伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史6』

6巻は「近代1 啓蒙と人間感情論」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』 - logical cypher scape2

世界哲学史シリーズもいよいよ近代へ突入。
メジャーな哲学者も多数登場し、哲学史としては馴染みのあるラインナップになってきた感もあるが、ニュートンの自然神学やアメリ独立運動のフランクリンやジェファーソンの思想など、やはりオーソドックスな哲学史ではなかなかこうはならないだろう章立てにはなっている。
非西洋では、イスラム、中国、日本がそれぞれ一章ずつあり、それぞれ独特の面白さがある。


サブタイトルにある通り、この巻のテーマは「啓蒙」と「感情」で、どの章も少なくともどちらか一方はテーマになっている。
主に18世紀を扱っている。まさに啓蒙思想の時代であり、ある意味、「理性」重視・偏重の時代にも思われがちだが、「感情」を重視する、あるいは理性と感情の双方的な関係を考える議論がなされていたことにも注目する。

第1章 啓蒙の光と影 伊藤邦武
コラム1 近代の懐疑論 久米暁
第2章 道徳感情論 柘植尚則
コラム2 時空をめぐる論争 松田毅
第3章 社会契約というロジック 西村正秀
コラム3 唯物論と観念論 戸田剛文
第4章 啓蒙から革命へ 王寺賢太
コラム4 世界市民という思想 三谷尚登
第5章 啓蒙と宗教 山口雅広
第6章 植民地独立思想 西川秀和
コラム5 フリーメイソン 橋爪大三郎
第7章 批判哲学の企て 長田蔵人
第8章 イスラーム啓蒙思想 岡崎弘樹
第9章 中国における感情の哲学 石井 剛
第10章 江戸時代の「情」の思想 高山大毅

第1章 啓蒙の光と影 伊藤邦武

第1章なので、本書全体の序論的位置付け
啓蒙思想を、スコットランドのとフランスのに分類するが、対立していたわけではなく共存もしていた例としてコンドルセが挙げられている。
理性を疑い感情を重視した代表例としてルソーとヒューム
理性か感情かどちらを重視するかといった対立が理論的なものというより、哲学者の気質によるものだ、とジェイムスが『プラグマティズム』の中で論じているらしく、ちょっと気になる

コラム1 近代の懐疑論 久米暁

第2章 道徳感情論 柘植尚則

ハチスン、ヒューム、スミスの道徳感情論の系譜
ハチスンは、道徳が感覚で捉えられるとした
ヒュームも、これを踏襲するが、ハチスンのように直接徳を感覚する能力を想定するのではなく、共感の作用から説明する
また、理性は行動をモチベートしない、情念が行動に結びつくという情念論も
スミスは、共感について、ヒュームが他の人の表出を観察することによってと考えていたのに対して、立場を交換することを想像することによってと考える。
なるほどと思ったのは、人間は快いことに共感したいし、不快なことには共感したくないので、金持ちや地位の高い者に共感しがちで、金持ちや地位の高い者を道徳的だと勘違いしてしまう、というスミスの論


感情とか情念とかとemotionとかsentimentとか訳語がどう対応してんのか、気になった

コラム2 時空をめぐる論争 松田毅

ニュートンライプニッツ

第3章 社会契約というロジック 西村正秀

ホッブズスピノザ、ロック、ヒュームの社会契約論が紹介されてる。
スピノザの社会契約論知らなかった。
前二者は、自然状態は戦争状態なので、理性によって社会契約に至るというもので、理性への信頼がある。
後二者は、自然状態は必ずしも戦争状態とは考えていない。
ホッブズスピノザは、個人が自然権を放棄して主権者に預ける、主権者は法的な制限を受けないという点で同じ。ホッブズは社会契約で生まれるのが絶対君主制と考えるのに対し、スピノザは共同体が主権者となる「民主制」を考えている
ルソーの一般意志論は、スピノザの民主制と同じ発想
ロックは、政体は選択されるもので、また主権者も制限を受けるとする。
また、ロックは、キリスト教を社会契約論の中に理論的に組み込んでいる

コラム3 唯物論と観念論 戸田剛文

第4章 啓蒙から革命へ 王寺賢太

いかに自律を実現するか
モンテスキュー、ルソー、ケネー、ディドロコンドルセロベスピエールが紹介される
ケネーって『経済表』でしか知らなかったけど、合理的専制として当時の中国の政体を評価してたらしい。
この流れの最後にロベスピエールいるの納得感あるけど、そういえばロベスピエールを政治思想という観点では全然よく知らなかった。
恐怖政治って、後からの評価を表す言葉だと思っていたのだけど、自称のようなものだったのか
モンテスキューは、政体の原理として、民主制は「徳」、専制は「恐れ」だとした。これに対してロベスピエールは、平時の民主制の原理は徳だが、革命時の民主制の原理は徳と恐怖である、とした。
主権は不可分であり、立法も行政も司法も主権者である人民が担うべきなので、これ全て人民の代表である救国委員会が行うということで、政治的自律を求める論理が専制的逸脱へつながった例として、ここでは論じられている
ルソーがイメージしていたのと同様、ロベスピエールも人民が無媒介に人民に現前する共和国のイメージを持っていたが、そのためには代表が無化されなければならず、まず救国委員会が排除されなければならなかったのだ、という結び、ちょっとエモい

