伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』

5巻は「中世3 バロックの哲学」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2


シリーズが始まった頃は、勝手に、古代、中世、近代、現代が2冊ずつだと思い込んでいたので、中世3の表記に最初驚いてしまった。
実際は、古代2、中世3、近代2、現代1の8巻構成である。
ただし、本書が扱う時代は14〜17世紀であり、一般的に中世とされる時代ではない。
本シリーズでは、特に16〜18世紀半ばを近世と呼ぶことにしており、本書は中世と近世、特に近世を扱っている。
なお、サブタイトルにあるバロックは17世紀頃頃のことを指す。
歴史区分を、古代・中世・近代の3つにしか区分しないような分け方の場合、近代は15・16世紀頃に始まるとされるが、ある時期から、ここに「近世」という時代区分が日本史だけでなく、ヨーロッパ史や世界史でも使われるようになっているようだ、というのは素人ながら何となく感じている。
この時代をあえて「中世3」としてまとめることで、中世と近代が断絶しているのではなく、近世を介して連続していることを示そうという意図だろう。
そもそもこの中世1から3冊を通じて、中世は決して暗黒時代ではない*1ということを示そうとしているのだとも思う。


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と、以前読んでいる最中に書いたが、実際扱われているのが結構マイナーで
前の巻だと、「中世哲学知らないから勉強になるなー」という感じとはいえ、トマスとかオッカムとか、名前自体は知ってるような人たちが並ぶのに対して、この巻は、名前や学派、キーワードなどからしてすでに全然知らないところから始まる感じであった。
その分、面白かったともいえる。

第1章 西洋中世から近世へ 山内志朗
コラム1 ルターとスコラ学 松浦 純
コラム2 ルターとカルヴァン 金子晴男
第2章 西洋近世の神秘主義 渡辺 優
第3章 西洋中世の経済と倫理 山内志朗
第4章 近世スコラ哲学 アダム・タカハシ
第5章 イエズス会キリシタン 新居洋子
第6章 西洋における神学と哲学 大西克智
コラム3 活版印刷術と西洋哲学 安形麻理
コラム4 ルネサンスとオカルト思想 伊藤博
第7章 ポスト・デカルトの科学論と方法論 池田真治
第8章 近代朝鮮思想と日本 小倉紀蔵
第9章 明時代の中国哲学 中島隆博
第10章 朱子学と反朱子学 藍 弘岳

第1章 西洋中世から近世へ 山内志朗

哲学史の中で重視されてこなかった14、15世紀
筆者は、ビッグネームがいなかったためにこのような不当な評価をされており、実際には、大学の数が増え、活版印刷の登場もあり、哲学も盛んになっていた時代だとする
筆者はこの時代の大雑把な分類として、「唯名論の系譜」「ドイツ神秘主義」「オックスフォード・リアリズム」「正統的カトリック神学」「イエズス会とスペイン・バロック哲学」と並べる
その後特に、唯名論の系譜、オックスフォード・リアリズムのウィクリフイエズス会を中心にした第二スコラ哲学などを論じている。
唯名論については、唯名論者とされている者の主張と唯名論という名前があっていないこと、それでいて何故唯名論と呼ばれているのかが説明されている。
筆者は、唯名論とは函数的なものの捉え方、外延主義的な考えだとする。
一方、神学の義認論という分野で、グレゴリウスの唯名論という立場があって、これが色々あって混ざったようだ

コラム1 ルターとスコラ学 松浦 純

コラム2 ルターとカルヴァン 金子晴男

ルターはオッカムの、カルヴァンスコトゥスの影響を受けている
両者とも神秘主義の影響を受けている

第2章 西洋近世の神秘主義 渡辺 優

アビラのテレサと十字架のヨハネを中心とするスペイン神秘主義について


神秘主義は哲学なのかという点について、神秘主義を「知に焦がれる・希う」「愛する知」と位置付ける。あるいは、語りえないことをそれでもなお語らずにはいられない者なのだ、とも。


