五十殿利治『日本のアヴァンギャルド芸術――〈マヴォ〉とその時代』

大正新興美術運動を研究している著者*1の評論集。
大正振興美術運動については、ゲルハルト・リヒター展 - logical cypher scape2で近代美術館の常設展を見ていて知ったのだが、その後、大正期新興美術運動の概容と研究史 | 日本近代美術史サイトをざっと眺めたりした。
ダダ、未来派、ロシア構成主義あたりからの影響を受けて、日本でも前衛美術・抽象美術の運動が興った、と。
色々なグループがあったらしいけど、マヴォがおそらく一番有名。


美術展の図録や論文誌に収録されたものを集めており、ある程度の知識を読者が当然持っていることを前提とした文章が多く、「人名が全然分からん!」ともなったが、ちくま新書の大正史*2で知った名前だ、という人たちもパラパラと出てくるので、面白かった。

大正期新興美術運動について

上述の通り、この本はある程度前提知識を持っている読者が対象となっている。
作者にはその名もずばり『大正期新興美術運動の研究』という、博士論文をもとに刊行した著作があるので、大正期新興美術運動の全体像を知りたければむしろそちらを読むべきなのかもしれないが、とりあえず上述のサイトが、概要をつかむのにはよいので、それを元にさらに簡単にまとめておく。


まず、前史として、日本の美術界では明治期から文部省主催の官展が開催されるようになっていたが、大正に入り、この官展では活動しにくかった新しい傾向の洋画家たちが在野の美術団体として、二科会を発足させ、二科展を開催するようになる*3
また、白樺派から派生して、岸田劉生高村光太郎によるフュウザン会というグループも創られている。
そうした背景がありつつ、1920年代(大正9年以降)に、さらに新しい美術潮流として位置づけられるのが、大正期新興美術である。
1920年に、未来派美術協会が発足。1923年、ベルリン留学していた村山知義が帰国すると、未来派美術協会のメンバーが村山を加えて、マヴォという新団体を発足させる。
一方、1922年には〈アクション〉というグループも誕生しており、未来派美術協会・マヴォのライバル的存在となる。
とかく、色々なグループや活動が離合集散を繰り返していて、1924年には、マヴォや〈アクション〉が合流して、三科が発足*4するが、これもあまり長く保たずに解散する。
その後、新興美術運動に関わっていた者の中には、政治色を強めていく者たちもいれば、より純粋に美術へ進む者もいれば、ダダ・アナーキズム的な運動を続ける者たちもいて、一つの運動ではもはやなくなり、分解していった、と。
代表的な人物は、既に挙げた村山知義や、〈アクション〉の中川紀元や中原実あたりなのだろう。
また、マヴォの一員であった高見沢路直は、後に『のらくろ』の田河水泡になるので有名だろう。マンガとアヴァンギャルドの関係については、ひらりん・大塚英志『まんがでわかるまんがの歴史』 - logical cypher scape2でも触れられていた。
あと、古賀春江は、自分でも以前から名前を知っていた。ただ、彼は大正時代の作品より昭和初期のシュールレアリスム的な作品が有名かも。
ちなみに、本書も基本的には大正の話が多いが、最後のほうは昭和初期の話もしている。

 


1章“マヴォ”の時代―美術・舞台・演劇の革命
 東郷青児の登場―日比谷美術館と青鞜社
 柳瀬正夢と“マヴォ”―「前衛」的ヴィジョンの生成
 村山知義の意識的構成主義―「すべての僕が沸騰するために」
 <アクション>結成と中川紀元―底の深いパッション
 村山知義と「朝から夜中まで」―屹立する舞台装置
 構成・舞台―大正期新興美術と演劇


2章 還流する美術運動
 受け継がれる「バウハウス」体験―仲田定之助をめぐって ドイツ/日本
 ゴンチャローヴァ、ラリオーノフと日本人―画家、コレクター、「劇友」 ロシア/日本
 <タミの夢>とモダニズム―久米民十郎とエズラ・パウンド イギリス/日本
 「モンドリアン受容」小史―「ネオ・ダダイスト」から始まる フランス/日本
 柳瀬正夢と「アメリカ」像―未来派・グロッス・グロッパー アメリカ/日本

