鈴木雅雄編著『マンガを「見る」という体験』

サブタイトルは、「フレーム、キャラクター、モダン・アート」
去年の6月から12月にかけて開催された三回連続のWS「マンガ的視覚体験をめぐって――フレーム、フィギュール、シュルレアリスム――」をもとにした論集。
参考:伊藤剛・鈴木雅雄「マンガ的時間、シュルレアリスム的時間」感想ツイート - Togetter
マンガとシュルレアリスム美術を比較しながら、論じられたもので、非常に刺激的で面白かった。

第1部 マンガの時間、絵画の時間
消える男/帰ってくる男――マンガから見た絵画・シュルレアリスム 伊藤剛
瞬間は存在しない――マンガ的時間への問い 鈴木雅雄


第2部 マンガのコマ、絵画のフレーム
マンガにおけるフレームの複数性と同時性について――コマと時間をめぐる試論(一) 野田謙介
分裂するフレーム――シュルレアリスム〈と〉マンガ 齋藤哲也


第3部 マンガをめぐる言説、美術をめぐる言説
マンガと美術――現代美術批評の観点から 加治屋健司
マンガ表現と絵画の境界をどう考えるか――フィギュールという接点 中田健太郎


第4部 シュルレアリスムの視覚体験とマンガ
ロプロプが飛び立つ――動いてしまうイメージの歴史のために 鈴木雅雄

消える男/帰ってくる男――マンガから見た絵画・シュルレアリスム 伊藤剛

マグリットの《新聞を読む男》といがらしみきおの「42.195キロ」(『BUGがでる』所収の4コママンガ形式の(ただし24コマの)マンガ)とを引き合いに出しながら、マンガと絵画の違いについて
より細かくいえば、キャラ図像と絵画の違いについて
画面に出てきた人物像が、「帰ってくる」とき、キャラ図像となる

瞬間は存在しない――マンガ的時間への問い 鈴木雅雄

動いてしまうイメージについて
イメージとは、動いているかのように見えるものではなく、そもそも動いてしまうものなのではないか。そして、ルネサンス以降の西洋美術史はそれを静止させようとする歴史なのではないか。19世紀以降の視覚文化のパラダイムにおいて、モダニズムの方向性とマンガの方向性があったのではないか。
動いてしまうイメージというのは、マンガにおいて、一つのコマの中で複数の時間が同時に描かれているようなものである。
観察者の視点と当事者の視点の共存として考える
当事者視点のイリュージョンと、そのイリュージョンを可能にしている仕掛けをみている観察者の視点
泉いうところの身体離脱ショットとか、観光ポスターなどに見られる構図とか
マンガにおける同一化・没入とは、そのような観察者の視点がいつも組み込まれた醒めた没入である

マンガにおけるフレームの複数性と同時性について――コマと時間をめぐる試論(一) 野田謙介

鈴木が、動いてしまうイメージとしてあげていた『よつばと』の同じコマを引用しながら、むしろ幅をもつ「瞬間」を考える
コマについて
コマというとコマ枠と同一視されるけれど、それを疑う
また、日本のマンガ論では齋藤の三要素論の影響で、コマがマンガの三大要素だと捉えられているが、海外のマンガ批評では、必ずしもコマを特権視していない(マンガの典型例として何を入れたいかの文化差)
コマ枠の中に、見えないコマを見て取る「コマの下位集合」(一つのコマに複数の時間があるような、例えば『よつばと』のコマ)
複数のコマをまとめるような、「コマの上位集合」(ヨコタ村上孝之のコマ分割のやりかたを参考に、『風の谷のナウシカ』のページを読むやり方)
コマ枠以下のコマや、コマ枠以上のコマなどといったまとまりの中に、時間的なまとまり(瞬間)を我々は見出す

分裂するフレーム――シュルレアリスム〈と〉マンガ 齋藤哲也

シュルレアリスム絵画を、「コマ展開」なき「コマ構成」として捉えて、マグリット、ブローネル、マッタの作品を見ていく
つまり、画面を複数に分割しているが、その分割されたコマとコマとが連続しているように見える、物語となっているわけではない。ここに、シュルレアリスム絵画とマンガの共通点と相違点を見ている
では、シュルレアリスムの画家たちは何故画面を分割したのか
マグリットにおいて提示されているのは、「見えないもの」であり、それは間白
ブローネルについては、フランスの批評家から「映画的」と評されたのを受けて、本当に「映画的」か検討する。ショットの連続性とフォトグラムの連続性の差異について確認し、フォトグラムの連続性(つまりパラパラマンガのように見る)でもないとする。ブローネルは、画面を分割することで、フィギュアの同一性でも、運動の変化でもなく、差異を示している
マッタは、マルチ・パースペクティブの空間を探究した画家として知られている。モンドリアンのように分割可能ではないが、ポロックのように分割不可能でもない。一つの画面の中に複数の空間がある。習作を見ると、コマ枠が描かれた絵を何枚も描いている。そして、次第にコマ枠線を跨ぎこすように描かれるようになる。これは、少女マンガをはじめとしてマンガにもよく見られる表現である。そして、コマ枠の線も消されて、一つの画面になることで、複数の空間が一つの画面に共存する絵となった。


