山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』

ちくま新書の歴史講義シリーズから、新たに『思想史講義』シリーズが始まり、その第1回配本にあたる。シリーズ全体としては、明治1、明治2、大正、戦前昭和の4篇を予定しているとのこと。
最近、筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2を読んだので、それの延長で手に取った
なお、編者の福家は『大正史講義』の執筆者の1人でもある。


ところで、本書を読みながら、平成思想史というものを同様に編むことは可能なのだろうかと思ったりした。平成の時代において、世の中に影響を及ぼす思想とかオピニオンリーダーってあったのか・いたのか、と。まあ、何かしら色々とトピック自体は思い浮かばないこともないけれど。
100年後とかに書かれることになる平成思想史を読むことができたとしたら、おそらく、「こんな風にまとめるのか」というところが色々あるんじゃないかなと思う。となると、逆にこの本を、大正時代の人が読んだとしたらどう思うだろうか。


やはりというか何というか、マルクス主義アナキズムアジア主義と国家改造論あたりが面白い。このあたりは筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2でも面白かったので。
また、大本もほとんど知らなかったので、面白かった。

はじめに……福家崇洋
第1講 憲政擁護論……小山俊樹
第2講 天皇機関説論争……住友陽文
コラム1 雑誌メディアと読者……水谷 悟
第3講 民本主義……平野敬和
コラム2 生存権の思想……武藤秀太郎
第4講 教養主義……松井健人
コラム3 文化主義……渡辺恭彦
第5講 大正マルクス主義……黒川伊織
コラム4 日ソ国交論……富田 武
第6講 大正アナーキズム……梅森直之
コラム5 労働運動論……立本紘之
第7講 アジア主義と国家改造論……萩原 稔
コラム6 思想史のなかの「院外青年」……伊東久智
第8講 民族自決論……小野容照
コラム7 植民地政策論……平井健介
第9講 小日本主義自由主義……望月詩史
コラム8 国際協調主義……酒井一臣
第10講 女性解放思想……小嶋 翔
コラム9 パンデミック精神史の断片……藤原辰史
第11講 新教育……和崎光太郎
コラム10 能率増進論と科学的管理法……新倉貴仁
第12講 皇道大本と「大正維新」……永岡 崇
第13講 水平社の思想……佐々木政文
コラム11 社会政策・社会事業論……杉本弘幸
第14講 関東大震災と民衆……北原糸子
第15講 政党政治論……奈良岡聰智
編・執筆者紹介
人名索引

第1講 憲政擁護論……小山俊樹

大正デモクラシーの第1期である第一次護憲運動
立憲主義帝国主義が結びついている

第2講 天皇機関説論争……住友陽文

昭和になって、天皇機関説を唱えた美濃部は公職追放の憂き目にあるが、本講に書かれているのはその前段、大正期になされた学問的な論争としての天皇機関説論争
こちらでは、美濃部説が論争には勝っていて、通説となっていた。
重要なのは、天皇が国家機関かどうかというよりは、大日本帝国憲法において国体や政体はどのような位置づけにあるのか、という論争だったという点で、「天皇機関説」という名称はあまり正しくないようだ*1


美濃部の主張は、天皇機関説というより国家法人説と呼ぶ方が適切
公法と私法の関係を見直し、国家を私法領域である民法概念である法人に当てはめることで、権力の無制限性を否定する
対して、美濃部を批判する穂積・上杉であるが、実は彼らも、天皇が国家の一機関であること自体は否定していない。しかし、国家を有機体と呼ぶことに嫌悪感を示す。


また、大きな争点は、統治権や国体に関するもの
統治権について
美濃部は、国の統治権の主体は国家(団体)であると考えるが、穂積・上杉は、統治権天皇(自然人)であると考えた。後者にとって、国家の意思とは、自然人たる天皇の意思(精神作用)
国体と政体について
上杉にとって、君主国か共和国かは国体の区別、立憲国が専制国かは政体の区別
憲法は、国体と政体の両者について書かれている(国体政体二元論)
対して、美濃部は、国体は法律上の概念ではなく、君主国か共和国か、立憲国か専制国かはいずれも政体の別だとした(政体一元論)
国体を法学上に問う上杉らの議論こそ「不謹慎」であり、国体は日本固有のもので憲法より一段高いところにあり、国民道徳と同じ次元にあり、統治権の主体を天皇のものとするのは西欧主義的君主制に基づくのでかえって国体に背くと論じた。


