山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【戦前昭和篇】』

山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2に引き続き、今度は戦前昭和篇
もともと日本思想史とか全然だったので、大正篇も知らないことが多くて勉強になったところではあるが、とはいえ、大正篇は、自分の従来持っていた日本史・世界史・哲学等の知識でもなんとなく概観は知っているものも多かった。
これに対して、戦前昭和の思想は、そもそも知らなかったようなものも多くて、より圧倒された感じがある。また、多様性というか、例えば右翼思想や軍国思想ないしそれら寄りの思想の中での幅というのは、あまり今まで意識したことがなかったので、面白かった。
国家改造を巡っては、右翼と左翼が入り乱れている感じもあるし。
また、左翼系でいうと、「社会科学」や「天皇制」がマルクス主義に由来する用語だというのに、どこかで聞いたような気もするのだけど、「なるほど、そうだったか」と改めて勉強になった。
また、大正から昭和初期にかけては、政友会と民政党の二大政党時代があるわけだが、それが崩壊してから戦後までの期間の政党に何があるのか、というのを(大政翼賛会を除いて)全く知らなかった。本書も思想史であって政治史ではないので、当時の政党史については書かれていないが、無産政党が少しずつ議席を獲得し始め、最終的に社会大衆党ができる、というのが分かった。


ちくま新書の昭和史関係では、以前に以下も読んでいる。
筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2
筒井康忠編『昭和史講義【戦前文化人篇】』 - logical cypher scape2

第1講 多元的国家論とギルド社会主義 織田健志
コラム1 柳宗悦民藝運動 土田眞紀
第2講 第二次日本共産党と福本イズム 立本紘之
コラム2 プロレタリア文化運動 立本紘之
第3講 講座派と労農派 黒川伊織
コラム3 民俗学と郷土研究 重信幸彦
第4講 恐慌と統制経済論 牧野邦昭
第5講 国家社会主義満洲事変 福家崇洋
第6講 転向 近藤俊太郎
コラム4 昭和の科学思想・技術論 金山浩司
第7講 農本主義の時代 藤原辰史
コラム5 生活綴方運動  須永哲思
第8講 昭和の日本主義 福間良明
コラム6 平泉澄と「皇国史観」 若井敏明
第9講 国体明徴論 昆野伸幸
コラム7 戦時期のキリスト教 赤江達也
第10講 政治的変革の夢―維新・革新・革命 植村和秀
第11講 自由主義 松井慎一郎
コラム8 戦前日本の毛沢東観 石川禎浩
第12講 反ファシズム人民戦線論 福家崇洋
コラム9 一国一党論 渡部亮
第13講 国家総動員論 森靖夫
コラム10 女性動員論 堀川祐里
第14講 戦時下のアジア解放論 米谷匡史
第15講 京都学派の哲学 藤田正勝
コラム11 日本浪曼派 岩本真一

第1講 多元的国家論とギルド社会主義 織田健志

1920年代、国家から社会へという傾向「社会の発見」
政治が国家だけでなく、労働組合や協同組合など中間集団へと還元されていき、20世紀初頭の英米で「多元的国家論」が登場
日本では、中島重がこれを受容
国家もまた「団体」
第一次大戦前後のイギリスで登場した「ギルド社会主義
労働組合を通じた資本主義の克服を説くが、国家の調整機能を重視する点でサンディカリズムとも異なる
中島のほか、室伏高信、土田杏村、長谷川如是閑らが紹介
ただし、イギリスでは1923年頃より衰退し、日本でもその議論は姿を消し、マルクス主義復権することになる
この頃、「社会科学」という言葉が使われるようになるが、マルクス主義とほぼ同義

