ブルース・ククリック『アメリカ哲学史』(大厩諒・入江哲朗・岩下弘史・岸本智典訳)

サブタイトルに「一七二〇年から二〇〇〇年まで」とあり、18世紀からの宗教哲学、19世紀からのプラグマティズム、20世紀からの分析哲学の三部構成で書かれた本。


元々、フィルカルvol.5 no.2 - logical cypher scape2アメリ哲学史特集が組まれたりと、アメリ哲学史関連の本が最近立て続けに出ていて気になっていた。最近、桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2を図書館で借りた時、近くの棚に置いてあったのを見かけて、「そういえば気になっていたんだよな」と思って手にとった。
アメリカ哲学というと、自分は分析哲学には色々触れているものの、それ以前のことはほとんど知らず、分析哲学についてもあまり歴史的な観点では触れていない。
ドイツ観念論アメリカ哲学のつながりとか、大学などの制度的な面からの哲学史とかそういうあたりに興味をひかれた。
ところで、本書を読んでみると、制度的な話もしているのだが、それ以上に、取り上げている哲学者の思想内容についても(当然ながら)がっつり論じられていた。


まず、第1部についていえば全く知らないところで、出てくる人たちの名前すら知らないという有様だった上に、基本的に神学の話なので、内容の理解もなかなか覚束なく難しくはあった。
ジョナサン・エドワーズという人が起点で、この人が、ロックなどイギリス経験論ひいてはヨーロッパの哲学からの影響強めの神学を始めて、神学校ができて専門職化していったのともかかわって、それで哲学寄りの神学がどんどん出てきたというのが大雑把な感じ。
ユニタリアニズムとかトランセンデンタリズムとか名前はなんとなく聞いたことがあるがよく分からんというものの立ち位置が、少しだけ分かった気がした。
第2部は古典的プラグマティズムで、パース、ジェイムズ、デューイという高校でも習う超有名な3人を扱っているが、これに加えて、アメリカの観念論者として名前は聞いたことがあるのだが名前以外よく知らなかった、ジョサイア・ロイスについても取り上げられていて面白かった。
あと、パース、ジェイムズ、デューイの3人は確かに名前だけなら有名だが、彼らがどういう哲学者・思想家だったか聞かれると、正直心許ない。そのあたりが、少し分かったような気がした。
第3部は分析哲学、というか、分析哲学が主流となっていった20世紀アメリカ哲学界を対象としている。訳者解説でも触れられているが、「分析哲学史」として書かれているわけではない。どちらかといえば、蛸壺化してしまった分析哲学に対して批判的な論調で書かれている。
とはいえ、かなり色々と勉強になった。
まず第11章は20世紀前半だが、新実在論や批判的実在論というのを全然知らなかったのでそれがまず勉強になった。特に後者については、そこにラブジョイが位置づけられることやセラーズの父親もまた有名な哲学者だったことなどが。
また、同じく第11章はC.I.ルイスとウィルフリド・セラーズも扱っている。C.I.ルイスは様相論理学の先駆者、あるいはクオリアという言葉を現代的な意味で使い始めた人として、名前はよく見かけるのだが、しかしそういう断片的なことしか知らなかった*1ので、どういう哲学者だったのか知れてよかった。
また、第12章から第14章については、20世紀アメリカの大学の哲学科がどういう状況に置かれていたのかということが知れて面白かった。大学の名前がぽんぽん出てくるのだが、アメリカの大学は名前は聞いたことあっても、どういう位置づけかよく分からないので、そのあたりも面白かった。