既に述べたように、論争自体は美濃部有利で、穂積の死後、上杉は孤立
上杉は、直接民主制へのシンパシーもあり、主意主義的な国民精神と天皇の意思の一体化に国体を見いだしていく。


筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2を読んだ時、国体よく分からんって書いたんだけど、これ読んで、当時の学者の間でも理解が割れてたのなら、わからんのも仕方ないだろ、と思った。
あと、これ、途中までは美濃部説に対して同意しながら読めるのだけど、国体の話になった途端、美濃部の話がわりと理解不可能になる。これ、ある種の方便(国体の議論をさせないためにあえて持ち上げている)なのか、ガチの勤王主義なのか、というあたりが。

  • 追記(20221223)

国体について、以下の論文を斜め読みした
「近代国体論の誕生」米原
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpt2000/8/0/8_282/_pdf/-char/ja
明治末以降に国体についてなされた言説を「近代国体論」と呼んだ上で、そこで展開されている概念的枠組みが幕末期に成立していたと論ずるもの
遡ると、荻生徂徠本居宣長が「国体」という言葉を使っているらしい*2が、特に水戸学者である会沢正志斎の『新論』が理論的に論じている、と。
あと、国体/政体二分論とかが幕末期に既に出てきている(ただし、上杉の二元論よりも美濃部の一元論に近い考え方だろう)。
西欧諸国の強さをキリスト教というイデオロギーに見て取った会沢が、西欧のキリスト教に対して、日本には「国体」があるのだ、として論じたものらしい。
また、ペリー来航以降の幕末期の文書には「国体」という語の登場頻度が急増するらしいが、「(一)国家の体面あるいは国威、 (二) 国家の気風、(三)伝統的な国家体制、(四)万世一系の皇統を機軸とする政教一致体制」の4つの用例が入り交じっており、これらが最終的に(4)へと統合され、教育勅語へ至る、ということらしい。
水戸学というのは、儒学国学があわさったもので、また上述したとおり、会沢は西欧におけるキリスト教に対するものとして「国体」を挙げているわけで、国体というのは、単に天皇制という政治体制を指すというよりは、儒教的な道徳体系(そして、それを体現した日本人の「国民性」みたいなもの)が渾然一体となった言葉なのだろう。
(そのように理解すると、筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2に「男女平等を求めることは、治安維持法が禁ずる「国体の変革」にあたる可能性が」あったと書かれていたが、どういうことが分かってくる。)
これでようやく、「国体」という言葉の分かりにくさが腑に落ちてきた感じがする。どちらにしろ、意味不明な概念だなという感想には変わりはないのだが、その意味不明さが何に由来しているのかが少し分かった、ということ。
美濃部の国体論について、この人一体何言ってんの感があったが、国体概念解釈としては正当解釈なのだな、と。
追記終わり


1910年代には他にも色々論争があったという豆知識(?)も(邪馬台国論争、南北朝正閏論争、堺利彦大杉栄論争(のちのアナ・ボル論争)、平塚らいてう与謝野晶子論争(のちの母性保護論争))

コラム1 雑誌メディアと読者……水谷 悟

多くの雑誌が創刊され、読者の投書欄が言論空間を形成していったという話
もし、平成思想史講義が書かれるなら、匿名掲示板、ブログ、SNSの変遷が論じられることになるのかなーと思いながら読んだ

第3講 民本主義……平野敬和

吉野作造民本主義について*3
民本主義というのは、大日本帝国憲法の枠組みとデモクラシーは両立できるという主張。
吉野は、国家主権の概念を「所在」と「運用」に分けた
法律上、主権の所在は天皇にある(だから民主主義ではない)けれど、それを政治的にどのように運用するか、という点で民衆の声を反映させる(具体的には、普通選挙と議会政治)、と。


