小川哲『地図と拳』

満洲の架空の町のおよそ半世紀の期間を群像劇として描いた長編小説
中国東北部の田舎町に過ぎなかった李家鎮が、仙桃城という都市へと成長し、満洲国の終焉とあわせて消え去っていく。
一つの街が生まれ消え去っていくまでの物語で、建築や都市計画を巡る物語でもあり、それはひいては満洲という人工国家の寓話でもあるのだろう。そして、拳とは暴力のことで、戦争に翻弄される人々を描いた物語でもある。
義和団事件の直前くらいから話は始まるのだが、日露戦争が終わったあたりからぐんぐんと面白くなっていく。いや、基本的には、死んだり夢破れたりしていく展開なので、面白いというのも語弊があるのだが、ぐんぐんと話が進んでいく感じがでてくる。
後半になってくると、各章の終わりの一つ一つがエモい(?)んだなー


群像劇なので、多くの人物が現れては消えていくのだが、何人かの人物が特に物語の中核を担っている。
まず、細川という男。
最初から最後までほぼ一貫して登場しており、本作の主人公といっていい。
1899年に間諜として初めて満洲に訪れる。この時はまだ学生なのだが、最初から非凡なところを見せ、李家鎮に炭鉱があることを見いだす。日露戦争に従軍し、仙桃城という命名に関わり、満鉄で働いた後、戦争構造学研究所なるシンクタンクを立ち上げる。細川はそこで未来を予測する。
満鉄時代の細川のもとで働いた須野、そしてその息子である須野明男はもう1人の主人公だ。
元々気象学者だった須野は地図に魅せられ、満鉄で新しい路線を計画する仕事へと就くことになるが、一方、気温と湿度を何も見ずに当てられるという能力を持つ、息子の明男は、大学で建築を学び、仙桃城都邑計画という都市計画に携わることになる。須野親子はある意味で2人とも別の意味で細川に翻弄されるわけだが、一方で、細川の思惑を越えていくことにもなる。
中国側の登場人物として、まずは孫悟空がいる。
もちろんこの名前は偽名であるのだが、この男は未来視能力を手に入れ、李大綱から李字鎮を奪い、仙桃城と改名したこの街の有力者として力を持っていく。序盤は、この男がどのように孫悟空となっていくかという話が進むが、途中から登場が少なくなる。
代わりに出てくるのは、孫悟空の血が繋がらない娘である孫丞琳である。彼女は、孫悟空をいつか殺すと決めているほどに憎んでいる。孫悟空が日本人と協力体制にあることもあり、彼女は抗日運動に身を投じている。丞琳らの抗日運動は、しかし、日中戦争の進行とともに共産党八路軍と結びつき、その運動の性質を次第に変えていくことになる。
最後に、もう1人の主要登場人物として、ロシア人神父のクラスニコフがいる。彼も孫悟空と同様、序盤から前半にかけての登場人物で途中からは出番が減るが、物語全体の結末にも強く関わっている。
クラスニコフはもともと、ロシア皇帝の命を受けて中国の測量をすることになった測量班の1人として満洲を訪れる。そして地図を理解できない人々を教化するために、李字鎮で暮らし始めることになる。彼は最初は宣教師という感じだが、義和団事件以後、あらゆる困っている人を助けるというキリスト者となっていく。抗日ゲリラのような政治活動には関わらないが、彼らと近いところでずっと暮らし続けている。


以下、各章の出来事簡単に列挙していく

序章 一八九九年、夏

高木大尉と細川の渡河
軍刀を捨てられない高木大尉

第一章 一九〇一年、冬

クラスニコフ神父と通訳の林と義和団

第二章 一九〇一年、冬

楊日綱が、李字鎮で、李大綱の開いた神拳会の鶏冠山道場で修行を始め、未来を見る能力を手に入れるまで

第三章 一九〇一年、冬

李字鎮へ向かう高木大尉と細川
周天祐が李大綱になり替わった話と、楊日綱が孫悟空になった日

第四章 一九〇五年、冬

日露戦争、高木の戦死
福田と細川が、孫悟空と交渉して輸送隊誘拐事件を解決する。細川が孫悟空に仙桃城という名前を提案する

第五章 一九〇九年、冬

須野と青龍島調査、細川との出会いと満鉄入社
須野と高木慶子との出会い、須野明男誕生(須野明男、逆から読んだらオケアノス)

第六章 一九二三年、秋

明男の子ども時代

第七章 一九二八年、夏

大連での会合、細川が仙桃城を「虹色の都市」にすると宣言
張作霖爆殺

第八章 一九三二年、春

孫丞琳や林、陳らの炭鉱放火計画
仙桃城へついた明男と建国慶祝大会
ダンスホールでの丞琳との出会い
計画決行
鶏冠山集落の虐殺

第九章 一九三二年、秋

憲兵安井による捜査と林と陳の逮捕
丞琳や卲康にダイナマイトを渡す孫悟空
満鉄をやめる細川と満鉄に残る須野

第十章 一九三四年、夏

代官山で、明男、石本、中川らによる勉強会
戦争構造学研究所の開所と細川による「地図と拳」講演
明男の入営と演習、石本が共産党の活動を始め特高に拷問をうける
細川が「仮想内閣」をつくり、石本が入閣する