序論

第1部 アメリカにおける思弁的思想 一七二〇―一八六八
 第1章 カルヴィニズムとジョナサン・エドワーズ
 第2章 哲学と政治
 第3章 神学論争 一七五〇―一八五八
 第4章 カレッジの哲学 一八〇〇―一八六八
 第5章 革新的なアマチュアたち 一八二九―一八六七
第2部 プラグマティズムの時代 一八五九―一九三四
 第6章 革命のかたち
 第7章 観念論へのコンセンサス 一八七〇―一九〇〇
 第8章 ケンブリッジにおけるプラグマティズム 一八六七―一九二三
 第9章 ハーヴァードにおけるプラグマティズム 一八七八―一九一三
 第10章 シカゴとニューヨークにおける道具主義 一九〇三―一九三四
第3部 専門職的な哲学 一九一二―二〇〇〇
 第11章 専門職的な実在論 一九一二―一九五六
 第12章 アメリカに対するヨーロッパのインパクト 一九二八―一九六四
 第13章 ハーヴァードとオックスフォード 一九四六―一九七五
 第14章 専門職哲学の苦難 一九六二―一九九九
結論
謝辞
訳者解説 アメリカ思想史の一分野としてのアメリ哲学史[入江哲朗]
訳者あとがき[大厩諒]
方法、文献、註
主要人物表

第1部 アメリカにおける思弁的思想 一七二〇―一八六八

第1章 カルヴィニズムとジョナサン・エドワーズ

アメリ哲学史ジョナサン・エドワーズから始めるのは、訳者の一人である入江によれば「実のところきわめてオーソドックスな哲学史観」だというが「日本においては、残念ながら、この哲学史観がオーソドックスであることもあまり知られて」いないという通り*2、自分も全然知らなかった。
ロックをはじめとするヨーロッパの哲学に影響を受けたエドワーズ
一次性質と二次性質の区別を退け、いずれも直接に知られるとして、観念論を唱える
また、神による因果的決定論と個人の自由意志との両立を説く。神による作用因と出来事の系列の区別。
人間は必ず堕落するので神の恩恵が必要というカルヴィニストと、人間は善良に生きることを選ぶこともできるというアルミニウス主義がいて、エドワーズはカルヴィニストの立場から、自由意志が罪をもたらすと考えた。

第2章 哲学と政治

この時期のアメリカにおいて、哲学と政治が乖離していたという話
建国者たちは、政治に関する理論的な文章をたくさん書いているけれど、アメリ哲学史で「哲学者」と呼ばれる人たち(エドワーズやその影響を受けた者たち)とは距離があった。
逆に、エドワーズなどの哲学者にとっても、政治や社会は二次的・三次的な関心の対象でしかなく、政治とは距離をとっていた。

第3章 神学論争 一七五〇―一八五八

エドワーズに影響を受けた者たちにより、ニューイングランド神学=ニューディヴィニティ(新神学)が生まれる。
18世紀前半、ハーヴァード、イェール、プリンストンが聖職者養成学校として台頭する。ニューディヴィニティはイェールが中心。
ニューディヴィニティは、2種類の因果分析を行い、神の世界と人間の世界を区別して、エドワーズの意志論を引き継ぐ。他からの批判に応答する形で、例えばエモンズによる「行使論」などが展開される。
エドワーズやその後継者は、ロックやバークリー、ヒュームの考えの影響を受けていたが、イェールやハーヴァードから距離を置き始めたプリンストンでは、ウィザースプーンが、これをスコットランド実在論に置き換える。
また、ハーヴァードはもともとコスモポリタン的でカルヴァニズムとも距離があったので、イェールなどとは違っていたが、アルミニウス主義からユニテリアニズムへと向かう。イエスは神の子ではないという立場。
こうしたハーヴァードの動きは、牧師の養成に相応しくないと考えたカルヴィニストたちは、アンドーヴァー神学校をはじめ新たなプロフェッショナル・スクールを作る
ところで、ニューヘイヴン(イェールの所在地)はニューヘイヴンで、テイラーが、エドワーズの考えを独自に解釈しなおした(ニューヘイヴン神学)。

第4章 カレッジの哲学 一八〇〇―一八六八

もともとアメリカでは哲学は神学と一緒に行われて、独立したものではなかったが、カレッジと神学校がそれぞれ増えていくことで、哲学は相対的に独立していく。
ヒューム的な懐疑論に対抗するものとして、スコットランド哲学(とそれに先立つものとしてのロック)とカントがそれぞれ見いだされていく。
1830年代から、カントやドイツ哲学がアメリカへ入ってくる

