ノエル・キャロル『批評について』(森功次・訳)

批評の哲学の入門書
実はずっと積んでいたのだが、銭清弘『芸術をカテゴライズすることについて』を読むための予習として読むことにした。


ざくっとまとめると

批評とは、理由に基づいた価値付けである
芸術作品には、成功価値と受容価値があるが、批評は前者に基づく価値付けを行う
そのために意図主義の立場にたつ
批評は、客観的なものたりうる。その客観性は、芸術作品を適切なカテゴリーに分類することによって確保される。

といった感じか。
キャロルの主張は、ある程度規範的な側面があり(つまり「事実、批評とはこういうものである」という形式の主張ではなく「批評は、理想的にはこうあるべきである」という形式の主張に近い)、その点で、論争的な面を持つだろう。
例えば「批評は価値付けである」という主張に対して、価値付けをしていない批評もあるという反論も当然あり得るだろう。
キャロルは、批評の構成要素として、記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析、そして価値付けを挙げている。前者6要素を理由として価値付けを行うのが批評である、というわけである。絶対に必要なのは価値付けで、前者6つについては少なくとも1つは必要だが全て揃っている必要はない。
ところで、解釈や分析をやっていれば批評になるのであって、価値付けは必ずしも必要ではない、という立場もありうるが、キャロルとしては、それだと研究と批評の区別がつかないでしょ、ということらしい。価値付けなしで解釈や分析だけやってるものは研究と呼ぶべきで、研究と区別して批評というものがあるなら、それは価値付けをやっているかどうかで区別されるものなのだ、と。感想は後述する。
それから、成功価値か受容価値か、意図主義を採用するかどうか、ここらへんも議論が割れるところではあるだろう。
キャロル的には、批評というのは、主観的なものと思われがちだが、客観的なものでありうるのだ、というのがおそらく主張したいこととしてあって、そのためには、受容価値よりも成功価値に基づく価値付けであるべきだろうし、また、そこでの成功を測る基準として意図が持ち出されるのだろう。
個人的に一番面白いなと思ったのが、批評の客観性を支えているのは分類である、ということを論じる第四章
へえ、そういう風に議論が展開していくのかー、と。
実は結構、分類に力点が置かれている、というのは意外な感じがして面白い。
そして、なるほどそれならば確かに「芸術をカテゴライズすることについて」へとつながっていくよなあ、という感じがする。


ところで以上の論点のいくつかについては、北村紗衣『批評の教室』 - logical cypher scape2でも触れられている。
批評が価値付けであるかどうか、成功価値か受容価値かどうかについて、キャロルの主張は尊重しつつ、規範的にはそこまで重視していない感じ。
つまり、価値付けすることは面白いし、成功価値を見ることは大事だけど、必須ではないんじゃないか、と。初心者は価値付けまで踏み込まなくてもいいし、受容価値が面白い切り口につながるよね、といったスタンス。
批評を書く場合に、より実践的なのは明らかに北村本の方ではある。
ただ、キャロル本もキャロル本で、第三章の批評の構成要素を分解しているあたりは、実践的なものとしても読むこともできる。記述、解明、解釈あたりを意識して書き分けられると、作品読解としてかなりよいものになりそう。
素朴には、解釈って言葉はかなり広めに使われがちだし。これら3つは、シームレスな部分もあるけど概念上区別可能なものとして認識しておきたい。北村さんとかが、正しい解釈はないけど間違った解釈はあるといったりするけれど、間違った解釈というのは、記述や解明のレベルが誤っているということではないかな、と思う。

はじめに
第一章 価値づけとしての批評
 1 導入
 2 価値づけからの撤退
 3 批評の本性と機能 本章の要約
第二章 批評の対象
 1 導入
 2 成功価値vs受容価値
 3 芸術的意図は批評の価値づけに関わるのか:ラウンド1
 4 手短なまとめ
第三章 批評の諸部分(ひとつを除く)――批評はいかなる作業によって成り立っているのか
 1 導入
 2 記述
 3 分類
 4 文脈づけ
 5 幕間:用語法についての注意をひとつ
 6 解明と解釈
 7 分析
 8 ここまでの議論のとても短い要約
 9 芸術家の意図ふたたび:ラウンド2 意図と解釈
第四章 価値づけ 問題と展望
 1 導入
 2 でもそれって主観的なものですよね
 3 批評の原理は存在しない、という意見について
 4 分類(再び)
 5 批評と文化的な暮らし
訳者あとがき



