『フィルカル』Vol. 7 No. 3

久しぶりに『フィルカル』
これは2022年12月に出た号なので、もう3年ちょっと前か。
「作者の意図、再訪」という特集が組まれており、村山さんと銭さんが書いていて、これが主な目当て。

特集 映画で倫理学 フィクションもまたドキュメンタリーである 和島香太郎監督『梅切らぬバカ』をめぐって 上村 崇・佐藤 靜・谷田雄毅・吉川 孝

和島監督を、4人の哲学者・倫理学者が囲んでの座談会記事
『梅切らぬバカ』というのは、50歳になった自閉症の男性とその母親の日常を描いた作品で、彼らの家にある梅の枝が隣の家の敷地に飛び出していて、それで隣の家族との関係なども主題になってきているらしい。
母親を加賀まりこ自閉症の男性を塚地武雅が演じている。
フィクション作品ではあるのだが、当事者への取材を通じて何度も脚本を書き直して*1制作していったということで、制作過程にドキュメンタリー的な要素もある、と。
倫理学的な研究のあり方といった話もすれば、純粋に映画の話をしているところもある。
この作品のことは自分は全く知らなかったが、それでも面白く読める記事だった。

特集シリーズ 作者の意図、 再訪

2022年6月に行われたWSを行っていて、そのWSの報告
同WSでは、村山、銭に加えて、原虎太郎も発表しており、それについての報告は次号(実際の掲載は次々号)とのこと

作者の意図はなぜ芸術解釈の問題になるのか 村山正碩

意図主義と反意図主義の間の論争というのは、互いに穏健な立場となり、いってること自体は似通ってきて落ち着いてきているが、そもそも、なんで意図について論争していたのかの前提を改めて捉え直す。3つの論点

  • (1)なぜ解釈の適切さを気にするのか

意図論争は、適切な(正しい)解釈をするのに作者の意図は関与するのか、という議論だが、そもそも適切な(正しい)解釈を何故目指すのか。
芸術鑑賞においては、解釈には正解がない、自由な鑑賞がよい、という立場もあり、その立場からすると、適切な(正しい)解釈を目指す意味がわからない。
これに対して、芸術鑑賞をゲームプレイにたとえる、Nguyen(2020)の議論が紹介されている。
要は、適切な(正しい)解釈を気にする、というのは、芸術鑑賞をより面白くする縛りプレイなんだよ、ということ
このグエン論文は、村山さんが自分のブログで紹介している
ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7

  • (2)解釈では何が問題になるのか

Matravers(2014:Ch.5)の議論が紹介されている。
芸術作品を解釈するにあたって、気にすべき4つの問題がある。
a.目の前の対象は解釈の適切な対象か
→作品なのか否か。例えば、全然聞き慣れない音楽ジャンルを聞いた際、それがただのチューニングなのか演奏なのか
b.その対象の境界や同一性
→どこまでが作品の一部なのか。例えば、ダミアン・ハーストのホルマリン漬けの作品は、それを入れている容器も作品の一部なのか、それともあれは絵画における額縁のようなものなのか。
c.その対象が位置づけられるカテゴリー
d.その対象の意味
aとbは、芸術作品の存在論として論じられることが多く、解釈の問題として論じられてきたことはないが、しかし、解釈が必要な問題である。
cについては、一般的に作者の意図に基づくと考えられており、反意図主義者とされる人であってもそう。
なので、意図論争は基本的にdのレベルでおきている。

  • (3)作者の発言をどう受け止めるべきか

作者の意図で決まるんだったら、作者の発言ですべて決まるじゃん、ということに対して、作者が正直に全部言ってるとは限らないなど。
ざっくりまとめると、作品解釈の話なのに、作品そのものよりも作者の発言の方を見ることになったら本末転倒では、という疑念に対して、意図主義をとるとしても(強い現実意図主義をとらない限りは)(作者の発言が絶対ではないので)作品を見ることに意味はあるよ、というような趣旨の話かなと思う。で、これが、次の村山論文ともつながる。

創造的行為における意図とその明確化 村山正碩

これも、意図論争のそもそもの前提を問い直す議論
「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」あとがき - #EBF6F7から元になった発表や、その発表を元にした論文を確認できる。
「意図」の定義がそもそもできてなくない? 行為論をヒントに考えてみる、というもので
なぜ作品から、作者の意図がわかるのか、というか、作者の意図を知るのに作品をみていくことの意味というか。
前の論文の論点(3)とも関わっていて、もし意図主義が正しいとして、作品解釈の面白さ・よさってどこよ、という話でもある、多分。