コラム4 世界市民という思想 三谷尚登

ヌスバウム世界市民擁護論など

第5章 啓蒙と宗教 山口雅広

自然神学について
ニュートンの自然神学(理神論との類似と相違)
ライプニッツとの往復書簡
ニュートン主意主義的でライプニッツ主知主義的。
ニュートンの神は宇宙を「リフォーム」する(「時計の針を巻く」など、宇宙に介入してくる)のに対し、ライプニッツの神は創造以外は何もしない(最善の可能世界を選んでいるので、途中で介入する必要がない。なお、最善であるかどうか諸可能世界ですでに計算済みなので、神のすることは本当に少ない)
ヒュームとカント
いずれも自然神学批判をしているが、自然神学の余地が残されている。

第6章 植民地独立思想 西川秀和

ベンジャミンとフランクリン
ヨーロッパの啓蒙主義を受容し、アメリカの啓蒙思想
科学分野のベンジャミン
政治分野のフランクリン

第7章 批判哲学の企て 長田蔵人

カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』について
カントにとって啓蒙とは、自分の知性を用いることができること
批判哲学は、そのような知的自律を目指す。
理性は、理性によって自己批判が可能であり、それが理性の信頼性を支える
道徳について、カントはスコットランド啓蒙思想の影響を受けているが、感情や感覚は自己批判ができないので、やはり理性ということになる
あらゆる人間が尊厳を持つことを神抜きに証明しようとした


やはりカントは、ここまでの総まとめみたいな人だなと感じさせる章

第8章 イスラーム啓蒙思想 岡崎弘樹

アラブ圏で 「啓蒙」という言葉はあくまでも西欧のことを指す言葉であり、それほど広く用いられていたわけではなく、19〜20世紀初頭のアラブの思想は「ナフダ」(目覚め、復興)と呼ばれるとのこと
ナフダにはさらに第1世代から第3世代に分かれる
第1世代
ヨーロッパの概念(自由など)をアラブ・イスラム世界の伝統的な語彙に「置き換え」る
自分たちにもそういう概念はあるのだと主張
しかし、人民主権などには至らず限界も
第2世代
「置き換え」ではなく政治思想を論じる
イスラムの教えを理性によって検討する
第3世代
専制ヒジャブなどを、宗教ではなく慣習の問題として捉える。宗教から切り離して社会的な問題として改革する
1910年代以降、啓示への回帰やジハドと暴力を結びける傾向が出てきて、「啓蒙」の時代は終わる。しかし、1990年代から再び脚光を浴びている。

第9章 中国における感情の哲学 石井 剛

清代の儒学者、戴震による「感情の哲学」について
教条主義に陥り立場の弱い者を苦しめるようになった朱子学を批判し、『孟子』をベースにしつつ、そこに荀子の礼を組み込む
孟子は、性善説を唱えたが、しかし、悪というのは厳然としてあって、この悪をどう捉えるのかが儒学ではずっと問題だったよう

第10章 江戸時代の「情」の思想 高山大毅

「人情」理解論について
儒学において、『詩経』は悪についての内容もあり、これは色々な立場の人の心情を知るためにある、とされている。
支配階級が、他の立場の心情を知ることで役に立てる、と。
本居宣長の「もののあはれを知る」も実はこれと同型の論
さらに、当時の遊郭などにあった「粋」や「 通」という概念も、情(この場合、特に恋の情)を知ると人格者になるというもの
(忠臣蔵の登場人物がみな「通」だったら、諍いも事件も起きなかったという作品があったりするらしい。あと同じ趣向の作品で、賄賂を使って諍いを防ぐのが通、という話もあったりするとか)
18世紀の日本では、こういう「人情」理解論が広がっていた
ところが、19世紀になるとこれが一転。筆者が「振気論」という考えが広まる。過激な政治行動や熱烈な詩歌に、人は自ずと鼓舞される、という考え
人情理解論は、背景に身分社会がある。身分の違いがあり、考え方・感じ方が違う者の心情を推し量る、というもの。
振気論は、むしろ人はみな同じであり、自然と共感するというもの。江戸末期から明治近代にかけてのもの。
この中で直接言及されてないが、天誅とかのテロの思想っぽいな、と(戦後にも似た考えありそう)
最後に筆者は、惻隠、人情理解論、振気について、現代的な具体例を挙げ、これらが3つとも「共感」と呼ばれうるものだが、それぞれに性質が異なる点を指摘し、共感概念をこれらで分析できるのでは、という提案をしている。



sakstyle.hatenadiary.jp