コラム1 柳宗悦民藝運動 土田眞紀

第2講 第二次日本共産党と福本イズム 立本紘之

1924年に論壇デビューした理論家・福本和夫
ドイツの知を背景に持っていたことと、その「分離=結合」論により、知識人から人気となる
コミンテルンの「27年テーゼ」により、福本イズムは否定されるが、本講では、このテーゼの受容の背景に、福本イズム隆盛期にロシアの知を権威とする構造があったからだと指摘する
1928年の衆議院議員選挙で、共産党は合法無産政党である労働農民党から党員を立候補させて、公然化させる。共産党員は落選するも、無産政党議席獲得に成功。
しかし、このことが治安当局により警戒され、一斉検挙が行われ、共産党の運動は断絶する。
福本は、山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2で名前が出てくるし、そうでなくても、ちらちら名前を見かけることはあるがよく知らなかったので、概要が知れてよかった。

コラム2 プロレタリア文化運動 立本紘之

1921年『種蒔く人』創刊から1934年ころまでの運動
1928年「日本無産者芸術連盟(ナップ)」結成。ナップの機関誌には「蟹工船」などが掲載。
共産党が弾圧により見えない存在となる一方、合法組織ナップが共産党のスピーカー役を果たす

第3講 講座派と労農派 黒川伊織

1920年代半ば~1930年代半ばのマルクス主義社会科学のグループで
『日本資本主義発達史講座』に拠ったグループが「講座派」
雑誌『労農』に拠ったグループが「労農派」
前者は戦前・戦後の共産党
後者は戦前の無産政党左派・戦後の社会党の理論的根拠をそれぞれ担った
もともと、両派ともに、福本主義にも社会民衆党社会民主主義にも与さなかった山川均の影響下
日本の資本主義が一体どの段階にあるのか、ということで理論的に対立
明治維新ブルジョワ革命であり、重工業の発展などを重視し日本は資本主義国となったと捉えるのが、猪俣ら労農派
一方、明治維新は不十分な革命であり、地主と小作農の関係を重く見て、日本はいまだ封建国家であると捉えるのが、野呂ら講座派
コミンテルンも、27年テーゼで日本は中進国(ブルジョワ革命とプロレタリア革命の両方が必要)と位置づけ、さらに32年テーゼでは日本の権力体系が「絶対主義的天皇制」「地主的土地所有」「独占資本主義」からなるとした。
ここで「天皇制」という言葉が出てきたが、この用語は共産党が生み出した術語だった。
実はここまで共産党天皇制を特に敵対視していなかったが、コミンテルンが、ここで天皇制を持ち出したのは、日本のソ連侵攻を警戒したため。また、日本国内の共産党員も、治安維持法により(つまり、天皇中心の国体を守ることを理由に)検挙されるので、次第に天皇制への敵意を持つようになっていた、と。
一方、労農派は、天皇制の日本的独自性を否定した(既に日本は立憲主義国家に移行しているという認識)。
1930年代後半にかけて、論争の当事者はみな検挙される(労農派は非共産党系だが、治安維持法の拡大解釈によって検挙された)
講座派と労農派の理論的対立が、現実社会に影響を与えるのは戦後になってから。


講座派と労農派、あるいは日本資本主義論争という言葉自体は知っていたが、詳しくは知らなかったので勉強になった。

コラム3 民俗学と郷土研究 重信幸彦

柳田民俗学が成立しはじめた頃、地方でも郷土研究が盛んになりつつあった。
柳田民俗学があって、それが地方で展開されたようにも見えるが、地方側から見ると、柳田のこと「も」受容していただけで柳田一辺倒ではなかったという指摘