第5章 革新的なアマチュアたち 一八二九―一八六七

ここでいうアマチュアというのは、大学教員ではなく、講演や著述を通じて自分たちの思想を広めた者たちのこと。ラルフ・エマソンなどの名前が出てくる。
知的な層が、かつては牧師や神学者となっていて、あるいはこれより後の時代だと大学教員になっていくのに対して、ちょうどその中間の時代で、そのどちらでもない立場で影響力を発揮していた、と。それをここでは「アマチュア」と呼んでいる。
彼らは、ドイツ哲学を積極手に取り入れていった
ヴァーモント大学の学長ともなったマーシュは、カントを用いて神学を再構築しようとした。
また、ユニテリアンの元牧師だったエマソンたちは、トランセンデンタリズムを立ち上げた。この名前はカントに由来し、カント哲学をもとに神学を乗り越えようとした。
ブッシュネルは、物理的な文字通りの真理と霊的な比喩的な真理とをわけて、宗教的な言語は後者を述べるものと論じた
ブッシュネルやネヴィン、ハリスは、ヘーゲル主義者であった
ハリスは、英語で書かれた最初の哲学に関する雑誌である『思弁哲学雑誌』を1867年に創刊した。パース、ジェイムズ、ロイス、デューイはこの雑誌から世に出ることになった。

第2部 プラグマティズムの時代 一八五九―一九三四

第6章 革命のかたち

ダーウィンの進化論が衝撃を与えたこと
大学の変化、神学が凋落し哲学が高い地位を占めるようになったことなど

第7章 観念論へのコンセンサス 一八七〇―一九〇〇

ジョン・デューイとジョサイア・ロイスについて
本書は、プラグマティズムを観念論の一種だと位置づけるが、本書において観念論は、存在を意識が超越する立場、としている。
存在が意識の外界に実在するという、いわゆる実在論の立場にたつと、そもそもどうやって我々は外界についてアクセスすることができるのかという問題が生じる。一方、観念論の立場にたつと、逆に、どのようにして誤謬が可能になるのかという問題が生じる。
第1部の神学においては主に、決定論と自由意志が問題になっていたのに対して、第2部では認識論が問題になるように変化したように感じる。
ロイスはカントから影響を受けながら、観念論を作り上げた。実在を経験する「仮説的な主体」を要請する。誤謬を「不完全な思考」と定義した。
デューイは自らを「新ヘーゲル主義」と名乗っている。
進化と観念論を結びつける。絶対的な意識を前提。心理学に着目し、科学と宗教の両立可能性を力説。
 

第8章 ケンブリッジにおけるプラグマティズム 一八六七―一九二三

チャールズ・パースについて
ケンブリッジで、哲学者のジェイムズやライト、パース、法律家のホームズやグリーン、ウォーナーらがメタフィジカル・クラブを結成
進化論と整合的に信念の本性を調査するための確率としての「プラグマティズム


パースは父親が高名な数学者で、父親パワーで天文台や米国沿岸測量局のポストを得ている。その後、ボルチモアジョンズ・ホプキンス大学に就くも、女性関係スキャンダル等で辞めさせられる。ジェイムズやロイスによって、ハーヴァードではパースはよく知られており、ジェイムズの尽力はあったのだが、ボルチモアの醜聞により、ハーヴァードで職を得ることは適わなかった。


パースは『純粋理性批判』をきっかけに哲学をはじめ、表象がどのように可能になるかを問うた。
唯名論では、偶然な一般化と法則的な一般化の区別ができない。また、デカルトやロックのような形而上学実在論は必然的に唯名論に帰結するとして、認識論的実在論の立場をとる。認識論的実在論は観念論を含意する。実在的なものの定義は、科学的共同体によって信じられる対象である。


死後残されたパースの草稿を整理するために多くの哲学者が招へいされたらしい(ラッセルやサンタヤナ、C.I.ルイスなど)。
多くの人が関与したことで、草稿群はどんどん乱雑な状態になっていった、と。1930年代に2人の大学院生の手によってようやく『論文集』が刊行される。これは大きい業績ではあるが、さらに混乱をもたらすものでもあった、と。

