伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史8』

今年1月から刊行の始まった「世界哲学史」シリーズ。いよいよ完結の第8巻(と思いきや、12月
に別巻が出るらしいが)
8巻は「現代 グローバル時代の知」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史6』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史7』 - logical cypher scape2

現代、主に20世紀の哲学を扱う。
前の巻では、10章中8章が欧米であったが、今度は半分以上が非欧米圏となる。8巻のタイトルは「グローバル時代の知」であり、より「世界」感(?)を出しているのかもしれない。
この巻のテーマとして他のフレーズを何かつけるなら「二元論・二項対立を超えて」とでもなるかもしれない。そういう感じの章が多かった印象。


第1章にわりと不満があり、5、6章が難解でちょっとよく分からなかったというのがあり、シリーズ全巻の中ではちょっと微妙なとこがあるかな、というのが正直なところだが、後半は結構面白かった。
面白い、というのは、現代中国とかアフリカとかの全然知らなかった哲学事情を知れたのが面白かったという意味ではあるが。

第1章 分析哲学の興亡 一ノ瀬正樹
第2章 ヨーロッパの自意識と不安 檜垣立哉
第3章 ポストモダン、あるいはポスト構造主義の論理と倫理 千葉雅也
第4章 フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治 清水晶子
コラム1 世界宗教者会議 冲永宜司
第5章 哲学と批評 安藤礼二
第6章 現代イスラーム哲学 中田考
コラム2 現代資本主義 大黒弘慈
第7章 中国の現代哲学 王前
コラム3 AIのインパクト 久木田水生
第8章 日本哲学の連続性 上原麻有子
第9章 アジアの中の日本 朝倉友海
第10章 現代のアフリカ哲学 河野哲也
コラム4 ラテン・アメリカにおける哲学
終章 世界哲学史の展望 伊藤邦武

第1章 分析哲学の興亡 一ノ瀬正樹

事実と価値・規範の二分法が、分析哲学の歴史の中でどう変化していったのか、という観点から論じられている。
クワインの「経験主義の2つのドグマ」やオースティンの言語行為論によって、上述のような二分法は弱められていった・解体された(が、それでも残り続けている)というストーリーで、そのことにより、「もともとの分析哲学」は「終息・滅亡」したと論じている。


しかし、分析哲学って今やかなり曖昧な、はっきりとした定義の難しい概念だと思っていて、ある考え方が退潮したことで、終われるものでもない気がする。
例えば哲学の場合、「ヘーゲルで哲学は終わった」とか「ニーチェで哲学は終わった」とか、ある意味では言えるかもしれないけど、素朴な意味では、それ以降も哲学は続いているよね、と。
分析哲学もまあ同様で。論理実証主義的な考え方自体は衰えたかもしれないけど、そのことをもってして分析哲学の滅亡とは言えないのではないかと。
哲学、と一言で言ってもその中には無数の、時には相反する主義主張、方法が入り混じっていて、分析哲学も同様だと思う。
ポスト分析哲学あるいは新分析哲学としての「徳認識論」、という言い方も出てくるのだけど、徳認識論も、分析哲学の中にある様々な論の中の一つであって、別に分析哲学に取って代わるものでは決してないと思う。

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なお、この章については、笠木さんが上のツイートに続く形で問題点を指摘する。長くなるので詳しくはリンク先を見てほしいが、ブラックバーンの見解として紹介されている部分が、実際はブラックバーンが批判してる側の見解であるなど、事実誤認もいくつかある模様。


個人的には、分析哲学の章としては、以下のようなものを読んでみたかった。
本書には、久木田水生によるAIについてのコラムがあるが、ならばいっそのこと(?)、今PLANETSで小山虎が連載しているような、初期の計算機科学と分析哲学の関係についてはどうか。
【新連載】小山虎 知られざるコンピューターの思想史──オーストリア哲学と分析哲学から 第1回 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと一枚の写真 | PLANETS/第二次惑星開発委員会
でもって、章の後半で、応用倫理学とAIについて触れるとか。
あるいは、世界哲学史シリーズの目論見として、西洋中心主義の相対化があるなら、実験哲学に触れるのもありだったのではないか。それだけだと哲学史にならないが、初期分析哲学史と絡めて、「概念分析」や「直観」などのメタ哲学的な概念史として構成するとか。
そんな章が可能だったかどうかはともかく……。