マンガと美術――現代美術批評の観点から 加治屋健司

「絵」の問題と「時間」の問題について
「絵」について
経験的イメージと超越論的イメージ
超越論的イメージの例)地図、旗(ジャスパー・ジョーンズ)、数字、グラフ(『バクマン』)、絵の中の絵(『ワンピース』)
「時間」について
「特権的瞬間」(古代)と「任意の瞬間」(近代)
レッシング『ラオコーン』が注目した「特権的瞬間」から、グリーンバーグやフリードが注目した「任意の瞬間へ」
また同時に、作品内部の時間か鑑賞する体験の時間へと、着目するところが変わっている
ちなみに、具象絵画と現代美術で鑑賞時間に差異があるという調査があるらしい
マンガにおける緩急のある鑑賞(映画とは異なる)

マンガ表現と絵画の境界をどう考えるか――フィギュールという接点 中田健太郎

マンガ言説について
岡本一平の時代、西洋のマンガ家といえばドーミエだった。現在、19世紀のマンガ家といえばテプフェールだし、マンガと関係する版画家としてはホガースの名前があがる。時代によって、典型的な「マンガ」として指される例は変化する。マンガとは何か考える上で、理論的考察と歴史的考察は両輪。
かつて、マンガと美術は近しいものとして語られていた。
フィギュール(形象)について
フランス語では、心象的な意味のまとまり、とくに顔や人物像といったニュアンスをもつ
シュルレアリスムでは、たんに「対象」というのとは異なる、心的な意味単位という意味で使われた
対象でも抽象でもない、形象
非連続的なものを積み上げる
ぼく脳作品に見られる「積分的フレーム」
マンガの一コマ一コマが現実の一瞬一瞬を再現代行しているのではなく、フレームを複合させることでかつて一度もなかった時空を生みだす
フィギュラシオン・ナラティブにおける事例

ロプロプが飛び立つ――動いてしまうイメージの歴史のために 鈴木雅雄

動いてしまうイメージを美術にも見出す
デ・キリコ、エルンスト、タンギー、ブローネル
19世紀以降の「視の制度」による、観察者と当事者の視点の二重化という問題の前で、マンガ的な方向と、セザンヌ的なモダニズム絵画の方向性、デ・キリコ的なシュルレアリスム絵画の方向性に分かれる
「絵」でも「記号」でもない「図」(マンガやポスター・広告のイラストなど)
ロプロプ
視点の二重化によるフレームの不確定性、それによって動いてしまうイメージとなり「キャラ」となる、ロプロプ

感想

現実の時空間をそっくり再現しようとしても、例えば現実世界が三次元であるのに対して、絵画は二次元だからということもあって、それはどこかに限界がある。
そういうのが分かってきた19世紀以降に、美術の世界では印象派とかキュビスムとか抽象絵画とかシュルレアリスムとかが生まれてくる、で、マンガも実はそれと並行するものだった、と。
で、本来、現実ならありえないような時間や空間、視点が共存して描かれたりする。
この論集は、マンガとシュルレアリスムに絞って、このことを論じているけれど、個人的には、その現実には共存するのがありえないものが共存してしまうっていうのが、「フィクション」の特質なのではないか、ということを考えてきたので、面白かった。
その共存を可能にするのは、メディアの特徴なので、ここで「フィクション」とか言う汎メディア的な言い方をしてしまうと、その具体的なあり方を取りこぼしてしまうことになるのだけれど。


あと、超越論的イメージとかは、描写の哲学と絡めて考えてみたいところ
フィギュールって言葉は、エルンスト展で見たけどあまりよく分かってなかったところ、中田論文での解説がわかりやすかった
具象でも抽象でもないところって、美術とかの面白いところだよなーとか。


マンガの方でいくと、一つのコマの中に複数の時間があったり、泉いうところの身体離脱ショットとかだったりとか、言われてみれば全くその通りなんだけど、普段マンガを普通に読んでるとあまり意識せずに読んでしまうところで、改めて気付かされて面白かった
特に野田論文の、下位のコマ集合、上位のコマ集合のあたり(ナウシカのページを読むあたりとかホックニーの写真とかの作品分析)

マンガを「見る」という体験―フレーム、キャラクター、モダン・アート

マンガを「見る」という体験―フレーム、キャラクター、モダン・アート