第9章 ハーヴァードにおけるプラグマティズム 一八七八―一九一三

ウィリアム・ジェイムズについて
ジェイムズは、ダーウィンの進化論に衝撃を受けて、これと自分の宗教的信念をどう両立させるかという点で思想をスタートさせていった。
かなり鬱などを持っていたらしい。
心理学から始まって、次第に哲学へと移行していった。
様々な哲学的信念などは気質によるのだ、という話
パースがあくまでも科学的推論のことと考えていたプラグマティズムの原理を、個人の心理的過程にもあてはめる。


この章の後半では、ロイスとジェイムズが比較されている。
2人は互いに論争しているのだが、実はロイスはジェイムズに結構同意していて自らの立場を「絶対的プラグマティズム」とも称していたらしい。
2人は、絶対者をめぐって立場が分かれていた。
ロイスは、絶対的意識と一致する場合にその観念は真であるという
ジェイムズは、真なる信念の心理的な状態の記述と正当化とをあまり区別しない。つまり、真なる信念とは「満足いく」ものである(有用であるとか、うまく機能するとかと同義)、と。
一方、彼らは当時の保守的な道徳観を正当化するという点で似ていて、あまり、社会的・政治的な思想家ではなかった。
プラグマティズムは、民主主義政治を正当化する思想として紹介されることがあるが、それはケンブリッジプラグマティズム(パース、ジェイムズ、ロイス)には当てはまらないという(この後に出てくる、デューイらには当てはまる)。
ジェイムズとロイスは、これまでのアメリカ哲学の伝統にならい、政治を優先度の低い応用問題としてしか見ておらず、いくつか社会問題に関する文章も書いているのだが、ちゃんとした労働問題の知識とかを持って書かれたものではない。
ところで、ロイスはドイツ観念論を専門としていたため、第二次世界大戦を契機に不遇の身となり、忘れ去られてしまったらしい。

第10章 シカゴとニューヨークにおける道具主義 一九〇三―一九三四

ジョン・デューイについて
デューイは、シカゴで教授をしているが、当時のシカゴの社会状況から(ハーバードのあるケンブリッジとは異なり)社会問題などへと関わりが生じる。その後、デューイはニューヨークへ移るが、シカゴではデューイのあとをミードが継いだ。
デューイは、ヘーゲルダーウィンから影響を受けていて、ヘーゲルダーウィンによって「自然化」したと自分のことを捉えていた。
二元論を退け経験一元論を説く。経験がどのように組織化されるかで物理的な事象だったり心理的な事象だったりになる*3
科学論と道徳的価値論とを結びつけようとした。
この時期、民主主義は必要だが見直しが必要で、合理的な公衆などは存在せず官僚となる専門家が重要だという考え方が強まっていたが、デューイは、専門家がアドバイスをするとしても政策を決定するのはあくまでも公衆であるという考えを維持した(リップマンを重要視していた)。
また、デューイは自然主義者で超自然的なものを退けたが、宗教的なものにはこだわった。

第3部 専門職的な哲学 一九一二―二〇〇〇

第11章 専門職的な実在論 一九一二―一九五六

本章では、20世紀前半のアメリカで展開された実在論的な哲学として、新実在論、批判的実在論、C.I.ルイス、ウィルフリド・セラーズがそれぞれ紹介されている。

ジェイムズの弟子たちが立ち上げた「新実在論
ラルフ・ペリーをリーダー格に、ウィリアム・モンタギューやエドウィン・ホルトら6名が集った。
経験論を徹底すると実在論になるという立場で、ロイスの観念論を批判し、また、実在論の先駆けとしてジェイムズを評価した。
実在論というとこれまでは表象実在論という、外界に実在があって表象を介して知られるという立場が知られていて、ロイスなどはこれを批判していたが、彼らは、直接知られるのだという議論を展開した。例えばホルトは「まさにここに」存在する、と考えた。
しかし、本書において、結局彼らは表象実在論に陥ってしまった、とされている。その後、影響力を残すことなく、このグループは消えていくことになる。