第4講 恐慌と統制経済論 牧野邦昭

経済自由主義において、国際的な経済活動を担保するものは金本位制だった。
日本も日清戦争金本位制へ移行するが、第一次世界大戦の際、世界各国で一時的に金本位制が停止される。多くの国は1920年代半ばまでに金本位制に復帰した。
1920年代の日本は、事後的に見れば成長率が高い方であったが、当時は国内的に不況の認識が強く、また1923年の関東大震災、続く1927年の昭和金融恐慌により、金本位制への復帰が遅れる
為替安定のため、金本位制への復帰(金解禁)が求められ、1929年に発足した立憲民政党の浜口内閣(および井上蔵相)は金解禁を公約とし、金解禁のために緊縮財政を進める。
金解禁については、元の平価で解禁するか、切り下げて解禁するかで議論があったが、いずれの立場でも、産業合理化・財界の整理の認識は共有されていた。企業統制、企業の組織化、科学的管理法、規格の統一などがすすめられていく。
しかし、満州事変勃発およびイギリスの金本位制離脱により、日本も再度金本位制を離脱するのではという見通しが高まり、実際、1931年、政友会の犬養内閣と高橋是清蔵相により金輸出停止。その後、高橋財政により景気回復するが、農村は不景気が続き、国家改造運動の機運が高まる。
満州事変以降、軍部が「国防国家」を唱え、経済政策への介入をするようになる。陸軍がパンフレットを発表すると賛否両論が起きたが、無産政党社会大衆党はこれに強く賛成した
1935年、内閣調査局設置、1937年には資源局と統合し企画院へと改組。軍事費を中心とした財政拡大により景気は過熱し、経済統制が必要となる。企画院に集った革新官僚が、経済新体制を主張するようになる。
経済自由主義に基づいた浜口内閣の政策が、結果的に経済統制への道を開いた、とまとめられている。

第5講 国家社会主義満洲事変 福家崇洋

国家社会主義」自体は明治に初出があり、日露戦争頃に政党も作られるがこれは弾圧され潰えている
ここで論じられているのは、1910年代末、高畠素之による国家社会主義である。
高畠は、マルクス資本論』を日本で初めて全訳した社会主義者
社会進化論に立脚し、国家の社会統制機能を重視。マルクス主義の、国家は階級廃絶後に死滅するという考え方を批判した。また、Massの訳語としての大衆概念に着目。消費者という側面から大衆による社会変革を目指した。一方、労働組合運動など無産階級の団結に懐疑的で、関東大震災の際の自警団活動に「愛国心」を見た高畠は、大衆は国家による統制を望んでいるという考えを深めた。
高畠は1928年に亡くなるが、国家社会主義は、1920年代後半から1930年代初頭にかけて、特に満州事変以降、盛り上がる。
一つには、無産政党議席獲得のため、国家社会主義を標榜し始めたこと
もう一つは、北、大川、満川の国家改造運動との接近で、大川らの思惑により、国家社会主義政党が成立する
国家社会主義は、左派からはファシズムと批判された。
そして実際、高畠やその弟子である石川は、自分たちに近い思想としてイタリア・ファシズムやナチズムを論じてもいた(ただし、高畠も石川も、ファシズムやナチズムは後進の思想ないし過渡期の思想であり、いずれ国家社会主義にいたると考えていた)
一方、1930年代、国家社会主義内部で「日本主義」への移行が起こり、国家社会主義という思想自体は勢いを失っていった、と。

第6講 転向 近藤俊太郎

治安維持法の1928年の改正で結社に加入していなくても処罰が可能になり、検挙者が急増
ただし、検挙数と起訴数の間に大きな隔たりがあって、それは処罰よりも拘束が重視されたことにある(最高刑は死刑だったが、治安維持法違反による死刑判決も出ていない)
長期間の拘留が思想犯を消耗させた
共産党幹部の転向において、平田勲という検事が大きな役割を果たしていた
大量転向への転機となったのは、佐野学・鍋山貞親の転向
天皇制廃止を誤謬とし、コミンテルンの指示から離れつつ、日本、朝鮮、台湾、満州、中国を含んだ巨大な社会主義国家を目指す
佐野の転向の背景に仏教からの影響がある
1936年、思想犯保護観察法が成立し、転向の基準として、単にマルクス主義思想や運動を放棄するだけでなく、日本精神を理解することという条件が加わった
本講は、しめくくりとして、この日本精神の理解というのは、何も思想犯に限った話ではないとして、転向を日本社会全体に向けた教化政策の一部と位置づける。