3章 モダニズムの時代へ
 岡本太郎アヴァンギャルド
 板垣鷹穂と昭和初年の美術批評
 メカニズムの水脈


東郷青児の登場―日比谷美術館と青鞜社

東郷は雑誌への投稿によりデビュー
楽家を志していたためか、コントラバス奏者の原田潤と知り合い、その妻である安田皐月*5や、山田耕筰とも知り合う。
東郷は、日比谷美術館で初の個展を開く。
ところで、そこではすでに山田らがベルリンの画廊に関係する欧米絵画の個展を開いていた。平塚らいてうの事実上の夫である奥村博史も個展をしており、また、与謝野鉄幹パトロン与謝野晶子も訪れていたし、また、吉野作造が来訪したこともある、とか。
この日比谷美術館を中心に、青鞜コネクションみたいなのがあって、東郷が初個展をここで開いたのは、そういうこともあったのではないか、というような話
なお、安田皐月は1933年に自殺しているとか。
また、原田潤は、1916年から宝塚歌劇の音楽教師となっており、東郷は大阪の原田のもとを頼っていたことがあるとか。

柳瀬正夢と“マヴォ”―「前衛」的ヴィジョンの生成

タイトル通り、柳瀬とマヴォの関係について書いているのだが、前提知識が必要で論旨がつかみにくかった。
マヴォを結成した1人なのだけど、マヴォとの関わりが実は薄くて、でも新興美術運動とはずっと近かったんだよ、というような感じか。


柳瀬は、関東大震災によって画家として生まれたというようなことを書いていて、それは一体どういうことかということがまずは論じられている。
また、柳瀬はのちにプロレタリア芸術運動に向かうが、元々、アナキズムボルシェヴィキの区別をつけていなかったとかなんとか。


未来派美術協会を発展的解消させたのがマヴォだが、関東大震災以降、未来派美術協会時代のメンバーよりもそれ以降のメンバーが中心になっていく。
元々、未来派美術協会だった柳瀬も、マヴォへの参加率は低い
しかし、上述のように柳瀬は、自分が画家として生まれたのは関東大震災からだというようなことを言っている。
柳瀬は、関東大震災以降の、マヴォや他の新興芸術運動の運動性に牽かれたていたのだ、と。
ここでいう運動性というのは、絵画だけでなく、というか絵画よりもむしろ、演劇やったりダンスやったり街を練り歩いたりとかいう、ジャンル横断的でパフォーマンス的な活動のことである。
その一つの例として、〈アクション〉などがバラック装飾を行っていたことが挙げられる。関東大震災以降、建築も新興美術運動の中に入り込んでくる。
そうした中、柳瀬は、舞台美術にも関わっていく。

村山知義の意識的構成主義―「すべての僕が沸騰するために」

1923年、ベルリンから帰国した村山は、「意識的構成主義」という構成主義批判の立場を打ち立てる。ここでは、それ以降の村山へのダダと構成主義の影響などが論じられる。
ベルリンでの熱心な交流
ダダと構成主義の造形的イディオムを操作する多元性が意識的構成主義
芸術の到達点として建築を見据える
関東大震災の後のバラック装飾のほか、「三角の家」を設計し、帝都復興創案展にマヴォも参加する。髪の毛や新聞の切り抜きや首無し人形を組み合わせたアッサンブラージュを展示して、怪奇室と呼ばれたとかw
村山は、マリネッティの触覚主義の紹介もしている。建築と生活は結びついており、また、身体の運動感覚ともつながり、舞踊や演劇などのパフォーマンスとも結びついた
「朝から夜中まで」の舞台美術や、舞踊、高見沢路直の音楽パフォーマンス、劇場の三科参……
その後、村山はプロレタリア芸術運動へと進むが、そこでは階級闘争の手段としてネオ・ダダイズムが要請されると論じた