行為一般において、行為の前に行為者が自分の意図を知らない、ということは普通考えにくい。(例えば、道ばたで腕をあげた人が「私は今なんで自分が腕をあげたのかわからない」といえば、それはタクシーを止めるという行為をしたことにはならない)。
しかし、それがありうる行為がある。
それが芸術制作などの創作行為
芸術家は、自分がどういう作品を作りたいか、作品を作る前に正しく意図できているわけではない。実際に作品を作っている中で、自分が何を作りたかったのかが分かってくる、ということが往々にしてある(ように思われる)
「意図の明確化」
2つの基準を提案している。
基準1:記述できる
基準2:自分の行為がうまく運んでいることに気づくことができる
基準2は、自分の意図を言葉にすることはできないが、やりながら「なんか違うな……お、これだ!」と思うような感じ。

制度は意図に取って代われるのか 銭 清弘

エイベル『フィクション 哲学的分析』への批判と改善
なお、銭による同書の書評は以下
フィクションにおいて想像はいかにして伝達されるのか——キャサリン・エイベル『フィクション 哲学的分析』書評 | Phantastopia〈パンタストピア〉
エイベルに対する批判ポイントは以下。
まず、エイベルはグァラ説を元にしながらも、グァラ説にとってポイントである「均衡」をいかしていない。
サール的な制度説でもいえる話で、実際エイベルはほかの論文だとサールに依拠しているらしい。
次に、エイベルはフィクションの読解を「理解」と「解釈」とに分けた上で、前者は制度で分析するが、後者は意図主義をとる。なので、あんまり反意図主義にはなりきれていない、と。
それがら「想像の伝達」をフィクションの価値としているけれど、それは本当か。
20世紀以降の文学なんかはむしろ、想像が伝達しにくいものに価値を置いていたのではないか、と
銭の代案
まずカテゴリを、前意図的カテゴリ、後意図的カテゴリ、超意図的カテゴリとに分けている。
特に超意図的カテゴリについて。
フィクションに限らず芸術鑑賞一般について、「想像の伝達」というゲームをしているのではなく、「経験価値の最大化」を目指したゲームをしていると考える。
まあこのあたりの話が、おそらく『芸術をカテゴライズすることについて』にまとまっていくのだろうと思うので、詳しい話はそちらでまとめたいと思う。

特集シリーズ 小山虎『知られざるコンピューターの思想史』

小山虎氏著者インタビュー『知られざるコンピューターの思想史― アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 』(PLANETS、 2022 年)

どうしてこういう本を書くことになったのかという経緯など
本の内容についても触れているが、本の書き方というかそういう話になっている。つまり、あまり学術的に書かれた本ではなく、小山としても、このテーマ自体は今後も研究するけれど、こういう本は多分もう書けない、と語っていたりするので。


内容は、ヨーロッパ編、アメリカ編、コンピュータ編の三部構成
ヨーロッパ編では、ドイツ的なものvsオーストリア的なものという軸から書いている。
これは、この分野、オーストリアの存在感が実は結構あるということを(論理学とかアングロサクソンのイメージがあるので)編集者が面白がったから
もう一つ、カントvsアリストテレスという軸もおいてあるが、これは筆者の創作だという。創作というか、学術的には厳密じゃないけど、一般向けには分かりやすいだろう、と(学術的なレベルで検証できてないけど、大雑把にはこうだったはず、と)。
それから、カルナップ不在になった、と(インタビュアーがカルナップ研究者でもある長田なので、このインタビュー中でカルナップの話について度々触れている)。
アメリカ編は、大学制度や移民の話など。
一方、プラグマティズやロイスの話ができなかった、と。
コンピュータ編について
本書の独創的な点は、コンピュータがアメリカ的な製品開発して特許をとる的な考えの産物ではなく、ドイツ的な富国強兵のためのアカデミアという思想のもとで生まれてきたものだ、と示したこと。
行動科学について書けなかった(が、これは書こうとすると膨れ上がるの仕方ない、とも)

小山虎『知られざるコンピューターの思想史― アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 』書評 村上祐子

哲学の社会史について
哲学もまた、当時の社会のあり方に規定される。
あと、やはりここでもこの本が学術的なものではない(査読誌に掲載されていたわけではない)ことに触れつつ、しかし、かつて、紀要に掲載された連載が本になっていったことに触れて、web連載というのもそういう場たりうるのではないか、と指摘している。