スペイン神秘主義の先駆として「照明派」
また、イエズス会ロヨラ神秘主義的傾向があった、と。
ロヨラ神秘主義というのは、ギリシア哲学由来の観想と活動の区別、というのをなくして、活動の中の観想を到達点とするというもの


さて、テレサについて
知らない人だなー、と思ったら、バタイユ『エロティシズム』の表紙に使われている彫像のモデルになった人で、この彫像により有名らしい
神秘主義を神秘体験によって特徴づける、という近代的神秘主義理解は、テレサに由来する
のだが、本章ではむしろ、テレサ神秘主義はそういうものではなかった、ということが論じられていく。
若い頃に、この彫像に描かれているような官能的な神秘体験をしたらしいが、テレサ自身は、その体験には重きを置いていない。
先ほど述べたとおり、観想と活動の区別というギリシア由来の区別があり、さらにキリスト教においては、神への愛と隣人愛という2つの愛のあり方がある。そして前者をよりよいものとする、というのが伝統的な捉え方らしいのだが、エックハルトはこの理解を逆転させる。
テレサエックハルトと同じ考え方をしている
スペイン各地に修道院を創立するという事業をテレサは行なっている。
神秘体験の中で鮮烈に現れる神ではなく、人々のなかで生きる中で、はっきりとはしない形で現れる神のことをテレサは語る。
また、テレサは、女性の弱さを語るが、それを逆説的に女性の強さとしていく。
つまり、女性は学問ができない存在であるが、そもそも神の知は学問によって近づけるものではなく、愛や祈りによって近づけるものであり、そこにむしろ女性の方が神に近いのだ、という女性の優位さを示している。
また、この祈りというのは「私たち」によるもので、共に分かち合うものだという考えもある。


この世界哲学史シリーズの中で、主題的に取り上げられた女性は、このテレサが最初だと思う(女性哲学者自体は、確か古代ローマあたりの章でも出てきたが、名前が言及されたのみ)


ヨハネは、詩とそれに対する注解という形で著作を残した人で、本章では、そこに見られる「暗夜」が一体何を意味しているのかという点が解説される。


テレサヨハネともに16世紀の人

第3章 西洋中世の経済と倫理 山内志朗

中世スコラ哲学の中の経済学
その中でも特に、13世紀フランスのペトルス・ヨハネス・オリヴィについて


中世スコラ哲学の経済学というとピンと来ないが、既に戦前の日本でも、トマス・アクィナスの経済思想を研究していた人がいたらしい


そもそも中世の経済思想は独特で、利子をとってはいけない、というのが根本にある
トマスによると、利子をとるというのは、(1)時間を売ることになっているが時間は神から与えられたものなのでこれを売るのは罪(2)元本と返済金は等しいので、さらに利子をとるのは同じものを2度売ることになるから罪(3)元本を返せば返済したことになるのに利子をとるのは無を売るから罪、ということになる
使用するとなくなってしまうものの貸借を「消費貸借」、使用してもなくならないものの貸借を「使用貸借」と分け、ワインなどは前者、土地などは後者なのだが、貨幣もまた前者に分類されていたのだという。
売買という考えはとらず、等しい量の貨幣で返還する、という考え方らしい、消費貸借


とはいえ、商業革命により、遠隔地との商売が行われるようになり、リスクなどの考え方が入ってきて、海上保険など、実質的に利子に相当するものが認められるようになってくる。


さて、オリヴィ
アッシジのフランチェスコ、そして彼を開祖とするフランシスコ会は、清貧思想を旨とし、貨幣や富の所有を拒絶するのだが、その一方で商業の庇護者としても知られている
オリヴィは、フランシスコ会の中でも急進派
哲学的にはオッカム、スコトゥスの先駆者とも見られ、カトリック批判を行った人でもある
「貧しき使用」論を展開。
未来のために必要ならばこれを所有するのは正当であり、消費しても消えずに残存する、という考え(非存在を売ることにならないので、利子が正当化される)


