩一)
マンガにおける語り手の問題と物語論の適用可能性について(野田謙介)
「マンガのナラトロジー」を振りかえって(中田健太郎
イエロー・キッドの物語(三浦知志)
マンガ論に「物語」を取り戻すこと ―森本浩一「物語経験の時間性」を受けて―(三輪健太朗)
物語におけるリアリティ ―森本浩一氏の物語論を巡って―(赤羽研三)
あとがき(謝辞をかねて)(森本浩一)


ナラティヴ・メディア研究会のご案内

冒頭の夏目論文と佐々木論文は3ページほどで趣旨説明のようなもの

森本浩一 物語時間の経験性

リクールの『時間と物語』や現象学的な方法を参照しつつ、受け手の自己同期という観点からのナラトロジーが論じられる。
分析美学への言及はほぼないが*2、分析美学のフィクション論とも通じる議論がそこかしこにあって楽しい(正確に言えば、分析美学以前・以外でもなされている議論であって、分析美学で「も」論じているというだけであって、フィクションや物語について論じると、分析系でも現象学系でも同じあたりを論じることになるのだろう)。
明示されてない箇所の想像的補完とか、物語である以上語り手がいるとか。


受け手は、語り手と物語の登場人物のそれぞれに自己同期する。
これは、その人物の視点に立つということではなくて、物語世界の存在の前提となること
ここでは、受け手の構えを4つに分類している
対語り手のN1、N2
対登場人物のP1、P2

  • N1

「フィクションの中で」という限定がかかっていることを受け入れ、つまり、表象されるとおりに存在するものとして受け入れること
N1で、受け手は、語りから、文体、絵柄、カメラワークとモンタージュといったかたちで提示される描写から、「印象」を受け取る
これは登場人物の感情というわけではなく、状況把握である。
この「印象」を「語り」から受け取るという話、面白かった。特に、それが第一に置かれているところが。

  • N2

こちらは時間構造について。
形式上、未来にいる語り手が過去形で語ることについて受け取るという構造。


N1とN2は、物語の内容を余すところなく伝達する
しかし、物語経験のすべてではない
「没入」や「現実性」のための前提となる作業であるが、まだ、「没入」や「現実性」へは切り替わらない。

  • P1

人物を生き生きととらえる(=知覚する)のであり、そのことで物語の「筋」をたどる

  • P2

P1では、語られる順序のとおり受け取る。
しかし、語られる順序と実際の時間順序は異なる。人物の「自己」ないし「人格」へと集約させていくことになる。


物語経験の目的=行為の再現
再現的知覚=人物が自己へと集約されることで一個の自立した全体として立ち現れること

再現は再現である限り、「現実」に対して、必ず何かを欠いている。その欠如をどのように補って「現実」に近づくかが、再現に課せられた最大の課題となる。つまり、あるメディアによっては直接的に表現できないことを、「描写」を通じて間接的に再現するところにこそ、「再現的知覚」のリアリティが成立するのである。p.38

ここから先、映画とマンガについて、この「欠如」を通じて論じられていく。
映画は、「動き」を表現することはできるが、これは再現としての自由度を奪うものであるとしている。小説であれば、一文の中に複数の時点の出来事を混ぜて書くことも可能だが、映画ではそのようなことはできない。
写実性の高さは、「現実」としての「知覚」との混同を生じさせるもので、「再現」としての「知覚」ではないとも。
映画の「欠如」を補い物語的実存を「描写」するものとして、一つはモンタージュをあげる。
またもう一つに、ストーリーにとって余剰な細部をあげる。これが「印象」を生じさせる。
マンガについては、小説と映画の中間であること、そして言語に注目する。
映画のような知覚的写実性、カメラワークや編集なども使える一方で、言葉による自由度も用いることができる。
マンガにおいて、言葉の果たす役割は大きいとして、言葉が時間的推移を駆動していくと論じる。
また、創作過程からも、マンガと小説の近さを指摘する(映画は脚本、絵コンテ、撮影と異種な3段階のメディアを通じて作られるのに対して、小説は書くことによって成立する。そして、マンガでは「ネーム」において既に言葉が出来上がっていることがほとんどであろうことをもって小説との近さとしている)

野田謙介 マンガにおける語り手の問題と物語論の適用可能性について

マンガを読む物語経験の中にも語り手はいるのか
マンガの「音」を物語経験の中で聞いているのか

三浦知志 イエロー・キッドの物語

一枚の風景画でも物語になりうる
マンガが複数のコマで成り立っていることと、物語であることを区別する
森本論に従えば、物語は自己同期によって成立するのであって、複数のコマは必ずしも必要ではない。
ただし、一枚絵は、読む順序がマンガほどに定まっていないという違いがある

三輪健太朗 マンガ論に「物語」を取り戻すこと ―森本浩一「物語経験の時間性」を受けて―

森本のいう「物語」があくまでも「人物」の実存の再現を中核においてあるという前提に対して、ボードウェルが映画を「アクション」と「ムーブメント」に区別していることをあげて、「人物」を中核としないジャンルの存在を指摘する。
また、森本が「欠如」から各メディアの特性を論じていたところから、ベンヤミンの「視覚的無意識」のようにメディアを通すことで知覚可能になるものについて指摘する。