民本主義への批判として、2方向からの批判がある。
山川均が、民主主義と言わずに民本主義とか言っていることについて批判しているが、しかし、吉野としては、社会主義者はむしろ味方にしたいので、直接批判に答えることはなかった、と。
他方で、上杉は君主主義から批判している。
吉野は、こっちはこっちで国体論との衝突は避けていたらしいが、のちに浪人会との対立があり、黎明会・新人会結成へとつながっていく云々がある。(筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2参照)


吉野は、帷幄上奏(軍機について内閣から独立して上奏すること)を二重政府として批判
また、民本主義社会主義が矛盾しないことを主張し、無産政党結成にも関わる。ただし、民本主義自体は、マルクス主義の浸透とともに影響力を失う

コラム2 生存権の思想……武藤秀太郎

経済学者の福田徳三*4は、社会主義に対抗するための「社会政策論」の根本思想として「生存権」を置いた
生存権は、朝鮮独立運動の根拠にも用いられた
一方、経済学者の森本厚吉は、生存権ではなく「生活権」の主張を行い、文部省の生活改善運動に関わった

第4講 教養主義……松井健人

大正教養主義がどのように成立したか
旧制高校でのドイツ語教育や東京帝大のケーベルが関わってきたとされているが、実態として、ドイツ語できるようになった学生はごく一部だし、ケーベルについてもドイツ語と英語のみで授業したので、交流できたのは少数の学生のみ
その少数の学生が、阿部次郎、安倍能成和辻哲郎など
阿部次郎の『三太郎の日記』が、非政治的・非社会的で読書によって人格形成を目指すという教養主義ステレオタイプイメージを形成。
阿部は後に満州各地で講演を行っているが、新カント派由来で魂の不滅を説き、また非政治的・非社会的であるが故に、素朴に植民地主義的言説を展開する


本講、前半では、当時のドイツ語教育が暗記一辺倒で話せるようにならないことや、当時の東京帝大生のケーベル先生の授業とったけど何言っているのか全然わからんみたいな回想が引用されてて、ちょっと面白かった。
後半の、満州講演のアレな感じとあわせて、教養主義の残念なところを指摘している


東大、一方でこういう非政治的な教養主義があり、他方で新人会があったんだなー、と。

コラム3 文化主義……渡辺恭彦

新カント派由来の文化主義について

第5講 大正マルクス主義……黒川伊織

1910年代、堺利彦河上肇により唯物論が紹介され、山川均がそれを日本史へと当てはまる
1919年、ロシア革命により社会主義運動が活発化し、社会主義関係の雑誌が増える。
河上は学問的関心から実践運動から距離を置いたのに対して、山川はボルシェヴィズムへ関心を向けるようになる
1920年コミンテルン大杉栄接触1921年には日本共産党(第一次)が結成され、山川が初代委員長に。創立直後はアナキストとも協力関係にあったが、1922年にはボルシェヴィキのみの組織へ
共産党は、大衆的示威行動を重視し議会や普通選挙を否認していたが、一方で、普選実施を見据えて合法無産政党を作る動きも
コミンテルンからの指示された方針や、党員の一斉検挙などもあり、山川は議会進出を容認する。1923年にはまずはブルジョア民主主義の実現を目指すことを方針とし、24年には共産党自体を解党
一方、福本和夫による「少数の前衛」論がエリート学生の支持を集めるようになり、また、河上は実践へと身を投じることになる。なお、ここで、新人会に出入りしていた1人として大宅壮一の名前が出てくる。
福本主義のもと、非合法組織としての日本共産党(第二次)がつくられ、コミンテルンの指導下にはいる。河上も非合法共産党へ入党し、後に逮捕される
一方の山川は、議会を通じた非共産党マルクス主義の立場を選択する