第2章 ヨーロッパの自意識と不安 檜垣立哉

ヨーロッパの危機の時代としての20世紀
大衆というテーマでオルテガベンヤミン
技術というテーマでフッサールハイデガー
それぞれ紹介している。

第3章 ポストモダン、あるいはポスト構造主義の論理と倫理 千葉雅也

ポスト構造主義の特徴をダブルバインド思考とした上で、デリダドゥルーズフーコーレヴィナスを、ダブルバインド思考という観点から整理する
(途中で、同一性ではなく差異に注目した先駆者として、ニーチェフロイトマルクスへの言及もある)
さらに、その後の展開として、メイヤスー、ラリュエル、マラブーが紹介されている。
最後に、東の動物論、ラリュエルの「普通の人」論が紹介され、それがダス=マンであることを頽落ではなく平時のあり方として肯定する、「世俗性」の肯定と捉える。
また、そのような世俗性の肯定は、体制を追認するだけであり、結集して抵抗すべしという反論に対して、これは、あらゆる結集に抗して個を徹底することで、逆説的に、異質さを認め合う共につながることを信じる思想なのだと締められている。


ところで、ポストモダン相対主義であるという批判に対して、ポストモダンが目指すのは、「落とし所」を探すことであり、「準安定的」な社会状態を再構成することなのだ、と論じられている。
この部分だけ読むと、ほとんどプラグマティクスの主張と見分けがつかないなあという感想を抱いた。プラグマティクスにおける科学や民主主義の捉え方に近い。
穏当な相対主義とでもいうべき立場で、分析哲学でもこういう立場は結構多いのではないかと思う。
で、穏当な相対主義って、近代の科学や民主主義の考え方の延長線上に普通にあるものでもある。
ポストモダンが批判されがちなのは、穏当な相対主義を越えて、過激な相対主義に陥っているように見えるからだと思う。
ここで、仮想敵を、(あえていうなら)絶対主義的なものとして論じていてるけれど、そしてそういう主張もまあ確かにしばしば見受けられるものだとは思うけど、実際のとこどうなのか。
言う通り、ポストモダンが穏当な相対主義だとして、そうだとすると、近代主義とそれほど変わりはなくなってくるのではないかという気もする。


ポストモダンポスト構造主義、いわば思弁として面白いなあとは思うのだけど、具体的にはそれってどうなるのか、というのがあんまり分からない、というのがやはり気になる。

第4章 フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治 清水晶子

冒頭で、何故「ジェンダー」という概念は嫌われるのかという問いを置いた上で、フェミニズム史を論じる。
アンチ・ジェンダー言説は、日本では2000年代にいわゆる「バックラッシュ」言説としてあらわらたが、日本国外ではむしろ2010年代に広まりを見せているという。


19世紀の女性参政権運動から、ボーヴォワール、イリガライ、第二波フェミニズム、ブラック・フェミニズム、モハンティ、スピヴァク、ウィティッグ、そしてバトラーまで。
「女性とは誰のことか」を巡っての議論の過程ともいえる。
まず、女性は男性と違う役割がある、ということが生物学的な差異から正当化されてきた言説に対して、ボーヴォワールがセックスとジェンダーを区別することで、「女性とは○○だ」と一方的に規定されることを拒むのが、まずはフェミニズムの始まりだろう。
しかし、では女性とは一体何なのか。イリガライは、この社会では男性の鏡として(つまり男性との比較において)女性というのがカテゴライズされてきたと批判する。
男性との比較ではない形で、女性とは誰かを考えることが求められたが、これは、本質主義へと接近する流れでもあった。
このあたりは、ラディカル・フェミニズムにも通底するらしい。
女性として団結するためには、女性なら誰でももっている本質が必要になるのではないか、という考えは、しかし、第三世界性的少数者からの批判にあう。
女性の中にも差異がある。
こうした流れで、ウィティッグは「レズビアンは女性ではない」、バトラーは「セックスもまたジェンダーである」と述べるにいたる。


「女性とは○○だ」という規定は拒むが、女性というカテゴリーはなくさない。女性の中にある差異を認め、女性というカテゴリーに属する者を拡張しつつ、女性として団結する
ジェンダーというのは、規定することのできないカテゴリーなので、嫌われるのだろう、と。


改めて、コンパクトにフェミニズムの歴史がまとめられていて、勉強になった。ウィティッグ知らなかったので、そのあたり特に。

コラム1 世界宗教者会議 冲永宜司

前巻のインドの章で、名前は出てきたがあまり解説のなかった世界宗教者会議。
巻を跨いでの伏線回収(?)
1893年、シカゴで開催され、ヴィヴェカーナンダや、日本の釈宗演が演説。仏教の因果の話から科学的合理性と宗教的信念が矛盾しないことを解いた釈演説は、アメリカのプロテスタントに共感され、それがもとで、鈴木大拙の渡米に繋がったとか。
ところで、世界宗教者会議、次に開かれたのは1993年らしい。その後は数年に一回のペースで、一番近くでは2018年にも開かれている。

