『フィルカルVol.2No.2』


分析哲学と文化をつなぐ」雑誌、通算4号
これまでただの一読者として読んできて、自分が投稿するとかは全然考えていなかったのだけど、気付いていたら投稿していた。
というわけで、シノハラユウキ「メディアを跨ぐヴィヴィッドな想像」が掲載されています。


今回、特集シリーズ:アイドルと銘打たれており、そのトップバッターの役目を仰せつかったわけだけれど、
この特集、僕のナナシス論と、松本大輝さんのボカロ論からなっており、どちらも、ウォルトンごっこ遊び(メイクビリーブ)論を応用するというものとなっている。
ウォルトンごっこ遊び(メイクビリーブ)論は、フィクションについての分析を与えたものとして紹介されることが多いが、その説明はあまり正確ではない。
この点については、高田敦史さんが、異なる芸術形式間の比較のための理論と指摘している。
今回の特集では、僕がソシャゲや2.5次元文化、松本さんがボーカロイドと、フィクションとしては非典型的作品・文化(ここで典型的なフィクションとは、小説や演劇、映画、マンガを想定している)を取り上げている。
ウォルトンごっこ遊び(メイクビリーブ)論の道具立てを用いると、このような非典型的なフィクションと典型的なフィクションとの間で、何が同じで何が違うかの比較が可能となるのである。
松本さんの論文と僕の論文が並ぶことになった経緯は分からないけれど、いわば、ウォルトンとそのサブカルチャーへの応用、ともいうべきよく似たアプローチの2つの論文が1つのまとまった特集になったことに、何か意義を感じずにはいられない。。
自分の論文が、この特集の一角になることができたのが嬉しく、本当にありがたいことだし、初めて本誌を手にとって松本さんの論文を読んだときは、このことに気付いて非常にワクワクとした気持ちになった。


これまでの『フィルカル』については
『フィルカルVol.1No.1』 - logical cypher scape2
『フィルカルvol.1no.2』 - logical cypher scape2
『フィルカルVol.2No.1』 - logical cypher scape2

哲学への入門
「デヴィッド・ルイス入門 第1回 可能世界と様相の形而上学」(野上 志学


文化の分析哲学
●特集シリーズ:アイドル
論考「メディアを跨ぐヴィヴィッドな想像―『Tokyo 7th シスターズ』における「跳ぶよ」というセリフの事例から―」(シノハラユウキ)
論考「その歌は緑の髪をしている―ボーカロイドとメイクビリーブ―」(松本 大輝)

論考「『忠臣蔵』と『神無月の巫女』―理解され得ない欲求、のジレンマ―」(新野 安)
論文「大森靖子と推論主義」(川瀬 和也)


社会と哲学
報告「苦悩の臨床哲学」(本林 良章)


コラムとレビュー
連載コラム「生活が先、人生が後」第4回 更生した不良は正論に勝てるのか(長門 裕介)
レビュー「2017年上半期書評」(長門 裕介)
レビュー「高畑勲『アニメーション、折りにふれて』」(八重樫 徹)

宣伝:シノハラユウキ「メディアを跨ぐヴィヴィッドな想像」

サブタイトルに「『Tokyo 7th シスターズ』における「跳ぶよ」というセリフの事例から」とある通り、ナナシスについて論じているけれど、メディアミックスや2.5次元文化を、ウォルトンごっこ遊び論の枠組からの説明を試みていくものなので、必ずしもナナシスについて知らなくても、類似の作品や文化に馴染んでいれば、きっと有益なはず。
以前、古瀬風「星下南中」(TOKYO 7th Sisters episode Le☆S☆Ca第7話) - プリズムの煌めきの向こう側へにおいて感想を書いたのだけど、ナナシスの小説版において、メディアミックスであることをうまく利用した演出があった。
本論は、この演出が何故効果的だったのかを説明すると同時に、アニメ等における「声」の重要性を説明することを目論む。
この際、ウォルトンごっこ遊び論における「自発的な想像」と「想像のオブジェクト」という概念を、説明に用いた。
自分が「想像のオブジェクト」に注目することになったきっかけはウォルトンにおける想像のobjectについて - logical cypher scape2
想像のオブジェクトとメディアミックスの関わりから、2.5次元アイドルの声優ライブについても論じ、声優のパフォーマンスを見てキャラクターについて思いを馳せるという現象にも説明を与えている。
ここから、メディアミックスや2.5次元文化全般への一般化が即座に可能かどうかは検討が必要なところではあるが、見取り図となるようなアイデアを提案しているので、こうしたことについて考えている人の参考になれば幸いである。

松本大輝「その歌は緑の髪をしている―ボーカロイドとメイクビリーブ―」

まず、タイトルがよい!
ボカロの楽器的な側面とキャラクター的な側面に相互作用があるということを、メイクビリーブ理論を用いて分析するというもので、具体的な事例としては、ココアシガレットPの(あまり)歌わないボカロ動画が取り上げられている
あと、初音ミクとかだけでなく、VY1みたいなキャラクターなしのボカロもメイクビリーブ論の射程内にありますよーという話をしている
個人的には、松本さんの論文の中では、「異質的な述定」の議論に興味を惹かれた
また、プロップ指向のメイクビリーブについては、ボカロだけでなく擬人化一般に適用可能なのだろう、と思う。
ところで、松本論文とシノハラ論文、用語をカタカナで音訳するか日本語にある語として訳するかの違いが出てしまっている。自分の方で、原語の補足を入れておけばよかった。

