伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』

ちくま新書でスタートした世界哲学史シリーズ
全8巻刊行予定のうちの第1巻で「(古代1)知恵から愛知へ」
自分も「哲学」といえば、プラトンに起源をもつ知的伝統という理解をしているので、哲学=西洋哲学という感覚が強く、どうしても西洋以外の哲学のことを思想と呼びたくなるわけだが、実際本書の第1章でもそのような風潮が明治以来あるという指摘がなされている。
一方、西洋以外の地域での類似の営みを、インド哲学なり中国哲学なりアフリカ哲学なり呼ぶ呼び方も広まりつつある。
というわけで「世界哲学史」なのだ、ということになる。
世界哲学というのが何なのかというのはとりあえずおいておいて、しかし、読んでみると、高校の頃の倫理を思い出す。実際、「倫理」という科目は哲学史の側面が結構あるわけだが、哲学という名前ではなかったからなのか、西洋哲学以外の思想にも十分ページを割いていたという印象がある。
とはいえ、メソポタミアとエジプトから始まる、というのは高校倫理でもなかったはずで、もちろんメソポタミアもエジプトも高校の世界史の方で習ってはいるけれど、哲学史という観点では見たことないので面白かった。


世界哲学史という観点でも、普通に全然知らない話だったという意味でも*1、第10章のギリシアとインドの交流が特に面白かった。
それ以外だと、4章の中国(荘子における「物化」)、5章のインド(アートマンの存在証明)、6章の初期ギリシア哲学(哲学の特徴とは何か)、9章のヘレニズム(ストア派エピクロス派の存在論や知覚論)が面白かった。



世界哲学史1 (ちくま新書)

世界哲学史1 (ちくま新書)

  • 発売日: 2020/01/07
  • メディア: 新書

序章 世界哲学史に向けて 納富信留
第1章 哲学の誕生をめぐって 納富信留
第2章 古代西アジアにおける世界と魂 柴田大輔
コラム1 人新世の哲学 篠原雅武
第3章 旧約聖書ユダヤ教における世界と魂 高井啓介
第4章 中国の諸子百家における世界と魂 中島隆博 
第5章 古代インドにおける世界と魂 赤松明彦
第6章 古代ギリシアの詩から哲学へ 松浦和也
コラム2 黒いアテナ論争 納富信留
第7章 ソクラテスギリシア文化 栗原裕次
第8章 プラトンアリストテレス 稲村一隆
コラム3 ギリシア科学 斎藤憲
第9章 ヘレニズムの哲学 萩原理
第10章 ギリシアとインドの出会いと交流 金澤修

第2章 古代西アジアにおける世界と魂 柴田大輔

メソポタミアとエジプトについて
哲学というか、世界観とか神や死後についてどう考えていたかとか
エジプトには、バーとカーという有名な奴があるけど、バーはプシュケーと訳されたらしい

第3章 旧約聖書ユダヤ教における世界と魂 高井啓介

第2章でもチラリと触れられていた、バビロニアからユダヤへの影響関係
ユダヤ教における「魂(ネフェシュ)」
ヘブライ語のネフェシュは、ギリシア語でプシュケー、ラテン語でアニマ、ドイツ語でゼーレ、英語でソウルと訳されている
ただ、魂とか(あるいはこれらの訳語でもそうかもしれない)、肉体から離れて自立しても存在できるものとイメージされるけど、ネフェシュは肉体と結びついていて、肉体が死ぬとネフェシュも死ぬ

第4章 中国の諸子百家における世界と魂 中島隆博

荘子荀子について、あと最後に仁について
荘子荀子の世界観について対比している
荘子における「物化」
胡蝶の夢。荘周なのか蝶なのかという奴だが、荘周と蝶は別というのがポイント。荘周である時は自分は荘周だと思って蝶だとは思っていないし、蝶である時は蝶であって荘周であるとは思っていない。それぞれの世界があってそれ自体は完全。ただ、それが変容することがある。物化。
荀子は、その世界観の変容を歴史的に捉える。
つまり、制度は変わりうるということ。著作の中で夷狄についての言及が多いが、それも制度を相対化するため。制度が変わると人も変わりうる。他の儒家からすると、荀子のそういうところが危険思想。

第5章 古代インドにおける世界と魂 赤松明彦

19世紀のドイツの学者、パウル・ドイッセンによるインド哲学の歴史の整理に従い、インド哲学について紹介したのち、インド哲学における世界と魂ということでアートマンについて
ドイッセンは、インド哲学ヴェーダ期とヴェーダ以降に大きく分け、その境界を前500年頃に置く。筆者によれば、これは現在でも有効な分け方
ヴェーダ期をさらに『リグ・ヴェーダ』の中に哲学的な思考が生まれてくる「インド哲学の第一期」、ウパニシャッド哲学の「インド哲学の第二期」にわける
そして、ヴェーダ以降、前500年以降に貨幣経済が発達しバラモン階級の力が相対的に弱くなる時期を「インド哲学の第三期」とする。叙事詩マハーバーラタ』や六派哲学。ただし、筆者は、六派哲学を第三期としてまとめてしまうのは、現在では無理のある扱いとしている。


