大正史メモ?

何故か大正史に関わる本を連続で読んだ。何故か、というか主にちくま新書が近いタイミングで何冊か出してきたから、というのが主な理由だけど。
数年前から、戦前昭和史に興味を持ち始めていたのでそれに連結する形で大正にまで興味関心が伸びた。まだ、明治までは伸びていない。
大正は、大衆が成立した時代で、一方でポピュリズムや大衆文化があり、現代と地続きの似たところがある。他方で、政治的には二大政党制が曲がりなりにも成り立っていたり、社会的・文化的には様々な(政治にも関わる)運動があったり、現代とは異なる様相も見せるので面白い。

大正航空史?

これは、たまたま立川飛行場 - Wikipediaを読んでて、日本の航空の歴史も大正から始まるのか、と気付いた話で、以下は主にWikipedia由来の話で、本とかは読んでいない。
日本陸軍の航空部隊の原点は、日露戦争時の気球部隊(なのでこれは明治末の話)
で、飛行機部隊としての初の実戦は第一世界大戦(大正3年)で、大正4年に所沢に作られた飛行場が日本で初の飛行場らしい。
立川飛行場大正11年にできている。
ちょっと驚いたのは、羽田も元を辿ると大正で、大正6年に日本飛行学校というのが作られている。ここの第1期生が円谷英二で、第1期生に応募するも不合格になったのが稲垣足穂
ただし、羽田が飛行場になるのは(大正ではなくて)昭和6年のこと。
元々軍民共用だった立川飛行場の民間部門の移動先が羽田だったらしい。
当初から国際空港で、第1便は大連便だったとか。その後、満州航空の拠点となったことだが、満州には航空会社もあったのか。基本、満州行きは船のイメージだったが……。満州航空、自社開発の飛行機まである……。
日本の航空に関しては、長岡外史という人がキーパーソンっぽい。
元々、日露戦争前に当時衛生兵だった二宮忠八が飛行機について具申してくるのだが、そんもん飛ぶわけねーだろと一蹴したのが長岡で、しかし、第一次世界大戦で実際に飛行機が有効活用されるのを見て反省し、以後、飛行機の普及に努めたとかなんとか。
飛行機については詳しくないが以前読んだ生井英孝『空の帝国 アメリカの20世紀』 - logical cypher scape2がなかなか面白かった。これの2章・3章が日本でいえば大体大正~昭和前期にあたる話で、3章には稲垣足穂の名前が出てくる。

大正科学技術史?

航空だけでなく科学技術全般も気になるところ
筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2によれば、寺内内閣の時に、理研や東大航空研が設立され、科研費のもととなる科学研究奨励費制度もこの時期に始まった、と。


東大航空研というと、後のJAXAで、もしかして調布飛行場のところの奴かと一瞬思ったんだけど、さにあらず。
ちょっと話がそれるが、東大航空研に関連するWikipediaの内容を軽く要約
東大航空研の設立当初(大正7年)の場所は越中島(今の東京海洋大)で、関東大震災後に駒場へ移転。敗戦で研究が中止になるが、1958年に活動再開。
一方で戦後、糸川博士によるペンシルロケットの開発などは、東大の生産技術研究所でやっていて、1964年に航空研究所と合併して、東大宇宙航空研究所となったらしい。
1981年に文部省所管の宇宙科学研究所となり、1987年に相模原移転となる。
調布の方にある奴はというと、1955年に科学技術庁が作った航空宇宙技術研究所。これも前身としては、東大の生産研のようだ? 名前が似ている東大の航空研は1955年当時は活動停止中なので、あまり関係なかったのかな。


理研は、大正6年に財団法人理化学研究所として設立。昭和前期には理研コンツェルンとなっている


明治末から大正にかけての日本の科学だと、北里柴三郎野口英世などの医学系が盛り上がっている(?)時期だろうか?
ほかに、寺田寅彦は大正時代から文筆活動をしているようだ。


日本の科学史としては、全く読んでいないが明治・大正期の科学思想史 - 株式会社 勁草書房帝国日本の科学思想史 - 株式会社 勁草書房などの重厚な本がある
これの目次を見てみると、今村新吉と千鶴子の章がある。千鶴子騒動は大正ではなく明治末だが、この頃に心霊ブームみたいなのがあって、それが大本にも繋がっていたりする
それから関東大震災を巡る話か。寺田も関東大震災の調査をしていたようだ。


自分が昭和史への関心を深めた要因の一つが柴田勝家『ヒト夜の永い夢』 - logical cypher scape2だが、この作品の主人公である南方熊楠は、明治33年に日本に帰国し以降和歌山で研究生活を送っているが、大正時代にもやはり和歌山で植物や粘菌の研究をしていたようだ。


たまたま、大正時代、中学校英語科廃止論が盛り上がる「日本帝国の青年としては英語は無用」(江利川 春雄) | 現代新書 | 講談社(1/3)という記事を見かけた。
当時、以下のような主張があったらしい

(2)日本は「西洋の学術技芸を模倣せんが為めに、久しい間青年の時間と脳力とを犠牲に供した。これ以上は最早(もはや)必要がない」「今は丁度その切上げ時で、更に転じて海外に膨脹する為めの予備教育に全力を注ぐべきである」。
(3)知識増進のために「翻訳機関の設置」を行い、文部省は優良なる専門書の翻訳に力を注ぐ。そのほうが専門用語の訳語が統一され「学問の独立」に寄与する。実業専門学校の授業も日本語で可能である。

翻訳語といえば、「恐竜」という訳語はいつできたんだっけと確認してみたが、これは横山又次郎(1860~1942)が明治28年の「化石学教科書・中巻」で「恐龍」という言葉を使っているそうなので、あまり大正は関係なかった。
そのあたりで色々とググっているうちにたどり着いたのが、我が国における科学雑誌の歴史 ――総合科学雑誌を中心として――*という論文

大正時代から昭和初期にかけて、明治時代と同様の問題意識の基に、総合科学雑誌が多数創刊された。大正時代には写真技術や印刷技術の進歩によって、写真や色刷りを多く用いた大衆向けの雑誌が、大人だけでなく子供をも対象として発刊された。

特筆すべき人物がいるので紹介をする。原田三夫(1880-1977)は、東京大学理学部に在学中から科学雑誌の刊行を志し、1915(大正4)年に『子供の科学』を独力で刊行した(1924(大正13)年に誠文堂から本格的に一般誌として出版された)。1921(大正10)年の『科学知識』の発刊に当たっては創刊号の主幹を務めたがその後事情があって退き、その2年後に『科学画報』を創刊した。

この論文によれば、大正期に創刊した科学雑誌としては、『現代之科学』『科学知識』『科学画法』『科学の世界』『子供の科学』『自然科学』がある。
子供の科学』は今でも続いている雑誌で(僕自身は読者ではなかったが)、こんなに歴史が古かったのかと驚き。ほかに、この論文に載っている雑誌で、戦前に創刊し今まで続いているのは岩波の『科学』(1930年創刊)だけだ(戦後に創刊された雑誌もその多くは今はもうない)。
『自然科学』は、大正史読んでるとたびたび登場する改造社から創刊されている。大衆向きの雑誌ではなかったらしいが。