第十一章 一九三七年、秋

中川の日中戦争
丞琳らが八路軍と合流。明男との再会

第十二章 一九三八年、冬

建材盗難事件による官舎計画の中止と、明男による公園計画
八路軍の黄司令が仙桃城入り

第十三章 一九三九年、夏

安井の盗難事件捜査
八路軍の偽機関銃作戦
仮想閣議の終焉

第十四章 一九三九年、冬

泥棒城島源造
細川と明男の勝負
安井による赤石(仮想内閣海軍大臣)の逮捕
石本と正男(明男の兄、仮想内閣総理大臣)の再会

第十五章 一九四一年、冬

明男に建材の節約をさせる細川
八路軍自己批判と卲康の失脚

第十六章 一九四四年、冬

青龍島はなぜ地図に描かれたのか
仙桃城襲撃と町野軍曹、明男

第十七章 一九四五年、夏

玉音放送を聞く安井
クラスニコフ神父のもとで病床に伏せる孫悟空のもとで、孫悟空の手帳を燃やす丞琳
満州で商売を始める石本
明男と細川の会話
軍刀を捨てる明男

終章 一九五五年、春

仙桃城を再訪した明男、丞琳とともにクラスニコフ神父の地図を広げる

感想

なぜ実在しない島が地図に書かれることになったのかを調査する羽目になる須野が登場する第五章が、まずは一つのターニングポイント
それから、明男と丞琳の出会いや炭鉱襲撃が描かれる第八章、中川の登場と戦争構造学研究所が動き始める第十章、明男が公園を作ることを決意する第十二章、八路軍の仙桃城襲撃がなされる第十六章あたりが、それぞれ盛り上がりどころ


細川というのは、もともと李字鎮=仙桃城に炭鉱を見つけて日本がそこを開発するという計画を建て、その計画も、満州五族協和の理想を具体化させようとするようなものなのだけど、途中で満鉄をやめて戦争構造学研究所を立ち上げる。これは今後の国際政治の動向を予想しようという独自のシンクタンクなのだけど、これが日中戦争・太平洋戦争の予想におおむね成功する。人造石油が作れないことに気づいた細川は、1939年の時点で日本の敗戦を確信し、そこから先は満州からいかに撤退して戦後の日本に資源を残すか、という方向で暗躍していく。
という、満州で暗躍する細川という男のストーリーが一本走っている一方で、須野明男という、ほとんど建築のことにしか興味のない人間が、仙桃城に理想の公園を作ろうとする。それは合理的な都市計画という点で満州的でもあるけれど、細川のような大局的な視点からではなくて、あくまでも明男個人の感覚・才能から作られていく点で、細川の思惑とは重ならない。
これに、明男が建築は時間だと考えたことと、クラスニコフ神父が実在しない島を地図に書き込んだこととが絡み合って、国家とは地図だと考える細川とは異なる地図のあり方が終章に描かれる、というのが、まあ本作のテーマ的なところだろう。


戦争の話という意味では、高木大尉の日露戦争と中川の日中戦争の対比が面白いかもしれない
前者は、勇敢さと臆病さの話なのだけれど、後者は、人間性自己欺瞞の話になっている。どっちも戦死するけれど、後者のほうがより悲惨な話になっているというか。
中川の日中戦争話は、三つの銃声の話も面白い(この銃声の違いがさりげなく丞琳の話でも使われていたりする)


主要登場人物の話は、この記事の最初の方でしたが、それ以外にも魅力的な登場人物がいる。
一人は、石本
明男の大学での先輩にあたるが、明男の才能を知って建築からは離れてしまう。明男とともに仙桃城に行き、帰国後は、明男と中川を引き合わせる。
もともと、日銀幹部の息子なのだけど、左翼運動へと入れ込むようになる。党幹部に裏切られて特高に捕まるが、石本はここで党を売らずに黙秘を貫く。そして、そこを細川に救出されて、戦争構造学研究所へ行くことになる。
石本の物語はここがピークなのだけど、その後、戦争構造学研究所と仮想閣議の話について、読者と近い視点人物として眺めていくのが石本になる。細川や仮想閣議に参加していた赤石などは、早々に日本の敗北を悟るし、またほかの仮想閣議メンバーは戦争に行ったりするのだけど、石本だけは漫然と満州で日々を過ごすことになる。
あんまり活躍はしないけれど、その分、共感しやすい人物である(特高のくだりはともかく)
それから、憲兵の安井
こちらは逆に、完全に皇国の価値観を体現した人物で、現代に生きる読者からは共感しづらいが、行動原理が分かりやすいといえば分かりやすい。
鶏冠山住民の虐殺とか、陳や林の収容所送りとかに、全然倫理的葛藤がない。道徳的不感症になっているわけでもなく、それがよいことだと信じてやっている。
で、太平洋戦争が始まって、満州の重要度が相対的に下がっていく中で、満州での憲兵を続ける安井は、建材盗難事件に対して執念を燃やすようになっていく。それで、暗躍する細川の存在に気づいていくのだけど、彼も彼で独特の哀れを誘う人物である。
中川なんか、完全に戦争に翻弄された人物だけど、中国側でいうと、卲康がそのポジションにあたるだろう。
卲康は、鶏冠山虐殺の生き残りで、抗日運動に関わっていき、丞琳の相棒的立ち位置になり、八路軍が来てからは、副司令の座にいったんはつくものの、結局失脚してしまう。自己反省がなっていないから、という理由で失脚するが、もともと共産党員ではなく、仙桃城出身者である古株だったので、排除されてしまったというもの。
自分たちが住んでいた場所を日本人から取り返し、家族を殺した日本人に復讐するという目的で行動していたはずが、自分たちが住んでいた街を破壊する作戦に参加することになってしまう。
細川は、早々に日本の敗戦を察知して裏で暗躍するけれど、中国共産党真珠湾攻撃の時点で日本が敗けることに気づいて、国民党との戦いにシフトする。卲康は、そんなに深く描かれていないので、そこまで感情移入できる登場人物ではないけれど、そういう中国国内の戦争の変化に翻弄されてしまった人物として描かれている。