Paul Dawson "Ten Theses against Fictionality"

muse.jhu.edu
フィクショナリティの修辞的アプローチについて
以前、下記の記事を読んだ際にこの考えに興味を持ったのでちょっと調べてみよう第二弾

euskeoiwa.com


第一弾として読んだHenrik Skov Nielsen, James Phelan and Richard Warsh "Ten Theses about Fictitonality" - logical cypher scape2と同じ号のNarrative誌に掲載されているが、about論文への言及も多くなされている。
そして、やはり同じ号に、about論文の著者の1人であるSkovによる、Dawsonへの返答も掲載されていたようだ。
なお、この論文の存在は大岩さんに教えてもらった。
twitter.com


この論文は、フィクショナリティの修辞的アプローチを相対化するもので、修辞的アプローチで何かいいことあるの、と問うている


例によって、英語が全然読めてないので、読めたところだけざっくりと要約する

1) Semantics versus pragmatics is borrowed and boring
2) How many degrees of fictionality does it take to change a genre?
3) Fictionality is a signifier without a referent
4) The new approach to fictionality is an old approach to fiction
5) Signposts are signposts
6) Fictionality both inherits and undermines the unnatural
7) Narrativity is always already fictionality, except when it’s not
8) Fictionality wants to have its postmodern cake and eat it too
9) Fictionality has become the bastard child of the narrative turn
10) Who cares why we read fiction(ality)?

まず、Walshは、フィクショナリティの意味論ではなく語用論をやるべきだー、と言ってるけど、その区別の仕方間違ってるんじゃね、という指摘


修辞的アプローチは、ノンフィクションな言説の中にもフィクショナリティがあり、そのことによってノンフィクションな言説がフィクションになるわけじゃないとしている。で、フィクショナリティの程度が問題だ、としている。
でも、フィクショナリティの程度によって、フィクションがどうか区別できるのでは? とか


フィクショナリティの修辞的アプローチは、フィクションそのものの理解には何か新しいとこあるの? 今まで別の人たちも同じこと言ってないか、とか


フィクショナリティの修辞的アプローチは、不自然なナラトロジーというのと関係していて、不自然なナラトロジーを提唱してた人たちが修辞的アプローチもやってる感じらしいのだが、Dawsonによると、不自然なナラトロジーってフィクション言説に見られる不自然さに着目してたのに、ノンフィクション言説に手を広げちゃうと、不自然さというのがボケないか? と言いたいっぽい


あと、外在的な批判っぽい話もあって
ナラティブ・ターンと動きが似てるのではないか、と。
で、ナラティブ・ターンというのは、ディシプリン横断型の研究で、ナラティブというのは色々なところにあって色々なディシプリンで研究されてるから、学際的にやろう、という流れ
で、これって、ナラトロジーインパクトというより、大学で学際的な研究センターを作ろうという需要によるものでは? みたいなこと言ってて、フィクショナリティ研究もそういうとこあるよね、みたいな話だと思う


何故人はフィクションを読むのか
これについて、文学的ダーウィニズムとか認知的ナラトロジーとか呼ばれる分野があるらしいのだが*1、フィクションが色々役に立つことがあるよ、という話があって、修辞的アプローチも、フィクションの役に立つ価値を示しているんじゃないの(新しい哲学的観点とか、新しいテクスト分析とかじゃなくて)


これを読んでいると、修辞的アプローチでなくとも、ナラトロジーの中でフィクショナリティへの注目は他にもあるのかな、という感じがした。
個人的には、むしろ不自然なナラトロジーの方が興味出てきた

*1:正確にいうと、ディヴィッド・ハーマンという人が、何人かの研究者をそのような名前で分類している