<アクション>結成と中川紀元―底の深いパッション

パリ留学中にマティスに学ぶ。ただ、どれくらい会っていたかなど詳しいことはよく分かっていないらしいが、「スピリッチュアルなもの」「秩序への回帰」などの影響があったらしい。
パリ滞在中に交流のあった矢部友衛、中原実ともに、帰国後にアクションを結成する。
しかし、その直後くらいから中川はアクションからは後退していくらしい。

村山知義と「朝から夜中まで」―屹立する舞台装置

ドイツ表現主義、ゲオルク・カイザーによる戯曲「朝から夜中まで」の1924年築地小劇場公演について、自分から申し出て舞台装置を作り上げた村山
この舞台は、まさにその村山の手による舞台装置によって半ば伝説と化している、という。
3階建てで構成主義の原理に基づいて作られた
村山にとって初めての舞台装置
築地小劇場に予算の余裕があったこと、歌舞伎から出発した職人気質の大道具の人がいたことも成功の要因ではあったが、それでも、村山自身の熱心な研究があったればこそ、と論じている

構成・舞台―大正期新興美術と演劇

大正期新興美術においては、美術家が演劇に関わっていたケースが多いが、あまり研究が進んでいないということで、ここでは、大正の演劇史に沿いながら、そうしたケースを拾っていく。
まず、冒頭で当時の洋画家と演劇の関わりが、官展系から在野まで、歌舞伎座や帝劇から素人芝居まで広い範囲であったことが示される。その中には、島村抱月の芸術座や、抱月と松井須磨子を批判して脱退した人による劇団などの名前も挙がっている*6
次いで、1912年、のちに映画監督となる村田実が中心となる「とりで社」について、フュウザン会との関わりが描かれている。ジョサイア・コンドルの名前も出てきたり、あと、純映画劇運動の帰山教正の名前も出てくる
自由劇場小山内薫は、日比谷美術館で舞台美術展を開いている。日比谷美術館については、前述した東郷青児の章でも扱われていた。
1923年に結成された先駆座に参加した柳瀬正夢長谷川如是閑*7の風刺劇のための舞台装置が構成派的
1924年に旗揚げした築地小劇場には、アクションの吉田謙吉が参加して、舞台装置を作成。さらに「朝から夜中まで」では村山知義が舞台装置を作成。
村山は、帰国直後の個展「意識的構成主義的小品展覧会」やマヴォ第1回展でも舞台に関連する作品を出展している。活動写真館の設計もしていいて映画にも意欲があり、村田実監督作品のセットも出がけたと
1924年秋、三科結成。美術家たちだけによる「劇場の三科」を上演
その後、三科は内部分裂して解散するのだが、「解散騒動真相報告会」を演劇化しようとしたほど、演劇の想像力が強かった。
その後、単位三科が作られる。三科とは異なり、他ジャンルへの越境を試みるのではなく、各ジャンルの専門家集団であり、美術家、文学者、映画関係者、建築家が集まった
単位三科も「劇場の三科」を上演している(上述のものとは内容は異なる)。ここでは、仲田が抽象的な舞台を上演している

受け継がれる「バウハウス」体験―仲田定之助をめぐって ドイツ/日本

仲田定之助という美術評論家のドイツ留学時代の足跡を辿るもの。
日本に宛てた手紙などから、いつどこへ行ったかとか、どんな本を読んだかが分かる。
バウハウスカンディンスキーを訪問している(村山も行く予定だったが村山は結局行っていない)
バウハウス自体は、仲田以前にも日本での紹介者はいるのだが、バウハウスの理念から詳しく説明したのは仲田が初めてで、以後、バウハウスへ留学した日本人の手引きともなった。
なお、仲田は美術家として作品(抽象舞台)も作っており、これへのバウハウスの影響も論じられている。