共産党マルクス主義の歴史は、独特の用語があり、固有名詞もばんばん飛び交うので、なかなか難しいのだが、大正時代を通じて、河上肇と山川均の立場がある意味で入れ替わっていったのかなあというなんとなくの理解
「山川は、後年の回想では、第一次共産党との関係を全否定している」とあるのに、地味にびびる。
まあ、元々は直接運動論を展開し、普通選挙や議会政治を否定していたのが、それを180度展開し、以後その立場に立ったということで、そこに何か(本人的にも、思想史的にも)ポイントがあるんだろうけど、Wikipediaにもコトバンクweblio辞書にも、共産党結党に関わったことが書いてあるレベルの周知の事実なのに、否定しているのか、と
参考文献で米原謙『山川均』という評伝が紹介されているけれど、これは「非合法共産党での役割については、深入りしない立場をとっている」と書かれている。


ここらへんのよく分からんなーと思うところは、我々は後世の人間なので、歴史研究によって誰が何をしたのかって分かっていることになっているけど、リアルタイム世代の人間にとって、ここらへんどれくらい知られていることだったんだろう、と
山川均自体は、共産党結党以前から言論人であるし、また、共産党も非合法組織とはいえ『改造』で宣伝していたらしいので、そのあたりで、関係しているんだろうなっていうのは察せられていたのかもしれないが、一方で、そうはいっても非合法組織であって、公然と知られたら逮捕だろうしなー、と。

コラム4 日ソ国交論……富田 武

後藤新平の対露政策について
親露的態度は、伊藤博文からの影響が大きいと指摘されている
1920年頃、シベリア撤兵がメーデーのスローガンであり、また、ロシアでの飢饉に対する救援運動もあり、対露国交要求が、リベラルだけでなく日本主義者にも支持されていた、という背景もあった、と


小川哲『地図と拳』 - logical cypher scape2は、満州事変・日中戦争の背景にロシア・ソ連警戒論があったことを描いていたが、そっちの思想の系譜についても気になる。

第6講 大正アナーキズム……梅森直之

松沢弘陽は日本の社会主義運動の変化を「明治社会主義、大正アナーキズム、昭和マルクス主義」と要約。大正は、アナーキズムの時代
徳富蘇峰は、大正時代の青年を日露戦争の勝利により国家の基礎が確立された世代とみる。国家の独立やナショナリズムではなく、個人がどう生きるかが思想的課題となった、と*5
筆者は、アナーキズムがこの課題への応答(の一つ)だったとみる


本講では、大杉栄について主に論じられる
大杉は、『近代思想』『平民新聞』を創刊、労働組合運動(アナルコサンジカリズム)で活躍し、中国やフランスにわたるなど国際連帯の活動も行い、また、アナーキズムの文献だけでなくファーブル昆虫記やロマン・ロランの民衆芸術論などの翻訳出版も手がけ、また、パートナーの伊東野枝は青鞜社に参加しており、大杉自身も女性解放運動に関わった。
大杉は、労働運動を、社会の革命と同時に個人の革命とし、労働者の自己獲得・自律を目指す。自主自治からの労働組合へ、とつながる。
アナーキズムは、支配・被支配の関係に反逆することだったが、近代以前の共同体や「未開社会」へそのイメージが求められることもあった
大杉は、芸術と運動を区別せず、芸術論も展開した
前述の通り、上海やフランスにも滞在していたことがあるが、フランスでもっとも関心をもったことは、ウクライナボリシェヴィキに抵抗したマフノの闘いであったという


アナーキズムはおろか、マルクス主義すら見る影もない世代なので、なかなかリアリティをもつのは難しいが、大杉栄の思想や活動は、現代から見ても魅力的な面もあるように思えた。もっとも、近代以前や「未開社会」に理想を見る視線などは、かなり要注意だけれども。
マフノの闘いの話は、ある意味ですごくタイムリーでもあるし。
っていうか、マフノの闘いって佐藤亜紀『ミノタウロス』 - logical cypher scape2の元ネタか

コラム5 労働運動論……立本紘之

相互扶助を目的とした「友愛会」→より戦闘的な「日本労働総同盟」へ→アナルコサンジカリズムの浸透→アナ=ボル論争→ボル系の「日本労働組合評議会」結成へ

第7講 アジア主義と国家改造論……萩原 稔

北一輝について
話の枕として、手塚治虫北一輝を主人公にしたマンガを描いていた(打ち切り)とあって、知らんかった(手塚作品に詳しいわけではないので知らないのも当然だが)。
手塚が北に興味をもっていたというの不思議と言えば不思議