オリヴィの経済思想
(1)資本概念の創出
利子をとってはいけないという考えだと資本は増えていくことがないが、オリヴィは資本の増殖的性質を認めた
(2)利子肯定論の提唱
(3)共通善という論点を経済思想に持ち込む
価格決定は共同体によってなされる
(4)市場の発見
(5)新しい公正価格論の提起
従来、公正価格はどこでも一致と考えられていたが、売り手と買い手の自由契約による価格も公正価格だとした。ものに内在する価値と価格の不一致を許容した


オリヴィの思想が、資本主義の起源なのかという点について、歴史家の間での議論に決着はついていない、としつつ、筆者は、資本主義の原型がこの時代に既に準備されており、その思想的裏付けをオリヴィが担ったのだと論じている。


第4章 近世スコラ哲学 アダム・タカハシ

15・16世紀のスコラ哲学について
アリストテレス主義の伝統と、それを支えた制度としての大学、その伝統の背景にある、12世紀の哲学者アヴェロエスの思想について紹介したのち、16世紀の哲学者として、ポンボナッツィ、スカリゲル、メランヒトンの3人が検討される。
アヴェロエスの思想としては、知性単一説と神的摂理の問題が特徴としてあげられる
前者は、知性というのは非身体的で質料を欠くので個別化されず数的に一つである、という説(人類の知性は、個人個人にあるのではなく、全人類で一つの知性を共有しているという、なんかすごい説)
後者は、神の摂理を説明するのに、天体を持ち出すというもの。アリストテレスが論じていない神の摂理を、アリストテレス哲学で解釈する方法
さて、検討される3人の哲学者について、3人それぞれ違う思想が展開されている(例えばポンボナッツィは活動していたパドヴァの土地柄、キリスト教神学とやや対立した考えだったり)が、筆者は3人とも先人と比べてオリジナリティはないという。
(この点、「魂・知性論については」という限定付きとのこと、筆者のタカハシさんからご指摘ありましたので追記しておきます。ちゃんと読み取れていませんでしたが、確かに知性論の文脈で書かれている箇所です)
16世紀の哲学の特徴は、アリストテレスの『動物誌』やガレノスの著作などから、自然学の経験的な事例を取り込もうとしているところにある、と。

第5章 イエズス会キリシタン 新居洋子

章のタイトルからは分かりにくいのだが、主に中国におけるイエズス会による哲学の翻訳と儒教との関係について論じられている。
「世界」哲学の感が非常に強い章である。


イエズス会の宣教師は、中国でスコラ哲学や西欧の文物の翻訳を行った。その際、音訳と共に意訳を行なっている。
ここでは、理性(ratio)の翻訳について特に論じられている。
彼らは、理性を「霊性」と訳している。
このことはまず、スコラ哲学においてratioは、現在、理性という言葉で理解されている概念とは意味合いが少し異なっていたことを示す。
一方、霊性という訳語が、儒教の理解から得られていることも論じている。
面白いのは、イエズス会はもともと仏教を意識して 袈裟を着た「僧」の格好をして布教していたが、程なくして儒家から、中国では立場が微妙な仏僧の真似をするのは得策ではないと教えられ、むしろ儒教の方へと接近していったということ。


一方、朱子学には「理」という概念がある。
イエズス会の宣教師は、儒教に対しては妥協的だったが、「理」概念に対しては批判的で、『神学大全』の翻訳には、原著にはない「理」批判が書かれているとか。
ただ、この「理」概念をライプニッツは再解釈した上で、神と同一視するほどに受け入れている。
また、ライプニッツによる再解釈は、朝鮮でなされた朱子学批判と方向性を一にしているとか。


