『物語の(無)根拠』第2章

『物語の(無)根拠』目次
第二章 メタ物語から物語へ

選択の根拠
物質か精神か
量子力学と自由意志
選択と喪失――ゲーム的リアリズム
自由で責任を持つ主体
非日常と日常を巡るサブカルチャー
責任の不可能性と時間の暴力

第一章で論じられた「物語の自律」と「メタ物語的状況」を前提すると、
無数の選択肢(物語)の前で選択を迫られる主体、というものが帰結する。
このような選択を行う主体とは一体如何なるものなのか、が問われる。
それは、自由意志を持ち責任を担う主体である。
では、ポストモダン化した現代において、自由意志を持ち責任を担う主体となること(このことを本文では「成熟」と呼んだ)は可能なのか、ということもまた問われる。


まず、イーガン作品を取り上げて、自由意志と責任について論じられる。
次に、『ゲーム的リアリズムの誕生』でも取り上げられた『AllYouNeedIsKill』と『九十九十九』を読むことで、選択と喪失を論じる。
続いて、『虐殺器官』に、自由意志、選択、責任の不可能性を読み取っていく
最後に、福嶋亮大の『水没ピアノ』論から、さらに責任と選択の不可能性を論じる。


さらにこの章のサブテーマとしては、
東が『ゲーム的リアリズムの誕生』でちらと述べた、新しい現代日本文学史を敷衍した、戦後日本サブカルチャーの一部分を描いてみる、ということがある。
この全体を構想し構築するような力量も意志も、僕にはないが。

無時間ではなく時間を

この章において不可能と断じられることとなる、自由意志と責任であるが、
これは、無時間的な状況=メタ物語的状況において成り立つような、自由意志と責任である。
この章では、自由意志と責任の不可能性が中心に論じられているが、
むしろ、これらを不可能と思わせているものは、無時間的な状況という前提の方ではないだろうか。
例えば、デネットは、非決定論に基づく自由意志論が、無時間的な自由意志を想定しようとするためにうまくいなかい、ということを指摘する。
また、ベルクソンの自由意志論も、無時間的ではなく時間的に捉えるところから始まる。
あるいは自由意志論の文脈ではないが、ローティもまた無時間的なものを形而上学として批判していたように思う。
この章では、自由意志と責任が断念されることになるわけだが、むしろ断念されるべきは、無時間的な状況ではなかっただろうか。


ここで、東浩紀存在論的、郵便的』と「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」、「精神分析の世紀、情報機械の世紀」*1を読んでみる。
これらの論文はみな、無時間的、空間的な隠喩を批判し、時間的な隠喩で考えることを主張している、といえるのではないだろうか。
東=デリダ的な主張の主眼は、単数性*2から複数性*3への転換にある。
だが、この複数性(確率的とか偶然とかいった言葉でも置き換えられる)は、一体どのようにして生じるのか。
それは、(反実仮想などの)可能性によって生じてくる。
例えば『存在論的、郵便的』で批判されているクリプキは、この可能性を可能世界という空間的な隠喩によって説明しようとする。
しかし、こうした可能性は通例、完了形や条件法といった「時制」で表現されるだろう。
東=デリダは、こうした可能性を、空間的な隠喩よりもむしろ時間的な隠喩で説明しようとしたのではないだろうか。
例えば、それは声であるし、リズムであるし、フロイト的な(無意識の)時間のズレでもある。
そしてここから考えて、郵便という比喩もまた、空間的なものとしてよりも時間的なものとして捉えた方がよさそうだ。そうなると、「郵便空間」という言い方は不適当だったということになる。
サイバースペースは何故そう呼ばれるか」で指摘されたように、サイバースペースなる「空間」は存在しない。「郵便空間」もまた同様だろう。
こちらの論文では、視覚的な隠喩というものが批判に曝されている。これは、視覚的に一望できるものとしての空間性(=ギブソンサイバースペース)への批判でもある。
しかし、この論文は従来の視覚的な隠喩や空間性に変わるものを見つけるには到らず、終わる。
その後の東が使い始める言葉は、「過視的」「超平面的」「データベース」といったように、視覚的、空間的なものが多い。


時間と偶然性といったことに関しては、ダーウィンベルクソンを検討することが重要になるのではないか、と思う。

*1:『郵便的不安たち#』所収

*2:単数的な超越性

*3:複数的な超越性