モンドリアン受容」小史―「ネオ・ダダイスト」から始まる フランス/日本

日本において、抽象画家としてはカンディンスキーの方がリアルタイムに受容されており、今も昔も研究が盛んに行われているのに対して、モンドリアンはそうでもない。本格的に受容されるのは戦後になってからだが、戦前のモンドリアン受容について論じている。
サブタイトルにもあるが、村山はモンドリアンダダイストとしてのみ理解していたらしい。
また、当時雑誌間の交流があって、『デ・ステイル』はマヴォに影響を与えており、また、『デ・ステイル』にマヴォの名前が載ったこともある、と。
その後、モンドリアンは美術よりも建築の方で受容されてきたとか。

柳瀬正夢と「アメリカ」像―未来派・グロッス・グロッパー アメリカ/日本

柳瀬が影響を受けた、ベルリン・ダダの作家でありアメリカに移住したジョージ・グロッス
ニューヨーク生まれで風刺漫画を描き、日本のプロレタリア美術家同盟とも関わりのあったウィリアム・グロッパーからも、柳瀬は影響を受けている
プロレタリア芸術と、コマーシャリズム的なものとの関係
グロッスはナチから逃れて渡米したが反ファシズム運動とは距離を置いていたり、柳瀬も逮捕・拘禁などされたが一方で読売新聞の漫画記者としても活動することでプロレタリア美術運動からは非難されたりしている。
柳瀬の中では、大衆に向き合うという点でプロレタリア芸術と商業主義的なものはつながっていて、柳瀬にとっての「アメリカ」はそのような面を持つのではないか、と

岡本太郎アヴァンギャルド

岡本太郎が美術界に「登場」してくるのは戦後だが、実際には、戦前から活動はしている。
戦前の岡本の履歴を辿りつつ、その蓄積がどのように戦後の「登場」を準備したのか、について。

板垣鷹穂と昭和初年の美術批評

滝口修三らと同時期1930年代の美術批評家である板垣鷹穂について
建築、都市、流行、文芸、映画、写真、舞台、放送、教育と広範な領域を扱っていたが、一方、「絵画」が抜けている。
板垣は、映画や写真といった新メディアの台頭により、芸術の世界の再編が進んでいるとみなし、その再編を、自然美、芸術美に次ぐ第三の次元である機械美と言い表した。

カニズムの水脈

大正期新興美術運動は、単位三科によって命脈が経たれる。しかし、昭和モダニズムから見たときに、メカニズム=機械美学という点によって、かろうじて結びついているのではないか、という論
新興美術運動でメカニズムを初めて唱えたのは中原実
中原はもともと歯科学を学んでおり、科学への理解が抜きんでていた。
1924年の首都美術展で、解剖図や機械部品が題材になっているような作品が出展されている。ピカビアのパロディー化された機械観に近い視座。科学とダダの奇妙なアマルガム
村山は、構成主義論の一端として機械美学をとらえる。レジェへの注目。芸術の機械化として印刷、写真、フィルムを挙げる。
非ダダ的で構成主義的な単位三科
1929年、機械芸術論が多く発表され、その年の二科展に古賀春江の「海」が出展される
古賀はシュールレアリスムともいわれるが、ここではむしろモダニズム絵画だと論じられる。古賀は機械と美術について、単に機械を描くということではなく、機械的・科学的・主知主義的な方法をとることだと述べており、これを筆者は、オートマティスムや無意識を従事するシュールレアリスムとは隔たりがあると指摘している。
最後に、政治運動的な観点から論ずる村山と、あくまで都市モダニズムに批評家としての立場を崩さない板垣の違いを対比させている。

*1:五十殿で「おむか」と読むらしい

*2:筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2

*3:官展の日本画部門には新旧の二科があったが、洋画部門にはそれがなかったため、新科としての二科と名乗った

*4:この名前は二科から由来するのだろう

*5:山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2で触れられていた『青鞜』での堕胎論争のきっかけになった人である

*6:参照:筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2

*7:山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2大正デモクラシーの人として名前が出てきたが