シリーズ 哲学の居場所を探る

インタビュー 第 1 回 『フィルカル』統括編集長 長田怜

『フィルカル』という雑誌を作った経緯とか、現在に至るまでの流れとか
美学系の人たちと、『フィルカル』作るまでは距離があったっぽくって、へえそうだったんだーと思った。美学の人たちはネットで結構いろいろやってたみたいなんですよねえ、みたいな言い方をしていた。
分析哲学の特徴、そして長田さんにとっての分析哲学のよさとして「ペラさ」を強調していた。
『フィルカル』は分析哲学の雑誌であるけれど、ある時期から、そこにそこまでこだわらなくなったというようなことも。

哲学の居場所を探るために 稲岡大志

2022年において、ポピュラー哲学として、どのようなものがあるのかの整理

  • 哲学入門書

専門家によって書かれた新書、ストア哲学が流行りつつある、哲学の多様性(女性哲学者についての本とか)、人生相談としての哲学
挙げられている新書のラインナップや女性哲学者についての本などは少なくともタイトルは知っていたりしたけど、ストア哲学の流行あたりは全然気づいてなかった。

コロナによってイベントのオンライン化が進んだことや、哲学系YouTubeチャンネルなど

  • 哲学カフェ・哲学対話・P4C

P4Cっていうのは子供のための哲学のこと。そういう概念(?)は知っていたけど、そういう名前がついているのは知らなかった。

  • マネタイズ

若手研究者がアカデミア以外での道をいろいろ模索している、と。クロス・フィロソフィーズ、The Five Books、AaaS Bridgeといった例

  • 哲学エンタメ

ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』、まんが学術文庫、『ここは今から倫理です』やNHKの番組など。

シリーズ ポピュラー哲学の現在 対談 「哲学と自己啓発の対話Ⅱ」 第一回 企画:稲岡大志/文責:玉田龍太朗

ヘーゲル研究してる哲学者で高校教師の玉田と、自己啓発の著作がある百川の対談第2弾の初回。
玉田は、百川の提案する自己暗示法を実践しており、玉田が色々哲学と自己啓発の関係についての話をふって、百川がそれに対して質問したりコメントしたりしながら進む。
玉田が、稲岡などの哲学者や宗教社会学者の島薗から聞いた話などを元にしながら、哲学者の自己啓発に対するスタンスは、哲学と自己啓発を区別する/区別しない、自己啓発に肯定的・否定的の4象限で分類できるのではないかというアイデアを出す。
百川は、哲学者の中にも自己啓発に肯定的な人たちがいることを意外に感じるとコメントしたりしている。
また、玉田は、島薗の話から、現世視線のものとと宇宙視線のものの区別、救いを求める宗教と癒やしを求めるスピリチュアルの区別などあげ、次回から、スピリチュアルをめぐる話になるのかな、と思わせるところで終わっている。

自著紹介 自著解説『「美味しい」とは何か』で消化できなかった話 源河亨

ワインについての言説で、人に喩えるのは何故なのか。
欠点も愛らしく思えるから、という説を、たまたま飲んでいたら出会った人に聞いたのだけど、深夜で記憶も曖昧だ、という話。

自著紹介 自著解説『哲学の門前』余滴 吉川浩満

哲学そのものより、哲学との出会いについて書いている

訳者による紹介 ノエル・キャロル『ホラーの哲学』なぜ怖いものが見たいのか 高田敦史

マンガ『空が灰色だから』「こわいものみたさ」のコマを引用して始まってるのが目を引く
ホラーに関心がないのでスルーし続けているが、ホラーに限らずポピュラーカルチャーの哲学にかかわる話してる、とプッシュされている。

編者による紹介 稲岡大志・森功次・長門裕介・朱喜哲編『世界最先端の研究が教える すごい哲学』 長門裕介

「生煮え」をキーワードに紹介してる
研究が生まれる瞬間
この本も積んでる……

コラム 新海誠が苦手だ 森 功次

新海誠作品に苦手意識を感じているらしいのだけど、それについて整理・分析している
まず、どういう種類の苦手では”ない”のか、とか、どういう要素に苦手を感じるのかなどを整理している。
その上で今後どうするか、という話で、適切なカテゴリの鑑賞に馴れる必要があるだろう、と。
例えば、苦手に感じる理由の一つとして、そもそも自分がアニメに慣れていないからではないか、というのを挙げているからなのだが、完全にウォルトン「芸術のカテゴリーについて」の話だなあ、という感じだった。

*1:全然知らなかったのだが、加賀まりこも、パートナーの連れ子が自閉症らしく、加賀からもかなり意見をもらったとのこと