ベル・エポック期から大戦間期の歴史を勉強するぞシリーズとして、この前、福井憲彦『世紀末とベル・エポックの文化』 - logical cypher scape2を読んだので、今度はもう少し具体的な都市に着目した本を読もうと思って、世紀末ウィーンへ。
世紀末ウィーンというのはなんか面白そうな時代と場所であるという認識はあるのだけど、これまでそれをテーマにした本を読んだりなんだりしたことはなかった。
ウィーンについては以前、田口晃『ウィーン 都市の近代』 - logical cypher scape2というのを読んだことはある。
本書は、東京美術の「もっと知りたいシリーズ」の一冊であるが、同シリーズについては、最近松井裕美『もっと知りたいキュビスム』 - logical cypher scape2を読んだところで、これが結構良くて、今回たまたま、世紀末ウィーンのものがあったので読むことにした。
ウィーンの世紀末美術って、クリムトとか名前は有名ではあるけれど、あまり美術館でも見る機会がなかったし、いまいちよく分からんままでいたので、これを機会に勉強してみようか、と。
まあ、読んでみた結果としても、クリムトもシーレもココシュカも、個人的にはそこまで惹かれるところはなかったが、しかし「なるほど、こういう位置づけなのか」とか「こういう雰囲気だったのか」とかは大づかみにはつかめたので、勉強という意味ではよかった。
はじめに
序章 世紀末ウィーンを読み解く6枚のカード
第1章 世紀末への胎動
第2章 新しい美の創造
第3章 世紀末の夢の終り
付録
序章 世紀末ウィーンを読み解く6枚のカード
〈1〉帝国都市ウィーン
〈2〉多民族都市ウィーン
〈3〉人物都市ウィーン
〈4〉音楽都市ウィーン
〈5〉ウィーン気質
〈6〉ウィーンとユダヤ人
以上、6つの観点から世紀末ウィーンの特徴を紹介している。
オーストリア帝国の人口はかなりウィーンに偏重していたらしい。
ウィーンっ子の気質として、享楽主義があげられ、これは今後も事あるごとに述べられている。あと、政治や社会改革への無関心。
第1章 世紀末への胎動
ビーダーマイヤーの時代と芸術
ビーダーマイヤー時代というのは、ウィーン会議(1814~15)から1848年の3月革命までを指すということなので、まあ世紀末ではないが、その前史として
もともと、実用的な家具、室内装飾の様式をさすが、しみじみ、こぢんまり、牧歌的、夢想的なもので、家族や農村の風景を描いた絵画がよくこの時代を反映している、と
また、音楽でいえばシューベルトが典型、とも
第2章 新しい美の創造
ウィーンの自然主義と印象主義
世紀末ウィーンには3つの様式があった、と
(1)リングシュトラーセ様式(ネオ様式)
(2)自然主義と印象主義
(3)分離派様式
ウィーンは、美術の流行という点では田舎であって、遅れて受容している。自然主義と印象主義が一緒になったような感じになっているらしい。
分離派
ウィーンにおける美術アカデミーないしサロンとして、キュンストラーハウスというのがあって(建物の名前であり組織の名前でもある)、それへの反発として分離派ができる。
1897年分離派結成、初代会長クリムト
主なメンバーとして、ホフマン、モーザー、建築家のワーグナーやオルブリヒなど
分離派展のポスターがいくつか掲載されているが、これがいずれもモダンなデザインでかっこいい。ポスターがかなり分離派のエッセンスというか尖ったところというかが出ているところっぽい
第1回の分離派展には皇帝フランツ・ヨーゼフも来ており、完全に官民分離していたわけでもないとのこと。
分離派展の特徴はテーマ展でもあることで、海外美術の動向を紹介していたりする。上述の通り、日本美術特集をしたこともある。また、分離派として海外作品を購入したりもしていたらしい。
「聖なる春」という機関誌があった。
「万人のための芸術」という理念を掲げていたけれど、現実としてはパトロンに買ってもらっていたので、一部の富裕層向けでしかなかった。
年表があったので、そこから一部抜粋すると、
1898年に第1回・第2回分離展があるが、この年に起きた出来事として、エリーザベト暗殺がある。
1904年に第20回分離派展。これがクリムトの最後の出品
1905年にクリムトら18名脱退。一方、ドイツでは表現主義グループのブリュッケが結成される。
エリーザベト暗殺のことは、本書の後半でも再度触れられている。ミュージカル『エリザベート』で有名だが、そういえばいまいちどういう時代の話かわかっていなかった。
クリムトと世紀末芸術
クリムトについて色々書かれていたが、うーんいまいちよくつかめなかった。