ここまで実は何度か名前が出てきたジョージ・サンタヤナ、そして、アーサー・ラブジョイ、ロイ・ウッド・セラーズが取り上げられている。
本書ではサンタヤナについては「ハーバードがみずからの自由主義を証明するものとして寛容に扱った哲学者」と書かれているだけで経歴はあまり書かれていないが、Wikipediaによればスペインからの移住者でのちにフランスやイタリアに移っていったらしい。
実在論を批判して、存在と本質とを分けた。現れは、知覚の対象ではなくて知覚の手段であるとして、伝統的な実在論や新実在論が陥った問題点を回避し、この知覚の手段としての表れを本質と呼んだ。
また、彼らは形而上学には踏み込まず、認識論をやるという立場に自分たちを置いている。
ラブジョイは思想史の分野で仕事を行った。有名な『存在の大いなる連鎖』は観念の歴史を追ったもの。ラブジョイは、直接的に自分の哲学的立場を論ずることはなくて、他の立場への批判を通じて間接的に示していた、と。ラブジョイは博士号は修得しなかった。
ロイ・セラーズは、ウィルフリド・セラーズの父親。「批判的実在論」というのはセラーズ(父)の著作のタイトルで、セラーズは、自分たちの哲学的立場をまとめた。
心脳同一論を唱えたり、知識を言語の問題と捉えた(息子に受け継がれる)
セラーズは、ミシガンで学び、教鞭に立った

  • C.I.ルイス

ジェイムズとロイスに学ぶ。ロイスが、ホワイトヘッドラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』をもとに授業していたらしくて、その影響で論理学へ。
認識論について、所与(感覚)と概念を区別し、単なる所与だけでは知識にならず、これに概念が適用されることで知識になると考えた。
カント主義っぽいが、ルイスは、実在論に対しても観念論に対しても中立的な立場をとって、カント主義への肩入れも避けることができると考えた。が、筆者はルイスは観念論を受け入れることで懐疑論を回避したと論じている。また、知覚と概念を区別したけど、知識の正当化においてこの区別が崩壊している、という指摘もしている。

  • ウィルフリド・セラーズ

父親の哲学的立場を継承。また、ルイスを批判。セラーズというと「所与の神話」批判が有名だけれど、この所与というのはルイス哲学のキーワードで、これを批判している。
知識というのは、知覚の領域ではなくて言語の領域のもの、つまり知識を「理由の空間」へ持ってきた。
セラーズは、ハーヴァードとオックスフォードで学ぶが、学士号止まりであった。イェールを含むいくつかの大学で教えるが、最終的にピッツバーグに落ち着いた。

第12章 アメリカに対するヨーロッパのインパクト 一九二八―一九六四

この章では、1930年代頃のアメリカの大学の安定と停滞について触れ、ヨーロッパからのインパクトとして「フランクフルト学派」「論理経験主義」「実存主義」の3つを挙げている。

ナチスドイツが台頭していた時期にアメリカへ来ていた。ただ、ホルクハイマーとアドルノアメリカの大衆文化とあわず、ナチスの敗北とともにヨーロッパへ戻っている。なので、あんまりアメリカの専門職的な哲学への影響もなかった、と。
一方、フロムとマルクーゼは、グループからは離脱し、そのままアメリカへ残った。
特にマルクーゼは、象牙の塔の知識人から社会についての批評家となった。

見出しでは「論理経験主義」だが、本文中ではわりと「実証主義」表記が多かった。
フランクフルト学派と違って、アメリカの専門職的な哲学への影響が大きかったグループ
もともと、ラッセルがハーヴァードで講演したことがあり、また、同じくハーヴァードがホワイトヘッドを招聘していた(論理学を期待していたのに対して、渡米後のホワイトヘッド形而上学の研究をするわけだが)が、1930年代にこのグループの哲学者が次々とアメリカへやってくる。
ハーヴァードからケンブリッジへ留学したスティーヴンソンは、倫理学においてのちに「情動主義」と呼ばれる立場をとって、アメリカの伝統的な倫理学の考えを拒絶した。イェール大学でテニュアを得ることはできず、ミシガンに移った。
ティーヴンソンは「説得的定義」というアイデアを出した