東西双方向に影響関係があったのだ、と。

第6章 西洋における神学と哲学 大西克智

神学と哲学の関係を、哲学者内部の信と知の関係で整理する。
まずアンセルムス、そしてイエズス会のモアナとスアレス、最後にデカルトを挙げている。
アンセルムスにおいては、信があるからこそ知があるという関係だったが、時代が下り、モアナとスアレスになると、信と知は乖離しており、哲学は神学の婢女ではなくなる。

コラム3 活版印刷術と西洋哲学 安形麻理

コラム4 ルネサンスとオカルト思想 伊藤博

ミランドラ、アグリッパ、ポルタ、フランシス・ベイコン
魔術というのが自然に従うものだという思想

第7章 ポスト・デカルトの科学論と方法論 池田真治

ポスト・デカルトの哲学として、ホッブズスピノザライプニッツの3人が比較検討される。
章タイトルにある通り「方法」がキーワード。この章にとって、というだけでなく、この時代のキーワードだったよう。
3人とも、数学に基づく新しい「方法」を立ち上げようと論じている。一方で、アリストテレス的伝統を受け継いでいる面もある、と。


全然知らなかったけど、ホッブズというのはガリレオを崇拝していて、自然学にも詳しかったらしい。『リヴァイアサン』にも科学論があるとか。


ライプニッツデカルト批判、よいなー
明証性とかコギトとか主観じゃん、と

第8章 近代朝鮮思想と日本 小倉紀蔵

朝鮮思想、というのも考えてみれば標準的な歴史の教科書では全然触れられないところだろう。
この章では、朝鮮における朱子学受容の話がなされるが、さらにその後、近現代についてもページが多く割かれている。
朝鮮の朱子学者の間でなされた論争が紹介されており、その中の一つに、人間の本性と動物の本性は同じかどうか、というのがあったらしい。


韓国や北朝鮮での「実学」の理解
実学というのはもともと朱子学のことを指す
ところが、明治の日本で、実用的な学問を指す言葉に変わる
朝鮮でもこれに影響される。日本の植民地下にあったとき*2の影響で、朱子学を前近代なものとし、一方で、朝鮮にも非朱子学的な思想があったとして「実学」なるものが発見される。
ただし、実態としてはそのような学派は存在しなかった、とのこと
とはいえ、そのようなものが要請されたのは、朝鮮も内発的な近代化が可能であったのだ、という戦後の考えによる。
本章では、朝鮮の内発的近代化に繋がったかもしれない流れとして、東学と北学をあげる
(東学は、北朝鮮でそのように扱われていたが、韓国ではそうでもなく、むしろ近年において脱近代の潮流として論じられているとかなんとか)
また、韓国では、逆に朱子学ポストモダンなものとして論じられるようになっているとか。日本と韓国で、ポストモダンのイメージが全然違うとも(韓国のポストモダンは、近代の負の側面を道徳的に断じるもの、らしい)


短い紙面で、朝鮮思想史をまとめていかなければならない章なのだが、最後、かなり長めの引用で終わった

第9章 明時代の中国哲学 中島隆博

これは主に陽明学について
弱い独我論としての陽明学(独我論というか、私の心が基準になるのだ、という感じ?)
王陽明だけでなくその後の展開もあわせて紹介されている
また、キリスト教と仏教の間で行われた、殺生戒をめぐる論争について
中国イスラーム哲学についても
ムスリム儒者というのがいたらしい。近年研究が進んでいるらしい。

第10章 朱子学と反朱子学 藍 弘岳

章のタイトルからは分かりにくいが、荻生徂徠について
徂徠やその弟子たちは、儒学だけでなく、文芸、国学、水戸学にも影響を与え、漢字音韻学にも繋がったとか
また、徂徠は、影響を与えたかどうかはともかく、中国や朝鮮でも結構読まれてはいたらしい。

sakstyle.hatenadiary.jp

*1:すでにそのようなイメージを頭から信じてる人は(このような本の読者層であれば)少ないとは思うが

*2:なお、本章では「併合植民地」という言い方がされているが、ちょっと謎。単に植民地でよいのではないか