アジア主義と国家改造論は、北以前から既にあったが、それを結びつけたのが北の特質


日露戦争後の『国体論』に、アジア主義と国家改造論結びつきの萌芽はあるが、まだ、アジアとの連帯は過渡的な位置づけ
中国革命に関わり、中国やインドとの連帯を説きつつ、領土拡張の野望も示される。
北にとっての仮想敵国はイギリスとロシアで、アメリカとは提携可能と考えていた
また、中国との連帯を説きつつも、満州は日本が確保すべきとも考えており、満州事変は支持していた(日中戦争アメリカと対立するので反対)
猶存社の満川・大川からの依頼に応えて『日本改造法案大綱』を書く


『改造法案』
まず、天皇大権の発動が書かれており、天皇主義者の共感を得たが、北の意図は、天皇の絶対化ではなく、天皇の権威を利用した軍事クーデター
(なお、二・二六事件の失敗の要因として、天皇の御心に委ねればうまくいくと考える「天皇主義者」と、あくまでも天皇はシンボルでそれをもとに国会改造が必要と考える「改造主義者」が混在し、なおかつ前者が多かったため、と)
国会改造の内容として、普通選挙の実施、私有財産制の否定や福祉の充実などがあるが、これらが青年将校を惹きつけることになる。戦後の日本国憲法との連続性については筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2で指摘されていたけれど、もともと三島由紀夫が指摘していたとのこと
一方、日本国憲法との違いは、国の交戦権を認めていたことで、自衛以外にアジア主義に基づく戦争や領土分配を要求するために大国へ戦争する権利を認めていた、と
アジア主義と武力的な領土拡張主義とがなんで両立するのか、現代の目からは理解しがたいところもあるが、そもそも北のアジア主義において連帯の対象は、中国、トルコ、インドにとどまり、他の国は言及がないらしい
北は、社会進化論的な優勝劣敗の論理に基づき、独立を失った国家は救済に値しないと考えたらしく、例えば朝鮮の独立には否定的とのこと
この独善的なアジア主義が、北の死後に「大東亜共栄圏」として実現したと筆者は論じている


戦前の大日本帝国的なものを、十把一絡げにしがちだけど、ここらへん実は色々と差異があって面白いなあ、と
例えば、上述の「天皇主義」と「改造主義」の違い。「天皇主義」というのは、天皇機関説論争の上杉みたいな立場なんだろうなあ。
ロシア・ソ連への態度というのも、右派の中でわりと違いがあるのだな、と。
本書のコラムにある通り、シベリア撤兵の時期は右派からも親露的な意見があり、筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2にあったが、北を呼び寄せた満川・大川も親露派。
しかし、北は反露派だし、石原完爾とかもそうだし、ロシア・ソ連への警戒が満州事変となっていく。
それにしても、じゃあ日中戦争って何だったんだって話で、それは筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2でも小川哲『地図と拳』 - logical cypher scape2でも、中国なんて格下だろと舐めてかかっていたら、反日ナショナリズムによる強固な抵抗にあって、ずるずる長期化してしまったということが書かれている。
ここらへんは、日清・日露以降、国民側にも領土拡張主義的な気持ちが強くて、それに押されたところもあるのだろうなあ、と。で、これが実は第1講にあるとおり、大正デモクラシーにおいては、立憲主義とも結びついてた、とか考えるとほんと複雑。

コラム6 思想史のなかの「院外青年」……伊東久智

院外青年とは、日露戦争後から第一次大戦期にかけて、議会周辺(院外)で政治運動をしていた青年たちで、戦前昭和には代議士となっていく
思想的には相反する者同士が、同じ集団として結びついていたりして、このコラムでは、政治運動については、思想内容だけでなく、人間関係の次元からも理解することが重要だと述べられている。