クリムトは折衷主義的であり、色々な様式を取り入れた人なので、一言では説明しにくい人なんだ的なことが書かれていた気がする。いわゆる「装飾」的な絵を描く人だけど、風景画だと印象主義的な点描を用いていたり、もともとマカルトの弟子なので、新古典主義的なものが実は見え隠れもするし、みたいな感じらしい。
クリムトにおけるエロスとタナトスみたいなことも色々書かれていたが
【トピックス】“性都”ウィーン:「精神分析」発祥の町
世紀末ウィーンで性といえば、まずはフロイトがいるが、サディズムやマゾヒズムという言葉を作ったクラフト=エビング、性表現を描いた作家のシュニッツラー、そしてクリムトやシーレがいる、と。
【トピックス】“死都”ウィーン:享楽・耽美にふける理由
現実の政治にかかわりたいハンガリー人に対して、バロック風の死のイメージにとらわれたオーストリア人
主な自殺者として、作家・画家シュティフター、劇作家ライムント、建築家ファン・デル・ニュル、『性と性格』のワイニンガー、画家ゲルストルがあげられている。自殺者が多いのは世紀末ウィーンに限ったことではないが、自殺があまりに多いので自殺ではないのに自殺と処理された例もある、という。
ウィーン工房
分離派の流れの中で、デザインを扱うグループとして1903年設立
ヨーゼフ・ホフマンなど
アーツ・アンド・クラフツ(1882~1910年代後半)、アール・ヌーヴォー(1893頃~1900年代後半)、アール・デコ(1918年頃~)、ウィーン分離派(1897~)、ウィーン工房(1903~)、ユーゲントシュティール(1893頃~1900年代半ば)、ドイツ工作連盟(1907~)バウハウス(1919~)、未来派(1909~)、ロシア構成主義(1915~)などの時期を示した年表があって大変よかった。
1900年の第8回分離派展でマッキントッシュなどのイギリスのアーツ・アンド・クラフツのデザインが入ってきていて、それに影響されていた。
流線型などアール・ヌーヴォー的なデザインもありつつ、幾何学的形態、機能性を意識したデザインでバウハウスやアール・デコを予告していた、とも。
ウィーン工房は、アーツ・アンド・クラフツなどの精神を受け継いだ運動で、質の高い工芸品を安価に民衆のもとへ広げる、という理念を持っていた。
が、理念は理念であって、現実においては、質の高い工芸品を安く提供するのは難しいわけで、ウィーン工房の作品を実際に手に取ることができたのは上流階級に限られていた。
ホフマンはオットー・ワーグナーの弟子で、総合芸術として建築をとらえていた。建築としては、ストクレ邸やキャバレー・フレーダーマウスなどがある。
ウィーン工房では絵はがきやカレンダーなども作っており、例外的に、一般民衆が手に取れるウィーン工房の品となっていた。
世紀末建築
(1)オットー・ワグナー
1841~1918
駅や郵便局、教会などを手がけた。
様式としては新古典主義的だが、建築素材については鉄、ガラス、アルミニウムを使うなど柔軟で、用と美の一致を説く点でアール・ヌーヴォーに連なる
(2)オルブリヒの分離派館
ワーグナーの弟子であるオルブリヒ
彼の手による分離派館は、平面性を強調したファサードである白い壁面に金文字のレリーフが施され、さらに上部には「黄金のキャベツ」が置かれている。
カール・ウィトゲンシュタインが出資し、ルエーガー市長が市有地を提供した(ウィトゲンシュタインはユダヤ人だったので、反ユダヤ主義者であるルエーガーは苦々しい気持ちだったらしいが)。
(3)ホフマンとストクレ邸
ワーグナーの弟子ホフマンは、幅広い分野でのデザイナーとしての仕事が多く、建築も万博のパビリオンなど一時的なものをやっていたりして、あまり建築の仕事が残っていない。
そんな中建築家としてはストクレ邸が代表作となるのだが、これ、ブリュッセルにあってウィーンにはなかったりする。
ウィーン工房の総力を結集した作品らしい。
(4)アドルフ・ロース
アンチ分離派な建築家で、快楽的な装飾を否定した。装飾に対しては、カール・クラウスも否定的だった。
代表的作品として、カフェ・ニヒリズムともあだ名されたカフェ・ムゼウム、さらにはホラーハウス、監獄とまで言われたロース・ハウスがある。ロース・ハウスの写真が載っているが、現代の人間から見ると全然そんな簡素で冷たいデザインではなく、普通に洒落たビルではある(戦後のモダニズム建築に比べれば装飾があるし、それでいてモダニズム建築と並べても遜色ない感じがある)が、立地的に周囲の建物が古典様式の建物なので、特に悪目立ちしたようである。
評論家でもあり、ウィーンを張りぼての街だと批判した「ポチョムキン都市」や、文化の発展史を紐解いて装飾不要論を展開した「装飾と罪悪」などがある(装飾というのは古代のものであって、現代にあってはもう不要というような考え方らしい)。