アートマンは、日本では「我」と訳すのが一般的だが、欧米では「魂(ソウル、ゼーレなど)」と訳すのが一般的らしい
実際に「魂」の側面と「自己」の側面とがある、と。
例えば、知覚できないアートマンについて、自己同一性の基体としてその存在証明を行う議論等があるらしい。

第6章 古代ギリシアの詩から哲学へ 松浦和也

ソクラテス以前の哲学者について
哲学者とそれ以外とを分けるものは何なのか
アリストテレスは『形而上学』で「原理」をキーワードに初期の哲学者を整理しているが、ここではそれ以外の基準を探す
抽象的議論を行うことが哲学の特徴では? →そう考えると、パルメニデスは哲学の祖と言えそう
しかし、初期の哲学者と言われる人たちの中には、パルメニデスほど抽象的な議論をしていない者たちもいる


形而上学』では、哲学と違った形で究極の原理を探求した人たちとして、ヘシオドスなども挙げられている
「詩から哲学へ」とまとめられることもあるけれど、それは怪しい
(1)叙述の形式の変化ではない(パルメニデスらも詩の形式を使っている)
(2)哲学は、詩の内容を明快に表現し直したもの、ではない
(3)哲学は、神や精霊などに言及しなくなったもの、ではない


哲学者とされる者たちの他の共通点
数学や天文学の業績が少なくない
数学を学ぶためにエジプトに赴いていた初期ギリシア哲学者も多い
しかし、メソポタミアやエジプトの数学には「証明」がなかった


古代ギリシアでは、疑ってはならないものというのがなく、多様な主張が可能だった
ホメロスやヘシオドスは共通の文化的基盤だったが、疑ってはならない聖典ではなかった


「権威が不在の中、数学的思考を足掛かりとしつつ、基盤となるような土台を模索する活動」が哲学なのではないか、と。

第7章 ソクラテスギリシア文化 栗原裕次

公的世界における弁論と、私的世界における教育とに分かれていたギリシア世界で、セミパブリックな空間で哲学を行ったソクラテス


人は誰しも幸福でありたい。幸福になるために、自己のあり方を正しく知りたい。それを探求する過程で、善とは何かという真の知恵を探求する
自己の探求と知恵の普遍性とを往復するのが哲学

第8章 プラトンアリストテレス 稲村一隆

アリストテレスと学問
(先行研究を調べるとかやったのがアリストテレス

コラム3 ギリシア科学 斎藤憲

ギリシア科学(自然学)
パルメニデスを踏まえた上で自然現象を説明する試み
別の系譜としてのアレクサンドリア科学
エウクレイデスの『原論』など数学的な諸々
しかし、数学を使って自然全体を説明しようということはなかった
近代科学は、数学を第一原理として認めたことで成立(筆者はこれを「アテナイアレクサンドリアの融合」と形容する)

第9章 ヘレニズムの哲学 萩原理

ヘレニズムの哲学は、ストア派エピクロス派・懐疑派
ここではストア派エピクロス派についてが中心、懐疑派は最後のページで少し


ストア派
物体主義の存在論
自立的に存在するものを物体と捉えるので、神も魂も物体
人は、目の前にあるものから表象を受け取り、それに基づき判断する。目の前の杉の木から「コレハ杉だ」という表象を受け取り「杉みたいだな」と感じて「杉だ」と判断する。目の前の財布から「コレヲ盗メ」という表象を受け取り、判断して実際に盗んだり盗まなかったりする。
決定論の立場をとる。
決定論に対する、悪事を犯してもそれが決定されていたことならその人に責任はないのでは、という批判に対して、責任を負うことまであらかじめ決定されている、とこたえる
アパテイア


エピクロス
宇宙全体の中に世界が無数にある、と考える。身体や魂や世界は原始群でできている
人の意志はあらかじめ決定されているわけではない。
物体から剥がれ落ち飛んでくる影像(エイドローン)が目を通過することで、その物体が目に見える
アタラクシア

第10章 ギリシアとインドの出会いと交流 金澤修

ギリシアとインドの交流について
アレクサンドロス大王の一行の中には、懐疑派のピュロンもいた
そこでまず、仏教やジャイナ教といったインド思想と懐疑主義との間に影響関係はあったかを考察する
しかし、類似した部分はあるが、影響関係があったというのは難しいという結論


アショーカ王碑文」
インド、ネパール、アフガニスタンパキスタンの各地で見つかっており、様々な言語に翻訳されている
アフガニスタンではギリシア語碑文が発見されている
アショーカ王の仏教の教えを刻んだ碑文だが、このギリシア語訳には、その直訳ではなくて、翻訳者によって解釈されて書かれている部分がある。
仏教の殺生禁止に関わるところを、やはり輪廻思想を有しそれ故に肉食を禁じるピュタゴラス派の語彙を用いて表現することで、翻訳者がギリシアとインド双方の理解があることがわかるとか。


ミリンダ王の問い』
バクトリア周辺のギリシアミランダの、仏僧ナーガセーナとの対話篇
行為の主体や責任についての話と輪廻思想との問答がされており、筆者によれば、お互いに噛み合わないズレた応答になっているが、インドの思想をギリシアの立場から質疑することで、双方の一致と不一致を明らかにしている、ギリシア思想史とインド思想史の双方に属する作品と見ている。



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*1:まあどの章でも知らない話多いけど