第8講 民族自決論……小野容照

アメリカ大統領のウィルソンの原則で有名な民族自決
しかし、これが多義的な概念らしく、この概念の受入れ方などが論じられる。
そもそも民族自決と訳される原語がSelf-determinationで、民族という言葉は含まれていない。英語の時点で既に解釈の揺れがあるらしいが、主権在民という意味で解釈することが可能な言葉で、ウィルソン自身そういう意味で言っていたとされるらしい。
ところで、では何故民族自決という訳語が使われているかというと、実は、self-determinationという言葉を使ったのはウィルソンが初めてではなくて、元々社会主義者たちが使っていたが、日本に伝わったのは、二月革命によるロシア臨時政府の声明により。しかしそのときも、また民族ではなく国民と解釈されていた
これを被支配民族と結びつけて解釈したのが吉野作造で、さらに、10月革命でボルシェヴィキ政権が成立すると、この解釈が広まる。


ウィルソンの声明は、それに先だって出されたボルシェヴィキの声明を意識しているため、先述したとおり、ウィルソン自身は国民主権を意図しつつも、被支配民族の独立の意味を含むことを否定しない。ただし、ウィルソンは連合国の植民地については言及を避けた。
日本では、民族自決とは、ボルシェヴィキとウィルソンの提唱した概念で、適用範囲が異なることだけが違うと、当初は認識されていた
これが朝鮮の独立運動に結びつくことについて、吉野は指摘していたらしいが、ほとんど考えられていなかった。
一方、朝鮮人も、ウィルソンやパリ講和会議には期待していなかったものの、民族自決をもとに独立を求める宣言を出し、手を打ち、これが三・一独立運動へつながる。
これに対して日本では、朝鮮は民族自決主義の適用範囲を誤解していると論じたり、民族自決主義はそもそも「民族の幸福のため」だと解釈を変更するなどの反応が引き起こされた。
日本の大勢は、朝鮮ナショナリズムを否定した格好だが、黎明会や新人会などではこれと連帯する動きも見られたという。


民族自決という言葉の解釈を巡る動きとか全く知らなかったので、勉強になったのと
吉野という人は、ほんと大正思想史におけるキーパーソンなんだなあという印象

コラム7 植民地政策論……平井健介

外地、つまり帝国日本の植民地の行政というのは、結構自立していたよ、という話
経済政策において、内地と外地とで利害が対立するパターンが挙げられている
(1)外地独自の経済政策が内地の利害と対立するパターン(台湾の「南進工業化」構想)
(2)内地の利害が達成されたことで内地と外地の利害が対立するパターン(米の輸入代替)
(3)外地相互で利害が対立するパターン(砂糖の輸入代替)

第9講 小日本主義自由主義……望月詩史

小日本主義というと石橋湛山だが、石橋以前から東洋経済新社の歴代主幹において論じられてきたもので、その流れを追う
増田弘によれば、小日本主義を経済面から提起したのが植松孝昭、政治・外交面で補足したのが三浦銕太郎、思想上の感性段階に導いたのが石橋ということになる。


小日本主義は、植民地経営は日本にとって経済的な損失となる、という主張から始まる。なおこれは、条件が揃えば、植民地を持つことが利益になることもある、という経済的合理主義を伴っている。
また、帝国主義を放棄することで、国際社会での信用を高めるという期待もあった。
石橋においてはこれに、自由主義的な主張が加わる。
ホブソンやホブハウスらの新自由主義社会進化論プラグマティズムなどの影響をうけて、自由放任主義ではなく、国家が責任をもつ新自由主義。多元性を普通選挙・議会政治を通じて国家が調和させるということを考えていた、と
最低賃金や労働時間制限を主張したり、労働者への経営権拡大の提案などもしていたらしい

コラム8 国際協調主義……酒井一臣

国際協調主義的な政策をとっていたはずの日本が、昭和前期の満州事変において変貌したのは何故か、という観点から書かれている
ここでは、世論が国際協調主義を支持していたかどうかが着目される
大正デモクラシーだった「にもかかわらず」ではなく、「だったからこそ」ポピュリズムによる急展開があった、と論じている。
このあたり、第1講とも通じる話だし、大衆というのが大正のキーワードなのだなあと思う(筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2を見れば、大衆文化が花開く時代とも言えるし)。