赤羽研三 物語におけるリアリティ ―森本浩一氏の物語論を巡って―

知覚の二つの様相の区別
ロジャー・フライの「観るlook at」と「見るsee」の区別
ドゥルーズの「光学的−音声的イメージ」と「感覚運動的イメージ」の区別
リアルな知覚とそうでない知覚
森本における写実性とリアリティの区別

研究フォーラム発言録

研究フォーラム当日の発言録は、以下のサイトにまとめられている。
【発言録】 2015.11.14「マンガのナラトロジー」(1/3) – M studies


3/28にこの記事をブクマしたあと、5/15になってようやくこの記事を読み、面白かったので早速『ナラティブ・メディア研究』も入手したのだが7月になるまで読めていなかった。何故2ヶ月おきなのか、自分。
まあそれはともかくとして、以下は5月にフォーラム発言録を読んだ際の感想。

このマンガのナラトロジーの奴、なんかかぶって見に行けなかったんだよなー、と思ったら、ガルパンだったw チケット既に予約してて、直前になってこれがあるって気付いたんだよ*3https://twitter.com/sakstyle/status/714455368802312192


読んだ。すごく面白い。しかし、美学が必要だ。/ミメーシスないし同期によって物語経験が生じる/ナレーション/リクールか https://twitter.com/sakstyle/status/731684993546620929
三浦さんのコメントの一枚絵から物語が生じるか、はすごく興味がある。三輪さんのコメント超面白い! 知覚の縮減の話と人物の「アクション」でなく「ムーブメント」で動く物語について https://twitter.com/sakstyle/status/731685474880774144
野田さんから、海外ナラトロジー研究についての報告(認知/コンテクスチュアル/トランスメディア)/森本さんの議論では、「読みの時間」は重要視されないという三輪さんからの指摘!https://twitter.com/sakstyle/status/731685909658107904
リクールとかフッサールをベースにしているし、物語という言葉に込めている意味もちょっと独特なので、議論の大枠は異なっているのだけど、どうしてもウォルトンやカリーのことも想起する議論だ。マンガ(必ずしも言語に寄らないメディア)にも語り手いるよねって主張はカリーっぽい。https://twitter.com/sakstyle/status/731686488283316225
自己同期とかも、ウォルトンの自己についての想像をちょっと思わせるというか。ここで、中田さんが存在論的と言っているのはそういうことではないかと。ウォルトンは、読者は虚構世界に自分を拡張するって言ってるのと通じるのではないかと。https://twitter.com/sakstyle/status/731687210898980864
すごく些細な語用的な話なんだけど、こういう話を「存在論的」って呼ぶの、個人的にはやっぱりなんか違和感がある。まだ、存在論一歩手前の話だと思うんだよね、そこは。まだ、そこまでは美学の領域だ、みたいなwhttps://twitter.com/sakstyle/status/731687748210286592
ちょっと気になったのは、「キャラ/キャラクター」の話の時、人間かそうでない(ステレオタイプ)かみたいな話になってるけど、それは「フラットキャラクター/ラウンドキャラクター」なのではないかと。「キャラ」という言葉を多義語のまま使っている感。https://twitter.com/sakstyle/status/731688735138451457
物語メディアには「欠如」があるというところも気になったんだけど、そこは三輪さんがコメントしている。メディアを通すことによる欠如もあるけど、メディアを通すことによってのみ知覚されるものが、フィクションの面白いところじゃないかっていうのは、自分の個人的な主張https://twitter.com/sakstyle/status/731689570698305536
『フィクションは重なり合う』で、これはフィクション固有の経験なんだ!って繰り返し書いてるんだけど、「分離された虚構世界」を知覚できるのって、フィクションのメディアを通してだけだからって意味。現実では知覚できない世界を、フィクションを通してなら知覚できる。プリズムジャンプとかね。https://twitter.com/sakstyle/status/731689968725155845
人間の「アクション」(行為)でなくて「ムーブメント」(非人間的な運動全般、自然や機械の運動、つまり偶発的な、世界の中で偶発的に起こる運動)で駆動する物語(例えばコメディやメロドラマ)もありますよねっていう指摘も好き。楽しい。https://twitter.com/sakstyle/status/731690580833538048
ウォルトンがルソーの絵について、女がジャングルにいるのではなく
、女がジャングルの夢を見ているのが虚構的真理だと言っているけど、あのあたりが微妙に納得できないというか。「想像を指図されたこと」と「虚構的真理」とって物語ないと区別できかねるとこがある気がするがhttps://twitter.com/sakstyle/status/731794955421655040
絵が一枚しかないときって、それはどう特定されるのかってhttps://twitter.com/sakstyle/status/731795077975040001

*1:この本読んだはずなのにブログに記録がない?

*2:皆無というわけではないが

*3:これは3月ブクマ時のコメント