【トピックス】世紀末ウィーンのパトロンとコレクター
ユダヤ系パトロンの話で、このあたりは圀府寺司『ユダヤ人と近代美術』 - logical cypher scape2の第3章で読んだことがあった。
ウィトゲンシュタインやレーデラーの話
第3章 世紀末の夢の終り
エゴン・シーレ
1890~1918
シーレについては名前は知ってるものの、全然知らなかったので勉強になった。
表現主義の系譜にいる人ということにはなるだろうが、なかなかインパクトが強い。
個人的には好みのタイプの絵ではないのだけど、すごいことはすごい。
28歳という若さで亡くなっている(インフルエンザ(スペイン風邪)のため)。
裸婦像を多く描いているのだが、伝統的ではないポージングで描いている(股を開いていたりとかそういうのだが、色々なポーズを描くのを試しているかのような感じがある)。
10代の頃、妹と関係をもっていたらしい。
自画像もたくさん描いている。ものにもよるけど、どことなく『ジョジョ』に出てきそうな雰囲気がした。
裸婦像、自画像に次いで風景画が多い。クリムトが「春」だとしたらシーレは「秋」で暗い色調の作品が多い。街並みを平面的に描いている等の特徴がある。
また、筆者は、シーレの「目」と「手」が表現している表情の多様性にも注目している。
- 【トピックス】シーレのノイレングバッハ事件/【トピックス】ウィーンのロリコン趣味
シーレの裸婦像の中には未成年の少女のものもあるのだが、それを巡って、とある事件が起きる。少女を自宅に招き入れたことで親から訴えられて、未成年誘拐・レイプなどで逮捕されたのである。誘拐などについては無罪とされたのだが、未成年にわいせつな絵を見せた罪で投獄されてしまう。
シーレは確かに少女の裸を描いてはいるが、おそらく当人はロリコンではなかっただろうと筆者は述べている。ただ一方で、ウィーンの文化人の中には、確かにロリコンであった者たち(アルテンベルクとロース)もいた。
オスカー・ココシュカ
1886~1980
年齢としては、クリムトとシーレの間となるが、筆者は、知名度などからウィーン世紀末美術の「第三の男」と位置づける。
活動初期は、ウィーン工房に所属していた。
「精神的な父」としてロースに出会い、ロースから言われて分離派からは離れていく。
筆者はココシュカを、ドイツ表現主義とはまた異なる、ウィーン的表現主義だ、と述べている。
平面的な画面構成など、一概に表現主義とはいえない、分離派的な特徴もあると思う。プリミティズムの影響でもあるのか。
初期作品の「夢見る少年たち」とか。
ウィーンには若い頃の10年ほどしかおらず、あまりウィーンでは評価されなかったらしい。第一次世界大戦に従軍し、戦争が終わった後は、ドレスデンにいき、そこで美術学校の職を得ている。
クリムトとシーレがいずれもスペイン風邪で亡くなったのに対して、1980年に93歳で天寿を全うしている。
- 【トピックス】ココシュカとアルマ・マーラーの“嵐の恋”
アルマ・マーラーは、グスタフ・マーラーの妻。クリムトとの浮名も。グスタフとは19歳差の結婚であったが、彼が亡くなったため、未亡人となる。ココシュカはその際に彼女と恋愛をしている。
が、まあかなり振り回されるような恋愛であったようだ。最終的にココシュカは別れることになり、アルマはヴァルター・グロピウスと再婚している。
ココシュカとアルマが寄り添うような絵(「風の花嫁(テンペスト)」)が掲載されている。難破船の中に横渡る2人を描いているが、筆者は(背景が海ではなく)宇宙空間のようだと形容しており、暗示的、象徴的、表現主義的、バロック的だと述べている。
ココシュカは別れた後、アルマの人形を作らせたりしているらしい。うあ。なお、人形のできあがりが悪かったので、冷めたみたい。
悲劇の皇室
エリザーベトの暗殺
その10年前に、息子のルドルフが自殺している。
それにより皇位継承権は皇帝の弟へ移ったが、しかしその弟も病死し、さらに皇位継承権を引き継いだ皇帝の甥について、サラエボ事件が起きる。
ウィーン世紀末の終焉
本書は1918年までを扱っているのだが、まさに終焉と呼ぶに相応しい年である。
第一次世界大戦終結の年であり、これに伴い、オーストリア=ハンガリー帝国も終わりを迎えるわけだが、同年、クリムト、シーレ、モーザー、オットー・ワーグナーと、ウィーン世紀末美術を代表する者たちが相次いで亡くなっているのである。また、分離派に属するわけではないが、分離派に影響を与えたスイスの画家ホドラーの没年も1918年だという。
なお、クリムトとシーレの死因はいずれもスペイン風邪ということで、猛威を揮ったことの一端を垣間見た気がした。