伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』

4巻は、「中世2 個人の覚醒」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2

主に13世紀について
もっというと、トマス・アクィナスが主人公の巻と言ってよいと思う
2、3、5、6、7章がトマスを中心とした中世ヨーロッパ哲学について*1
4章はイスラームだが、古代ギリシア哲学のアラビア世界やイスラームでの受容についてであり、さらにイスラーム経由で、中世ヨーロッパはアリストテレスを再発見するので、他の章どの繋がりは密接
10章は、ユダヤにおける古代ギリシア哲学の受容について
アジア圏は、8章の朱子学と、9章の鎌倉仏教のみとなる。他の章同士の関連性が強いせいもあって、正直この2つの章が浮いているのは否めない。とはいえ、それは世界哲学史なる企画そのものがどうしても持ってしまう問題で、仕方ないといえば仕方ないし、今後の課題といえば今後の課題、なのだろう。


中世哲学については、昔、山内志朗『普遍論争』 - logical cypher scape2を読んで面白かったという記憶はあるが、結局その後特に勉強していなかったので、今回色々読めてとても面白かった。
そういう点で、世界なのにヨーロッパ偏重だという批判はありうるかもしれないが、個人的には非常に満足。ヨーロッパ中世だけで一冊でもいいくらいだったw (まあそういうわけにもいくまいが)


3、4、5、6、10が面白かった
特に、3章と6章

第1章 都市の発達と個人の覚醒 山内志朗
コラム1 ウィクリフ宗教改革 佐藤優
第2章 トマス・アクィナス托鉢修道会 山口雅広
コラム2 トマス・アクィナスの正義論 佐々木亘
第3章 西洋中世における存在と本質 本間裕之
第4章 アラビア哲学とイスラーム 小村優太
第5章 トマス情念論による伝統の理論化 松根伸治
コラム3 キリストの肢体 小池寿子
第6章 西洋中世の認識論 藤本 温
第7章 西洋中世哲学の総括としての唯名論 辻内宣博
コラム4 東方のキリスト教 秋山学
第8章 朱子学 垣内景子
第9章 鎌倉時代の仏教 蓑輪顕量
第10章 中世ユダヤ哲学 志田雅宏

はじめに 山内志朗

「世界哲学」なる括りをどう定めればいいのかの苦悩が現れているというか
個人的に、ここの一節、正直な感じが好き

日本の鎌倉仏教と西洋における托鉢修道会の活躍などは、影響関係などあるわけないが、単なる偶然の対応として片付けられない構造的な対応関係がある。いや、もちろん偶然かもしれない。

本書を読み終わっても、鎌倉仏教と托鉢修道会にどういう対応関係があるのかは、いまいちよく分からなかった

第1章 都市の発達と個人の覚醒 山内志朗

12世紀ルネサンスがあり、13世紀ヨーロッパ中世の盛期
大学、都市の発達
個人の救済が注目される
個体についての議論も

コラム1 ウィクリフ宗教改革 佐藤優

世界哲学史のシリーズが発表された際、執筆者一覧の中に佐藤優があり、首を傾げていた人を見かけたが、これだった
この本、基本的に13世紀ないしそれ以前の話が中心なんだけど、このコラムだけ内容がら15世紀なんだよな
ウィクリフとフス戦争の話

第2章 トマス・アクィナス托鉢修道会 山口雅広

トマス・アクィナスも所属していた托鉢修道会について(トマスはその中の1つ、ドミニコ会に属していた)


托鉢修道会は、徹底的な清貧と托鉢を旨とする
清貧自体は、これ以前の修道会でも謳われているのだが、徹底して実践する托鉢修道会は新奇なものであった
従来の修道会が農村で活動していたのに対し、都市を拠点とし、さらに説教のための学問研究を重視
このため、大学にも人を送りこみ、教育を受けるだけでなく教える立場にもなり、ドミニコ会パリ大学神学部の講座を2つ教員確保するに至る。しかし、これはそれまで大学の教授ポストを持っていた在俗聖職者たちとの軋轢を生む
で、論争が巻き起こるのだが、トマス・アクィナスもこの論争に参戦している、という話

コラム2 トマス・アクィナスの正義論 佐々木亘

トマスにとっての法は自然法
自然法を秩序づけるのが共同善
人間を共同善に秩序づける徳が正義

第3章 西洋中世における存在と本質 本間裕之

存在と本質について、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスウィリアム・オッカムの3人の考えを比較する。
3人それぞれ違うのだが、トマスとスコトゥスは存在と本質の区別が世界の側にあると考えるのに対して、オッカムは世界の側にその区別はなく人間の観念の中だけにあるものにすぎないとする(同じものなのだが、動詞的に示すか名詞的に示すかの違いだとオッカムはしている)
この違いは何に由来するのかといえば、トマスとスコトゥスが、アヴィセンナの本性の理論を継承しているから。
トマスとスコトゥスは、形而上学が扱う実在の世界と論理学や認識論が扱う知性の領域が対応すると考えており、それの架け橋となるのが本質であり、本質が両方の領域に跨るものであるという考えをアヴィセンナから受け継いでいる。
一方のオッカムは、そのような考えを受け入れておらず、論理学を形而上学から独立させる。