第5章 哲学と批評 安藤礼二

井筒俊彦


批評とは何か、について、ボードレールマラルメランボー詩学から始める。この詩学ベルクソンプルーストにも影響を与えているとした上で、小林秀雄ランボーの翻訳から始め、ベルクソン論を書いたのは偶然ではなく、最後に本居宣長論を書いたのは何故か、と繋げる
で、批評とは聖なるテクストの解釈学であるとした上で、『古事記』を解釈した本居宣長を批評家と位置付ける。
歴史の「始まり」に「憑依」を見る批評の系譜として、本居宣長平田篤胤折口信夫を置き、さらにそれを受け継ぐものとして井筒俊彦がいるという。


とここまでがおよそ章の3分の1ほど使って書かれた序論で、残りは井筒俊彦論なのだが、そちらはよく分からなかったので省略

第6章 現代イスラーム哲学 中田考

まず、「現代イスラーム哲学」なるものは、翻訳を経た日本文化なのであって、実際に現地で行われているイスラームの哲学を理解するのはできないのだ、という注意がなされている。
その上で、
ハディースの徒とワッハーブ派について
復古主義・伝統主義・近代主義について
西洋思想とイスラームの融合の試みについて
などが解説されている。

コラム2 現代資本主義 大黒弘慈

第7章 中国の現代哲学 王前

清末に西洋哲学の輸入が始まり、1930〜40年代の中華民国時代に中国の現代哲学は発展を見せる
が、1949年、人民共和国の成立以降、自由な哲学の発展は停滞、80年代に入り改革開放とともに再び西洋の哲学が入ってくるようになる。


清末
厳復が多くの啓蒙思想を翻訳。特にハクスリーの翻訳により「適者生存」が魯迅胡適に影響を与える


中華民国時代
日本に留学しベルクソン現象学を研究した張東蓀
デューイのもとで学んだ胡適
分析哲学(ラッセルやウィトゲンシュタイン)と道教から独自の認識論やオントロジーを展開した金学霖
儒学の開祖とされる熊十力など


1980年代
ハイデガーに師事した熊偉、シュリックに師事した洪謙など、中華民国時代に台頭した哲学者がまだかろうじて生きており、後進を輩出
カッシーラーサルトルカミュハイデガーニーチェフロイト、フロムなどが人気を集めたらしい。デリダフーコーなども入ってきたが、注目を集めたのは近代についての思想。
マルキシズムとカント研究の李沢厚が、この時期の代表的な哲学者で、面白いことに、主体性を擁護するために美学を推進しており、当時の中国で美学ブームが起きたらしい
また、9章で再度出てくるが、ラッセルの論理学を学び、カントと儒学について研究した牟宗三も(本土ではなく香港・台湾で活動)


1990年代以降
現象学の翻訳が進み、フッサールハイデガーの研究が盛んに
分析哲学も改めて広まる
リクール、ハーバーマスデリダ、ローティが訪中。特にハーバーマスデリダは旋風を巻き起こした
なお、100年前にラッセルもデューイが訪中しているらしい


近年は、政治哲学が盛ん
90年代には、欧米における政治哲学の各潮流はおよそ紹介されており、まずはリベラリズムが力を持ったそうだが、中国の経済発展とともに、カール・シュミットレオ・シュトラウスが注目されているらしい。

コラム3 AIのインパクト 久木田水生

第8章 日本哲学の連続性 上原麻有子

西周井上哲次郎西田幾多郎を日本型観念論の系譜と位置づけ、彼らの思想の連続性を論じる。
西周実証主義であって、観念論者ではないが、彼の「理外の理」という主張の中に観念論の萌芽を見いだす。
「自己否定を含む自己矛盾的に展開する連続性」を日本哲学の特徴として論じている。

第9章 アジアの中の日本 朝倉友海

日中比較哲学といった趣きの章
7章と8章を受けてのこの章という位置付け。章タイトルだけ見ると、中国・日本・日本という感じで、日本二連続? となるが、実際は、中国・日本とそれぞれ個別に見てからの日中比較という順になっている。


儒学と仏教について
キリスト教道徳に代わるものとして、儒学は注目されたけど、のちに封建的なものとされ、現在では生きた思想にはなってない
むしろ、仏教の方が肯定的に評価されているし、西洋哲学と共振するものとされている。
日本では、井上円了井上哲次郎のW井上が仏教哲学を積極的に展開し、のちに西田に受け継がれる。
中国では、熊十力が、新儒学という名前と裏腹に仏教と西洋哲学を結びつけた。
より具体的には、東アジアの代表的な哲学者とされる西田幾多郎と牟宗三が比較される。
仏教を背景としつつ仏教への批判的観点も持ち、また、論理学を重視したという点で両者は似ているという。
また、面白いなと思ったのは、東アジアにおいて、大陸系/分析系という分断はあまり有効ではないという点。
例えば、大森荘蔵が高く評価していたのが廣松渉だった件。
西田をはじめとする京都学派はハイデガーに影響を受けた大陸系、牟は元々ラッセルの研究からスタートしており新儒学には分析哲学との関係がある。が、既に見てきた通り、西田と牟は類似点が多い。筆者は、論理学を重視した西田がもし戦後も生きていたら、分析哲学に「転向」していた可能性もあるのではないかと述べ、また、牟はこの分断に対して冷ややかだったともいう。