新野安「『忠臣蔵』と『神無月の巫女』―理解され得ない欲求、のジレンマ―」

神無月の巫女』全く知らないのではあるが、忠臣蔵的ジレンマ状況を使った解釈を2つ組み合わせた解釈っての面白かった。裏のさらに裏、みたいな感じで。最後、注釈で、まどマギにも適用可能と書かれていて、なるほどと腑に落ちた。
忠臣蔵的ジレンマ状況というのは、物語のパターンの1つで、そのパターンの定式化を行っている。
定式化を行うことで、応用が可能になったわけだけれど、批評として使う場合、単にこの作品はこのパターンに当てはまりますというのはあまり面白くないので、この論のように、それを複雑に適用している作品を見つけ出して解釈を行うなどになると面白くなるとは思う。
で、もうひとつの応用可能性としては、創作に使うことが考えられる。物語の創作講座なんかだと、過去の面白い作品のプロットを分析し、抽象化して、それを応用するという方法が紹介されていることがあると思うのだけど、忠臣蔵に関して、分析と抽象化(パターンの定式化)を既に行ってくれている
さらに『神無月の巫女』やまどマギにおいて、このパターンが使われていることが示されているので、創作に応用しやすいのではないかと。自分は創作しないからわからんけど……。
ところで、『プリンセス・プリンシパル』って面白い作品だったとは思うけど、この忠臣蔵ジレンマ的状況が組み込まれていたら、より面白くなったのでは、とふと思った。

川瀬和也「大森靖子と推論主義」

実をいうと、大森靖子も推論主義もどちらも全然知らない身だったのだけど、まず、推論主義が面白い。文や単語の意味は、その文の使い方=どのような推論のネットワークの中で使われるかで決まるという考え方が、推論主義。
推論主義を説明する上での例として、「温度」や「細胞」といった科学用語の使われ方の変遷が出てくるのだけど、そういう科学の進歩に伴い意味が変遷した言葉の説明に使えるところが面白いし、あと個人的には、メタファーとかを論じる時も用いれるのではないかなと思った
グッドマンはメタファーを、ある語を新しい対象に適用させて記号図式を移行させることだと説明していたが、メタファーとは単語の新しい使い方で、異なる推論を可能にすることとしても説明できるのではないか、と。
あともうひとつ念頭にあったのは、ロバート・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』 - logical cypher scape2で、科学におけるメタファーについて取り上げていて、「波」とか「エネルギー」とかいった概念が、最初メタファーであったのが、概念が変化して専門用語になっていたと書かれていたこと。推論過程の変化なのでは、と

一方、大森靖子論パートについては、歌詞の分析なので、メタファーの分析とかなのかなあと思いきや、そういうわけではないのだけど、ある単語の選択が世界観を示すことになるということを論じている。推論主義によれば、単語の意味は単に辞書的なそれではなく推論のネットワークの使われ方なので

「デヴィッド・ルイス入門 第1回 可能世界と様相の形而上学」(野上 志学

これ、前号に次回予告が載っていて、その時から楽しみだった。その時はまさか、ルイス入門と自分の原稿が目次で並ぶと思っていたなかった
『世界の複数性について』が40ページくらいのコンパクトさにまとまってる。
最近読んだばかりだったこともあって(D・ルイス『世界の複数性について』(出口康夫監訳、佐金 武・小山 虎・海田大輔・山口 尚 訳) - logical cypher scape2)、より面白く読めた。
何より、いきなり『世界の複数性』読むより1000倍分かりやすい。
個人的には、組み換え原理とか、なるほどそういうことかと勉強になった(自分の理解で大体あってたなーという感じなんだけど、ルイスの説明よりわかりやすい)
事象様相の説明とかも、わかりやすいなーと思った。

報告「苦悩の臨床哲学」(本林 良章)

筆者は、哲学系の大学院で博士課程まで進学しながら、独学で精神病理学を学び、哲学と臨床(精神医学・精神病理学・臨床心理学)の交差するところで研究を続けている人。哲学で博論を出したのち、今は臨床心理学の修士課程へ進学している。
そうした経験談を中心に、臨床や病気と哲学の関係を綴っている

連載コラム「生活が先、人生が後」第4回 更生した不良は正論に勝てるのか(長門 裕介)

更生した不良のエピソードというのは、世の中でよく人気を集めるものである。
これに対して、そもそもマイナスがゼロに戻っただけであり、また、ずっと正しく生きている人たちを評価しそこなうために、更生した不良を高く評価するのは間違いである、という「正論」がある。ネットでよく受けそうな言説ですね
このコラムでは、いやしかし、本当にこの「正論」は正しいのか、とさらに問い直すものとなっている。
「正論」とされるもの、なるほどと受け入れてしまいがちな話に出会ったら、それをさらに掘り下げてみるのが大事なのではないか、という話

レビュー「2017年上半期書評」(長門 裕介)

『フィルカル』は哲学の雑誌ではあるけれど、哲学・思想以外の本から3冊紹介されている。

レビュー「高畑勲『アニメーション、折りにふれて』」(八重樫 徹)

思索者としての高畑勲