筆者によれば、本質というのは、本質がいかに個別者となるかという個体化の原理の問題や、人がどのように抽象概念を認識するのかという問題、そして普遍論争など、中世の哲学で論じられた様々な問題と関わりのある重要概念


ところで、この存在と本質の区別だが、この両者を区別するというのは、「存在がなくとも本質を理解することができる」ということを前提としている
オッカムの場合、存在しないものの本質は無
本書の中では全く言及がないが、本質と存在を区別するのは、マイノング主義っぽいなーと何となく思った


もひとつところで、この章の執筆者は、おそらく本シリーズで最年少かと思われる。92年生まれで博士課程在籍中

第4章 アラビア哲学とイスラーム 小村優太

アラビアもしくはイスラームへのギリシア哲学の伝播について
また、この章ではちょうどアヴィセンナの本質についても解説されている。


アラビアもしくはイスラーム、と述べたが、まずアッバース朝下でアリストテレスアラビア語へ翻訳される。ただ、この翻訳活動はアラブ人以外が多く、キリスト教徒やユダヤ教徒が従事していたらしい
一方、11世紀以降、イスラーム圏内でペルシア語やトルコ語で哲学が行われる。
アラビア哲学と呼ぶと後者が、イスラーム哲学と呼ぶと前者が取りこぼされる、というなかなか複雑な事情がある


当初、ギリシア哲学はイスラームにとって外来のものであり、特に神学と対立関係にあった。
9世紀、キンディーが哲学はイスラームと一致するものだと擁護。新プラトン主義をさらに一神教的にアレンジし、翻訳活動をすすめた
11世紀のアヴィセンナ(イブン・スィーナー)は、現在のウズベキスタンの生まれ*2で、やはり新プラトン主義の傾向のあるアリストテレス哲学の大成者。哲学のあらゆる分野を網羅した著作を手がける。
彼の本質論について、「馬性は馬性でしかない」というのがあり、これは「栗毛」とか「雄」とかだけでなく「ひとつの」「多数の」「外界に存在する」「頭の中に存在する」なども馬性にとっては属性である、とするものである
11〜12世紀のガザーリー。セルジュク朝の神学者で、哲学の批判者。
彼は、形而上学の20の命題について批判する本を出すのだが、面白いのは彼のこの本は、彼の思惑からすると逆説的なことに、イスラーム圏に哲学を広めてしまうことになる。
というのも、彼の著作はむしろ、ここまでならイスラームと矛盾しないというガイドラインとなり、逆にいえば、どこまでなら哲学を用いてもよい、ということも示すことになったのである。
そもそもガザーリー自身、哲学全てを敵視しているわけでなく、自然学や論理学についてはむしろ有用として受け入れていたという。

第5章 トマス情念論による伝統の理論化 松根伸治

情念論、というのは、今でいうところの感情/情動の哲学かな、という感じ


トマスは、神学大全の中で、情念を欲望的能力と気概的能力の大きく2つの分類の中で、さらに善悪への接近・後退で分類していく
例えば、愛は善に接近しようとする欲望的能力、大胆は悪に接近しようとする気概的能力などのように。
11種の情念を分類しており、これらを2つ1組にしたり(怒りだけは対となる情念がない)、これらが連鎖していく関係などを論じている。


トマスの情念論は、しかし単に情念を分類しようというものではなくて、これらが徳概念と結びついて、倫理学の基礎となるという構成になっている


ところで、魂には理性、意志(理性的欲求)、そして感覚的欲求=情念があるとされる。
トマス以後、主知主義主意主義との論争が起き、主意主義が主流となっていき、徳の座は全て意志と考えられるようになる。
一方、情念においても徳が働くと考えるトマスは少数派であったと述べられている

コラム3 キリストの肢体 小池寿子

トランシ像など、腐敗した遺体の像について

第6章 西洋中世の認識論 藤本 温

志向性について
志向性という言葉は、現代哲学でも主に心の特性を論じる際に使われるが、もとはブレンターノが中世哲学から持ってきた言葉だ、というのは知っていたが、じゃあ、中世でどのような論じられ方をされていたか、は知らなかった。
本章では、感覚認識と知性認識のそれぞれについて、トマス・アクィナスとロジャー・ベイコンの議論を取り上げ比較している。
なお、本章では、中世哲学における志向性は、インテンティオとカタカナで表記されている。