以下、かなり雑まとめ

第一章 価値づけとしての批評

批評とは「理由にもとづいた価値付け」である、と主張する
ここでは、批評とは価値付けではないとする主張への簡単な反論が展開される。 

第二章 批評の対象

作品の価値を、成功価値と受容価値とにわける
前者は、作者が作品を作る上でもった意図が成功しているかどうか、ということ
後者は、読者が作品からどのような快を経験したか、ということ
批評は前者にかかわる、というのが本書の主張

第三章 批評の諸部分(ひとつを除く)――批評はいかなる作業によって成り立っているのか

タイトルにある通り、批評の中で行われている個々の作業について。
批評は、記述、分類、文脈付け、解明、解釈、分析、そして価値付けから成り立っているとする。
記述、分類、文脈付け、解明、解釈、分析は、価値付けのための理由を提供するもので、価値付けの下位に位置づけられる。本章はこれら6つについて扱う。
章タイトルに「ひとつを除く」とあるのは、価値付けは、次の章で独立して取り上げるから。
記述、分類、文脈付けはまあ、読んで字のごとしである。
記述と分類との間には解釈学的循環がある。
解明、解釈、分析は、よく似た言葉だが、本書でははっきりと区別されている。解明→解釈→分析の順の階層構造になっている。
解明は、言葉とか記号とかの意味を明らかにすること
解釈は、作品の中で描かれていることの意義とかメタファーとかを明らかにすること(主人公がとった行動の理由とか)
解明と解釈は、時にその境界が曖昧になることもあるが、概念としては別物。
分析は、作品全体としてどのような効果があがっているか明らかにすること
解明と解釈は意味にかかわるが、分析は必ずしもそうではない。解釈は分析の一種だが、分析は解釈を含むとは限らない。
例えば、装飾芸術の場合、物語作品のような意味内容は持たないので解釈はできないが、この形や色がこのように働いてこういう目的を果たしている、と言うことはできる。これもまた分析。


あらゆる意味が実際の作者の意図通りになる、という強い現実的意図主義は退ける。
慣習的意味と作者の意図が食い違った場合に、慣習的意味を採用することもできる意図主義として、仮説的意図主義と穏健な現実的意図主義とをあげる。
両者を比較して後者の立場をとる。

第四章 価値づけ 問題と展望

批評は価値付けであるとして、それは客観的なものとしてありうるのか
単に批評家の好みを押しついているだけでは、という批判にこたえる


批評がなぜ主観的なものと思われるのか
その要因をヒュームに見いだす。
ヒューム自身が主張したかったことではないが、ヒュームの影響により、批評=主観的と思われるようになった。
それは、以下のような推論による
前提1)あらゆる批評は趣味の行使である
前提2)あらゆる趣味は主観的である
結論)ゆえに、あらゆる批評は主観的である。
本章の第2節では、前提1の誤りを指摘している。批評は必ずしもすべて趣味判断ではない。
必ずしも美についての判断ではないから、というのと、知覚的なものとは限らないから、というのがあげられていたかと思う。
なお、注釈において、前提2を疑う方向もあることが示唆されている(ヒュームやカントはおそらくそういう方向性なのだろう)。


それからもう一つ、アイゼンバーグとマザーシルによる、批評の原理は存在しない(から批評は主観的である)という主張への反論もなされる。
批評の原理は存在しない派は、批評が以下のような論証構造をしているとする。
前提1)この作品WはFという性質を有する
前提2)Fという性質を有する作品は優れている
結論)故に作品Wは優れている
前提2で導入された一般法則(批評の原理)は存在し得ない。だから、批評はこういう論証をすることができないために、主観的だ、という批判
これに対してキャロルは、ここで批評の原理とされるものの条件が厳しすぎる、という
確かにそんな一般法則は存在しないけれど、それは求められる一般性が高すぎるからであって、カテゴリごとであればありうる。
(ここでキャロルが導入してくる、カテゴリ相対的な法則には「ほかの条件が同じならば」という限定がつけられているが、こういう限定は、自然科学でも使われるのだから批評で使っていけないいわれはないよね、と釘を刺している)
ということで、分類の客観性こそが、批評の客観性を担保する、という方向で議論が進む(なお、文脈づけがその役割を担う場合もあると補足されてもいる)。
*1
構造、歴史的文脈、意図という3つの理由に基づいて、分類はなされる。
理由に基づくので客観性が保たれる、と。
一つの作品が複数のカテゴリーにまたがっている場合もあるよね、ということで、多元カテゴリー的アプローチを採用する。