第10講 女性解放思想……小嶋 翔

大正時代の女性解放運動の中で行われたいくつかの論争が紹介される。
平塚らいてう与謝野晶子が対立しているパターンが多い


「産む性」をめぐって(1911~1914)
与謝野は、産む性であることに女性としての誇りを持つ一方で、自由な創作がままならなくなることを自虐している
平塚は、事実婚となるが、経済的自立ができない状態では、子どもを持たないという


「堕胎論争(1915)」
青鞜』に掲載された原田皐月の短編小説「獄中の女より男に」をきっかけとした論争
堕胎罪により捕まった女性が、妊娠直後であればまだ自分の身体の一部であって罪にはならないと主張する小説である
これに対して、青鞜同人間でも賛否両論がでる
堕胎や避妊に批判的な論調が出てくることが、現代から見ると不思議だが、当時は、性愛と生殖が未分離だったからだと筆者は指摘する。
平塚も、避妊に対して嫌悪を覚えたと書いていて、避妊が、自立した人格同士の関係である性愛という行為を汚すように感じられていたらしい
バース・コントロールとしての避妊が認知されるのは、この後のことで、1922年以降、性の自己決定というよりは、貧困対策・優生政策の観点から論じられるようになる。


「母性保護論争(1918)」
出産・育児などの母性を保護するために、国が社会保障政策をとるべきとする平塚と
結婚・出産するには女性も経済的自立をすべきだとする与謝野
個人主義的であり、徹底的に男女平等的な与謝野と、女性の権利を国家が保護すべきだと考える平塚の対立は、その後も繰り返されることになる


花柳病男子結婚制限問題(1920)
1919年に、平塚と市川房枝が新婦人協会を結成する(筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2に詳しい)
ここでは、女性の結社の自由や集会の自由を制限していた治安警察法の改正とともに、花柳病男子結婚制限立法が要求されていた。
この後者は、平塚が熱心にすすめていたもので、当時、不貞により性病にかかった夫から妻が感染するという問題が起きていたため、健康診断書がないと結婚できないという法律を作ろうとしていた。
これに対して反対したのが、やはり与謝野であった、と。
恋愛や結婚はあくまでも個人の自由であって、法律で制限するべきではないという与謝野と、
そうはいっても、他人を害する自由はなく、国家・社会の利益のためにも、一定の制限は当然あるとする平塚
筆者は、理想主義的な与謝野と現実主義的な平塚、という整理もしている。


社会主義との関係
母性保護論争にせよ花柳病男子結婚制限立法にせよい、平塚は、男性中心の社会が女性を傷つけているからそれを保護すべきだ、という考えがあるわけだが、
しかし、これを不徹底だとこきおろしたのが、社会主義者である山川菊栄で、女性による社会主義結社・赤瀾会を結成する。
もともと『青鞜』に属していた伊藤野枝大杉栄のパートナー)もこれに加わる。

コラム9 パンデミック精神史の断片……藤原辰史

大正時代にはスペイン風邪が流行っているが、これが日本思想史に影響を与えた形跡は小さい
ここでは、新聞の投書欄にあった文章を紹介している。曰く、マルクス主義などの危険思想に対処するにあたって、思想ワクチンが必要ではないか、というもの

第11講 新教育……和崎光太郎

1900年代頃に、従来の教育を批判するものとして登場した「新教育運動」について
新中間層の台頭などもあり盛り上がるが、「新教育」という一つの考え方があったわけではなく、この当時、色々な人が色々なことを言っていて、それらをまとめて新教育と呼んでいるっぽい
が、いわゆる「アカ」への弾圧と新教育への「弾圧」が起こる。ここでは、新教育の内容自体が問題視されたというより、スケープゴートにされたということが論じられている。
新教育運動は衰退していくが、部分的には、戦時下の教育に吸収されていったことが指摘されて終わっている