認識する、というのは、スペスキエスが伝達されることで起きる、と考えられる。
スペスキエスというのは形相のことで、認識論の文脈では、何故か形相とは呼ばずにスペスキエスと呼ぶらしい。
アリストテレスは感覚のことを「質料なしに形相を受け入れる」こととし、これを受け入れるのは人などだけでなく、空気や水といった媒体も含まれる。
トマスは、「この質料なしに」というのを「スペスキエスがインテンティオという様態において」と解釈する。
ベイコンは、スペスキエスとインテンティオを同義語としており、スペスキエスは「感覚され得ない形で」受け入れられると解釈する。
認識というのは、スペスキエスが媒体を伝わっていく、という理解で、その際にインテンティオという言葉が使われている。なので、必ずしも心の特性として使われている言葉ではないらしい。
光学の影響を受けており、光源が光を生む、のと同様に、対象が類似ないしインテンティオと生む、という考え方


なお、トマスやベイコンと違って、オッカムはそもそもスペスキエスを否定する、とか。


インテンティオは、アヴィセンナやファーラービーなどに影響され、アラビア語からの翻訳語
先に述べた光学も、イスラム圏からの影響が大きい
トマスもイスラーム思想や新プラトン主義からの影響を受けている、と。


この章、現代哲学における志向性概念と中世哲学史との関係も触れられており、セラーズやパトナムなどの名前もちらほら出てくる。


ところで、些細な話だが、現代においても中世においても、志向性は多義語のようだが、中世の用法の中には「意図」もあったらしい。
心の哲学で志向性の説明がなされる時、「意図」とは違う、と注意書きがされることがあるが、まあ意図という意味で使うこともあったんだな、と
(日本語だと分かりにくいが、志向性はintentionality、意図はintentionなので)

第7章 西洋中世哲学の総括としての唯名論 辻内宣博

13世紀の実在論から14世紀の唯名論
これの影響として「存在論と認識論の分離」「全体論的哲学から個体論的哲学への変化」があったとし、前者としてオッカムの認識論、後者としてビュリダンの社会共同体論がそれぞれ説明されている。

コラム4 東方のキリスト教 秋山学

秋山先生だ
自分の出身大学にいた先生なので、名前と顔は知っているのだが、ただ授業は受けたことはない。友人と先輩からはしばしば話を聞いていたが
ギリシア語やギリシア文学を担当していたような記憶があるので、哲学史の本で名前を見かけるとは思ってもいなかったが。

第8章 朱子学 垣内景子

タイトルにある通り、朱子学について

第9章 鎌倉時代の仏教 蓑輪顕量

タイトルにある通り、鎌倉仏教について
浄土宗などや禅宗の解説だが、従来からある顕密についても解説されている
仏教について用語がよく分からなくて、ちょっと難しかった

第10章 中世ユダヤ哲学 志田雅宏

ユダヤにおける、ギリシア哲学の受容について
イスラームにおけるそれとよく似ているところがあるように思えた。
なお、ユダヤ人も、イスラームで翻訳・受容されたギリシア哲学を受け取っている


まず、当初はユダヤにとってギリシア哲学はあくまでも外部のものであった
しかし、9世紀頃がら受容が始まり、12世紀、パレスチナのマイモニデスが中世ユダヤ哲学を確立させる。
アヴィセンナアリストテレス解釈に影響を受けており、理性をユダヤ教の信仰と結びつける。


もともとユダヤ哲学は、イスラーム圏内でアラビア語で行われていたが、のちにヘブライ語に翻訳され、西方、特にスペインへと中心地が移る
スペインでは、新プラトン主義が受け入れられ、これをさらに一神教的にアレンジされる。イブン・ガビロールは、「流出」を「創造」ととらえ、神の「意志」


哲学への批判も起きる
アラビア語圏では、ハレヴィがさらに「意志」を強調し、また啓示による秘儀を重視
ヨーロッパでは哲学を学ぶこと自体への反発も広がる
14世紀、ヘブライ語による哲学を行った、スペインのクレスカスは、アリストテレス主義を批判。無限の時間・空間を導入し、そこで神の創造が行われるとした。
クレスカスは、キリスト教へと改宗させる運動と対立しながら、一方でスコラ学からの影響を受けていたらしい。

sakstyle.hatenadiary.jp

*1:ところで、何でトマス・アクィナスって、フルネームじゃなくて略して呼ぶ時、アクィナスじゃなくてトマスなの?

*2:ウズベキスタンの人だとは全然知らなかったのでちょっと驚いた