異なるカテゴリーに属する作品間の比較はできるか(例えば絵画作品とテレビドラマ作品の比較とか)。
基本的にそういうことはできないけど、できる場合もあるよね、としていて、そのできる場合の一つとして、カテゴリー同士を比較する場合がある、と。
コメディドラマの傑作と絵画の傑作を比較する場合、コメディドラマというカテゴリーと絵画というカテゴリーの比較になっている。文化全体のなかで、コメディドラマと絵画のどちらの方がより重要か
で、キャロルは、「この作品はコメディドラマの傑作だ」という批評と、「コメディドラマより絵画の方が、より重要なカテゴリである」という批評を区別していて、前者を芸術批評、後者を文化批評と呼ぶ。
当然だが、文化批評の方がより広い見識が必要。
批評家は実際にはどっちもやることがあるけれど、別物だと区別しておいた方がいいよね、と。


順番前後するけど、批評における価値付けについて、
作品のランキングつけるのが批評というわけではないよ、と。作品の注目すべきところ、価値あるところを示すのが批評だ、と。

訳者あとがき

感想

  • 批評と価値付け

批評、読んでも書いても面白いのは解釈や分析かな、とは思うので、解釈や分析だけでいい、価値付けがなくてもいい、という意見も分からなくもないのだけど、研究と批評とが区別できなくなってしまうのでは、というキャロルの指摘も納得できる
で、あと、それ以外にふと思ったのは、読むにあたっての動機付けにはなるな、と。
例えば、なんか作品の要素(ショットとか)の数をひたすら数えるタイプの研究とかあるけど、数えましたってだけだとまあ読む気にはなれない。
でも、この作品がどうして面白いのか、この数を数えると実はわかるんです、となってたら、読む気になるかもしれない。
解釈や分析(数えるのは記述だろうけど)にしても、なんでそんな解釈や分析をしたのか、というのがはっきりしていた方が読みやすいし、その際に、価値づけというのは活きてくるのだろう。
どうしてそういう分析などをしたのか、という目的が分かればいいので、その目的が必ずしも価値付けである必要はないのだけど。例えば、作家の変遷を明らかにするとか、そのジャンルの特徴を明らかにするとか。でも、それは確かに批評というより研究っぽいなという感じ

  • 成功価値と受容価値

これについては、自分個人の話をすると、自分は受容価値についてばかり書いてきた、と思うので、何もいえねーという感じでもあるのだが……
受容価値、というか、自分はその作品を鑑賞してこういう経験をしたというのは、結局、あなたの感想ですよね、という指摘を免れない
自分自身の書くものについては、まあそう言われても仕方ないかな、という意識はある。
とはいえ、批評(ないし研究)が全てそうあっていいのか、といえばそうではないだろう。
つまり、何らかの客観性はもつべき。
自分も自分個人の経験(受容価値)をスタートにはしているけど、個人的なものには尽きないもの、ちゃんと他の人たちとも共有できるものが提示できるようにしたいと思って、ものを書いていたつもりでいる。
自分は全然、成功価値に着目して何か書いたことはないんだけど、批評が客観性を確保するのにそちらに着目する、というのは、確かにそうかもな、とは思う。

  • カテゴリごとの原理

上の2つは論争的な感じもするのだけど、批評に対するスタンス・心構えみたいなものだと思えばまあ、という気もする
これに対してもう少し気になってくるのは
キャロルは、芸術一般に適用されるような原理の存在は否定するけれども、カテゴリごとの原理ならばあるだろうと考え、それに基づく客観的な価値判断があると考えているようで、
言われてみれば確かにありそうな気もするものの、本当にそんなうまくいくかそれはとか、芸術作品の価値判断ってそんな法則を当てはめるようにして行われるものなのかとか
ここは結構重要なポイントのような気がしている

  • 意図主義まわり

このあたりも色々あるとおもうんだが、このあたりは自分があんまり関心をもてないでいる

*1:批評の客観性を担保する他の道として、倫理学における個別主義を美学に拡張するという方法が示唆されているが、具体的にどういうものかは書かれていない。個別主義って言葉自体は鈴木貴之『人工知能の哲学入門』 - logical cypher scape2でも見かけたのだが、シブリーっぽい話か? というふわっとした認識でしかない(し、それであってるのかもわからない)上に、それがどう客観性に結びつくのかもよくわからない