コラム10 能率増進論と科学的管理法……新倉貴仁

「文化」と同様、大正期に頻繁に用いられた「能率」

第12講 皇道大本と「大正維新」……永岡 崇

出口王仁三郎のいわゆる大本教について
近代社会批判と天皇中心の国家神道的な思想とが融合した「大正維新」を説く
現体制への批判があったので、官憲からは弾圧の対象となったが、天皇主義・国家主義的な思想でもあり、デモクラシーや社会主義とは敵対的だった。
西欧物質文明を批判し、日本古来の大和魂心霊主義を表明しているが、出口自身は、新聞や映画などその時々のニューメディアを利用した進取の気性のある人物でもあったらしい
で、出口は、心霊主義的な思想を実現するにあたって、憑霊術のようなものを取り入れていく。
本章のポイントは、この鎮魂帰神という霊を憑依させる行法を巡るところだろう。
明治末から大正にかけて、心霊現象ブームというか非合理の復権という現象があって、大本も注目を浴びたらしい
明治近代国家が、神道の脱呪術化を図っていたことの反動でもある
一方、大本においては、これの先に国家主義的な目的もあって、霊魂レベルで臣民を作り上げるという方法でもあった。
しかし、コントロールしにくい方法だったらしく、出口はこの手法を停止していたのだが、当時信者だった浅野和三郎はこれにハマって大正期の流行をもたらしていた。
出口の考えと信者たちの考えにズレがあって、それが大本理解のポイントだ、ということらしい。

第13講 水平社の思想……佐々木政文

被差別部落についての人文・社会科学的研究が、いかに実際の運動へ影響をもたらしたか
被差別部落の起源は何だったのかということについて、歴史学者喜田貞吉、そして喜田から影響を受けた社会学者の佐野学の議論がある
佐野は、徳川幕府が政策的に被差別身分を作り出したという説*6を唱え、それを踏まえて、運動による部落解放論を唱えた
奈良県被差別部落で結成された組合団体が、佐野の論文を読んだことで、水平社創立準備を進めていったらしい。
水平社の宣言には、佐野・喜田説からの影響がありつつも、彼らの主張からは逸脱するところもある、ということは指摘されている(喜田はそもそも水平社運動に批判的)
また、参考文献紹介の中で、水平運動が天皇の下での平等を追求していたことを明らかにしたという研究が紹介されていた。

コラム11 社会政策・社会事業論……杉本弘幸

第14講 関東大震災と民衆……北原糸子

震災以前から、不況の折もあり、内務省では社会政策を担当する部局として社会局が設置され、地方行政でもこれにならって社会局が設置された。
東京市社会局は、関東大震災の際に、バラックの管理等の業務を行うことになった。それについて論じられている。
バラック管理というのは要するに、バラックからの退去とそのための住宅供給事業なのだけど、十分ではなく、4割弱の6900世帯が住居をえられなかったという
バラック撤退について、内務省社会局長が東京市長に宛てた文書の中で、国家は直接個人の資産を供与すべきでない(無償の居住を与える政策はない)ということを書いていて、この原則が阪神大震災まで貫かれたことを、筆者は指摘している


また、家賃高騰があったり、一定の富裕層は田園都市構想の影響で郊外に向かったりと、震災後の東京市内は人口が減少した、とも

第15講 政党政治論……奈良岡聰智

憲政擁護運動以来、大正から昭和初期にかけて政党政治が行われる。
ここでは、吉野作造を中心にどのような政党政治論がなされたか論じられており、第1講や第3講と関連が強く、本書が実はぐるっと回るような構成になっていたことが分かる(?)
さて、どのような政党政治論がなされたか、と述べたが、実はあまり正面切って論じられることはなかったという。
というのも、大日本帝国憲法には議院内閣制についての規定がなく、国務大臣の任命も天皇大権となるため、政党政治憲法の関係が微妙なため。

*1:ありがち

*2:朝鮮通信使の接遇をどうするかという議論の中で出てきていたりするらしい

*3:民本主義という言葉自体は、万朝報の記者が先に使用していたらしい

*4:黎明会の1人

*5:これは例えば、筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2の第9講にも見られる

*6:1960年代以降に支持を集めたが、現在は一面的すぎるとして支持されなくなっているらしい