戦後、アメリカでサルトルが知られるようになる。
イェール大のフランス学部が特にその役割を果たす。
実証主義実存主義の対立
イェール大は、実証主義的な哲学者もいれようとして、スティーヴンソン、その代わりにヘンペル、その代わりにウィルフリド・セラーズと次々に雇うが、いずれも定着しなかった。

第13章 ハーヴァードとオックスフォード 一九四六―一九七五

アイザイア・バーリンが、C.I.ルイスの著作を読んだことから始まる、ハーヴァードとオックスフォードの交流
アメリカ側では、モートン・ホワイトが仲介人となった
ルイスに学び、プラグマティズム的分析と呼ばれるスタイルをとった者として、クワインとグッドマンが特に詳しく取り扱われている。
グッドマンはルイスを尊敬しており、ルイスをカントと同等に位置づけていた。そのうえで、概念の構造を「いくつかの記号体系」の構造に置き換えなければならないと考えていた。「こうした考えに対するルイスの返答は情け容赦のないものだった。」知識の正当化と知識の内容の分析は区別すべき、というもので、グッドマンのヒューム的な立場は「知的な惨事」だと述べた。
また、ルイスの拒否によってグッドマンはハーヴァードに職を得られなかったらしい。


ハーヴァードとオックスフォードの交流について
1953年 グッドマンがロンドンで『事実・虚構・予言』のもとになる講義
その数か月後 クワインがオックスフォードへ
1954年 オースティンがハーヴァードで『言語と行為』のもとになる講義
1955年 ウィルフリド・セラーズがロンドンで所与の神話批判の講義
50年代の終わり グライスがハーヴァードでウィリアム・ジェイムズ講義
1957年 ハートがハーヴァード訪問
1970年 エヤーがハーヴァード訪問
1972年 ウィリアムズがハーヴァード訪問
オックスフォードで博士号を取得しアメリカに帰国した哲学者として、シファー、サール、アンガーなど
また、ハーヴァードとオックスフォードのつながりに恩恵を受けた哲学者として、デイヴィドソンデネットクリプキ、D.ルイス、ノージックヌスバウム、シューメイカーらの名前が並べられている。
また、オックスフォードの哲学者で晩年にアメリカへ渡ったものとして、ハンプシャー、アームソン、ウォルハイム、グライス、ヘア。より若い哲学者として、マクダエルやクリスピン・ライトの名前が挙げられている。

第14章 専門職哲学の苦難 一九六二―一九九九

哲学の専門職化(分析哲学化)が進むことによる哲学の困難さについて

  • 哲学の細分化

分析哲学が専門化・細分化していくことで、退屈な分野となっていき、学生からの人気も失っていった

  • 哲学内の対立

いわゆる分析哲学と大陸哲学の対立
マルクーゼが非常に人気になっていたことが書かれている
また、イェールが反分析哲学、大陸哲学の根城になっていった

  • 哲学外との対立

分析哲学が専門化し他の分野との交流がなくなり、社会科学の各分野が「哲学する」ようになる


ククリックは明らかに分析哲学全般の傾向に厳しい目を向けており、その中で、そうではない哲学者を何人かピックアップしている。
その一人目がトマス・クーン。
クーンは教授になる際哲学科ではなく歴史学科ならよいと判断されて、実際そうなったらしいのだが、ククリックはこれを分析哲学の傲慢さを示す最悪な決定と論じている。
クワインへの批判として、チョムスキーによるものと、クリプキやバーカン・マーカスによるものが紹介されている。指示の新理論については、その起源がクリプキかマーカスかで議論があるらしい
また、リチャード・ローティについてもページを割いている。
イェール出身でありながらも、クワインに影響を受けた分析哲学者としてスタートする

結論

訳者解説 アメリカ思想史の一分野としてのアメリ哲学史[入江哲朗]

