Henrik Skov Nielsen, James Phelan and Richard Warsh "Ten Theses about Fictitonality"

muse.jhu.edu
フィクショナリティの修辞的アプローチについて
以前、下記の記事を読んだ際にこの考えに興味を持ったのでちょっと調べてみよう第一弾

euskeoiwa.com


どうも、文学研究ないしナラトロジーの分野で、近年、「フィクショナリティ」「修辞的アプローチ」というのが出てきているらしい。
フィクショナリティを、フィクション作品の性質と考えずに、修辞の一種のように捉える、というものらしい。
この論文では、オバマが選挙戦で相手を批判する際に用いたジョークが主な例として出てくる。
オバマのジョークは無論小説などのフィクション作品ではなく、選挙戦の相手を批判する政治的主張の一環である。が、そういった、ノンフィクショナルな言説の中にもフィクショナリティは現れるのだ、と。


タイトルにある通り、10のテーゼからなる論文だが、ここでは10のテーゼを一つ一つ紹介するのではなく、ざっくりと要約していく


フィクションとフィクショナリティとを区別する
フィクショナリティは、様々な目的のために使用される
フィクショナリティは、実在するものを指示することなくコミュニケーションしたりする、根本的な認知能力を用いている


フィクショナリティは、想像する能力に関わるが、それは現実を理解するための能力でもある
フィクションがどうかは、テクストの特徴よりもコミニュケーションの意図によって定まる。
フィクションかどうかという区別より、フィクショナリティの程度が大事
送り手は、様々な方法で(パラテクストだったり声音だったり)フィクティブであるという意図を伝える。
フィクティブな意図を伝え、それを受け取ることは、ノンフィクションの言説に対する態度とは異なる態度を引き出す
例えば、ある言説をアイロニーとして受け取った場合、文字通りの意味ではないことを意味していると捉える
同様に、ある言説をフィクティブなものとして受け取った場合、指示的な主張をしているわけでなく、一部または全部が作られたもの、現実世界では不可能なものだと捉える
フィクティブなコミニュケーションは、現実にはないものを現実へと投射する(例えばユートピア/ディストピアもの、あるいはキング牧師の「私には夢がある」スピーチ)。真ではないが、現実世界についての信念形成に影響する。
フィクショナリティの使用は、送り手のエートスに影響を与える(ジョークを言えるウィットがある、とか(ネガティブな影響もある))
フィクションとフィクショナリティの理論は分かれるべき。何故なら、フィクション以外のところで使われているフィクショナリティが見逃されているから。
哲学的なフィクション論は抽象的でコンテクストや経験的な現れに注意を払っていないし、文学研究・物語論は、フィクティブな言説のより広く根本的な説明に注意を払わない(修辞的アプローチならその点……)

1) Fictionality is founded upon a basic human ability to imagine


2) Even as fictive discourse is a clear alternative to nonfictive discourse, the two are closely interrelated in continuous exchange, and so are the ways in which we engage with them


3) The rhetoric of fictionality is founded upon a communicative intent


4) From the perspective of the sender, fictionality is a flexible means to accomplish a great variety of ends


5) From the perspective of the receiver, fictionality is an interpretive assumption about a sender’s communicative act


6) No formal technique or other textual feature is in itself a necessary and sufficient ground for identifying fictive discourse


7) Signaling or assuming a fictive communicative intent entails an attitude toward the communicated information that is different from attitudes toward nonfictive discourse


8) Fictionality often provides for a double exposure of imagined and real


9) The affordances of fictionality have—for better or worse—consequences for the ethos of the sender—and often for the logos of the global message


10) The importance of fictionality has been obscured by our traditional focus on fiction as a genre or set of genres


もともと、大岩さんの雪火頌では、フィクションがどのように形作られるか=エフェクトという観点から、フィクションを論じるとされていて、エフェクトの類義語としてフィクショナリティも挙げられている
ただ、この論文を読んでみると、どのように作られるか、というよりも、どのように使われるか、という感じだった
フィクションは、一般的にフィクションとされるもの(小説やマンガや劇など)以外の場所でも使われており、様々な用途がある、と。


個人的な興味関心の問題だが、この論文で出てくるオバマキング牧師の例の分析にあまり面白さを感じられなかった。
フィクショナリティという概念を用いることで、どういうおいしさがあるのが分からなかったというか。それらの例がフィクションの一種なのは分かるが、生じているとされる効果を説明するのにフィクショナリティ概念を経由する必要があるのかどうか。
一方、典型的なフィクション以外のところにもフィクションは現れる、ということ自体は首肯するところで、そういうのを説明する枠組みの必要性も分かる。
手前味噌で恐縮だが、それこそガルラジ合同本『___・ラジオ・デイズ』に「質感から考える メディアなきフィクションとしてのガルラジ」書きました - logical cypher scape2質感旅行論とかはそういう面はある。旅行の中にもフィクショナリティは生じる。
しかし、質感旅行において生じるフィクショナリティは、このフィクショナリティ論とは相容れなくて、それは質感旅行は別にコミュニケーション行為ではないから。


ウォルトンは、それこそノンフィクションの中にも部分的にフィクションになってる部分が出てくる旨の指摘を行なっており、フィクショナリティ論と通じるところはあると思う。
ウォルトンは、メタファーをメイクビリーブで説明しようとしたりもするし。
ただ、この部分的なフィクションみたいな考え方が、美学系フィクション論の中でどれくらい受け入れられているのかは謎


メイクビリーブの拡張という意味では、科学におけるモデルをメイクビリーブで説明しようとする議論もあるけど、まあでもそれは、レトリックとしてのフィクショナリティという考えとは結構違うような気がする


話を戻すと、質感旅行はコミュニケーション行為じゃないわけだが、ウォルトンのメイクビリーブ論は、プロップによってフィクショナリティが生じるので、質感旅行みたいなものに応用しやすいのである。モノさえあれば、意図とかはあまり気にしなくてよいので。
一方、カリーのメイクビリーブ論はむしろ、コミュニケーションにおける意図を組み込んだ議論だったはずなので、このレトリックとしてのフィクショナリティ論は、そのあたりはカリーと似てるのかもなーと思いながら読んだ。