第10章 現代のアフリカ哲学 河野哲也

アフリカには哲学があるのか
歴史的にいうと、古代においてはエジプトやチュニジアなど地中海文化圏にアウグスティヌスなどの哲学者がいたし、近世においても哲学者は輩出されており、19世紀以降は汎アフリカ主義の政治思想家が数多くいる。
その点、アフリカにも当然哲学はあるのである。


この章ではタイトルにある通り、現代のアフリカ哲学が概観されている。
まずは、エスノフィロソフィーが取り上げられ、次いで、フランス語圏、英語圏南アフリカのそれぞれの地域別に具体的な哲学者が紹介されている。


エスノフィロソフィーは、ベルギーの宣教師タンペルによって始められた。アフリカ文化における西洋とは異なる思考、哲学的概念を明らかにする試みである。
しかし、エスノフィロソフィーは哲学ではないという批判もある。エスノフィロソフィーは、文化人類学的研究で当事者たちがどう考えているかの記述であって、そうした思考に対する自己批判的な面を持たないからである。また、多様な文化をアフリカとして一般化しすぎる傾向などもあるという。
現代のアフリカ哲学は、このエスノフィロソフィーの他、政治哲学、賢人の哲学、講壇哲学の4つの潮流があるという。講壇哲学は総じてエスノフィロソフィーに批判的。


フランス語圏
1930年代、マルチニークのセゼールやセネガルのサンゴール、モザンビークのクラヴェイリーニャによるネグリチュード運動
しかし、後の世代、例えばファノンなどは、エスノフィロソフィーやネグリチュードを、植民地主義の内面化であると批判した。
ほかに、バシュラールやキュリーのもとで科学を学び、古代エジプトは黒人文明であるとしてアフロ・セントリズムを唱えたジョップなどがいる。


英語圏
英語圏はフランス語圏に比べて遅く、1960年代後半から活発化する。
分析哲学や科学哲学、倫理学現象学など多彩な哲学者がいる
ガーナのエイブラハムは、汎アフリカ主義を訴えガーナ独立運動を指揮。
同じくガーナのウィルドゥは、エスノフィロソフィーの批判者で、ライルとストローソンに学び、アフリカ現地語の概念を分析し、西洋の諸概念を相対化する。
倫理学では、共同体中心主義を批判するジェチェや、ヨルバの伝統哲学を研究するバデゲシン
ケニアのオルカは、人種的神話化や「見た目」の批判的分析を行い、また「賢人性の哲学」を展開
解釈学では、ナイジェリアのオケレ、コンゴ出身でガダマーの弟子のオコロなどがいる。
シリキバハンは、ウィルドゥなどが安易に西洋的な方法論をアフリカ哲学に持ち込んでいるという批判をしている。


南アフリカ
アパルトヘイト以前・アパルトヘイト下では、分離政策を正当化するために哲学が利用された。
アパルトヘイト後、アフリカ主義が標榜され、その動きの一つとしてウブントゥ倫理が展開されている(ウブントゥというとOSの名前という認識しかなかったが、wikipedia見て、ウブントゥの創始者南アフリカの人であることを知った)


https://twitter.com/kaito_yoshitate/status/1296979492372586502?s=21twitter.com
個人的にアフリカ哲学の章はよかったと思っているが、twitter見てたらこういう指摘を見つけたので貼っておく
まあ、これは重版かかれば訂正されていく類のものだと思う。
他の巻で、誤変換がそのまま残ってる箇所があったりして、スケジュールとか大変なのかな、と思ったりはしている。

コラム4 ラテン・アメリカにおける哲学

コラムなのでページ数が短く具体的な哲学者名などは出てこないのだが、「あ、なるほど」という感じで面白かった。
東アジア、アフリカときて、ラテン・アメリカという本書後半の構成はなかなか良かった。


ラテン・アメリカは、19世紀に近代国民国家が成立し、西洋の哲学を受容し続けてきた、という点で、日本と状況が似ており、その展開がそっくりだという。
19世紀の実証主義と新カント派、20前半に現象学実存主義、そしてマルクス主義が広まり、20世紀後半に分析哲学が台頭し、大陸哲学から反発を受ける……という展開

終章 世界哲学史の展望 伊藤邦武