訳者の一人である解説。
ここでは、本書の背景としてアメリカ思想史について説明されている。
思想史の一分野である、とはどういうことかというと、歴史家によって書かれた哲学史であるということである。
(この訳者解説では特に述べられていないが、哲学史というのはたいてい哲学者がやっていて歴史家がやっているわけではない、というのがある)
なので、普通、哲学史というと、哲学者の思想がどのような影響関係にあるのかというのをその思想内容から論述するものだが、この本はむしろ、そういう論述だけでなく、当時の社会状況・文化状況との関係から論じる部分も多い(ので読者はちょっと驚くだろう、というようなことが述べられている)。
これは、ククリックが哲学者ではなく、歴史家として哲学史を書いているためである。
しかし、単にそれだけではなくて、アメリカ思想史という分野自体の辿った経緯というのも関係しているらしい。というのも、アメリカ思想史という分野は1970年代に一度衰退し、近年になって再興したという経緯を持っている。


ところでこの解説、途中で吉本隆明柄谷行人が引用されるが、自分にとって、この解説を書いている訳者の一人である入江哲朗の名前は、もともとアメリカ思想史の研究者としてではなく、若手批評家として知っていたので、ちゃんと繋がっていると勝手に感じたりしていた。
トランプ旋風の「トランプ」ではなく「旋風」にアメリカ性を見いだす視点

主要人物表

本書に登場する主要なアメリカ思想家・哲学者について、氏名のスペル、生没年、主に登場する章についての一覧表が付されている。
このブログでは、本書の内容をかなり省略してしまっているので、この表に挙がっている名前だけ下記に列挙してみたい。
ジョナサン・エドワーズ
ベンジャミン・フランクリン
ショゼフ・ベラミー
サミュエル・ホプキンズ
ジョン・ウィザースプーン
トマス・ペイン
トマス・ジェファソン
ナサニエル・エモンズ
ナサニエル・ウィリアム・テイラー
ジェイムズ・マーシュ
チャールズ・ホッジ
ローレンス・バーシアス・ヒコック
ホレース・ブッシュネル
ジョン・ウィリアムソン・ネヴィン
ラルフ・ウォルド・エマソン
シオドア・パーカー
ジェイムズ・マコッシュ
フランシス・ボーエン
ノア・ポーター
ヘンリー・C・ブロックマイヤー
ニコラス・セント・ジョン・グリーン
チョーンシー・ライト
ダニエル・ギルマン
イライシャ・マルフォード
チャールズ・ウィリアム・エリオット
ジョージ・ホームズ・ハウィソン
ウィリアム・トーリー・ハリス
チャールズ・サンダース・パース
ジョージ・S・モリス
オリヴァー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア
ウィリアム・ジェイムズ
ジョージ・ラッド
ボーデン・パーカー・ボウン
ジェイコブ・グールド・シュアマン
ジョサイア・ロイス
ジョージ・S・フラートン
ジョン・デューイ
ルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
ジェイムズ・E・クレイトン
ジョージ・サンタナ
エドウィン・ビッセル・ホルト
アーサー・O・ラヴジョイ
ウィリアム・ペッパーレル・モンタギュー
ラルフ・バートン・ペリー
ロイ・ウッド・セラーズ
クラレンス・アーヴィング・ルイス
ルドルフ・カルナップ
ヘルベルト・マルクーゼ
エーリッヒ・フロム
カール・ヘンペル
ネルソン・グッドマン
ウィラード・ファン・オーマン・クワイン
チャールズ・スティーヴンソン
ウィルフリド・セラーズ
ウィリアム・バレット
ジョン・ロールズ
ルース・バーカン・マーカス
トマス・クーン
ヒラリー・パトナム
ノーム・チョムスキー
リチャード・ローティ
ソール・クリプキ

*1:というかまあ、ぶっちゃけデイヴィッドじゃない方のルイスという程度の認識しかない

*2:アメリカ哲学史 一七二〇年から二〇〇〇年まで | 翻訳 | 新刊紹介 | Vol.39 | REPRE

*3:桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2で読んだボグダーノフについての説明とあまりにも似ていたのだけど関係は不明