コラム4 昭和の科学思想・技術論 金山浩司

技術論としてはマルクス主義由来のそれがあるが、ここでは、同時並行的に日本主義的な科学思想があったことを指摘している。
それは科学する主体の側に日本精神を置くというもの。
転向とのかかわりも言及されている

第7講 農本主義の時代 藤原辰史

農本主義:農業や農村の価値を重視し、都市や工業を批判する思想
丸山真男が「日本ファシズムの特質の一つ」として批判した
1930年代の日本で影響力を持った。
横井時敬
農本主義という言葉を作った。この人は1927(昭和2)年に亡くなっている。
室伏高信
→当時人気の思想家で農村回帰論を訴える。農学に通じていた横井と違って、抽象的に「土」の価値を訴えるだけだが、転向したマルクス主義者たちに影響を与えた可能性。
橘孝三郎
→1930年代に最も政治的に影響を与えた農本主義者。井上日召と結びつく。資本主義を乗り越えるという点でマルクス主義と問題意識を共有しつつ、機械を重視するマルクス主義を近代を乗り越えられていないと批判。天皇崇拝による精神論とも併存。
権藤成卿
アジア主義の系譜。「社稷」概念を論じ、資本主義・産業社会を批判。五・一五や二・二六の青年将校たちの思想的背景ともなった
農業経済学会
→1925年創設。満州移民に関わった官僚や研究者が所属。また、柳田国男も発起人の一人で民俗学的な研究とも関わった

コラム5 生活綴方運動  須永哲思

昭和初期から隆盛し、明治期の作文教育を批判した「随意選題」論や、『赤い鳥』との影響関係の中で形成された運動
当時の「国語」は「読み方」「書き方」「綴り方」の三領域であったが、「綴り方」には国定教科書が存在しなかったがことが背景にある

第8講 昭和の日本主義 福間良明

クーデターなどの行動ではなく、あくまで言論活動をしていた日本主義者について
美濃部達吉などの東京帝国大学教授(特に法学部)への言論上の攻撃を行った。
護憲的で、国家改造運動や統制経済、新体制運動とも相いれなかった
最終的には、日中戦争の長期化を批判して、検挙されるようになる
帝大教授を攻撃していて一見反学歴エリートのように見えるが、実際には彼らも正学歴エリート

コラム6 平泉澄と「皇国史観」 若井敏明

皇国史観を唱えた歴史学者平泉澄について
現在でも、卓越した中世史家としての評価は高いが、皇国史観を唱えて以降は、専門外のことを論ずるようになった

第9講 国体明徴論 昆野伸幸

大正時代の天皇機関説論争は、山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2で触れられた通りだが、美濃部説は通説となっていった。美濃部説は、政党政治の理論的根拠を提供するものだったから
しかし、国家改造主義者は美濃部説を攻撃し続け、1934年頃から議会での機関説攻撃が活発化
国体明徴運動が始まる
国体とは何かという政府声明が出たり、それに基づき、文部省が大学の授業を統制したりした他、当時、行われていた楠木正成の顕彰事業とも関連して、様々な領域に国体論が浸透した
例えば、生長の会などの新宗教など
1937年、文部省から『国体の本義』刊行
天皇機関説を否定し、天皇主体説をとり、天皇親政を憲法の根本原則とし、法は国体の表現だとした
『国体の本義』はまた一方で、政府が国体明徴運動を鎮めようとする目論見であった。国体とは何かを論じるのが盛り上がるというのは、現状の秩序を維持したい側には必ずしも面白いものではないから。
で、『国体の本義』は、色々な立場から批判されることになる

コラム7 戦時期のキリスト教 赤江達也

第10講 政治的変革の夢―維新・革新・革命 植村和秀

北一輝の弟とか石原莞爾とかの話

第11講 自由主義 松井慎一郎

自由主義者河合栄治郎の思想について
個人の理想は「人格の完成」にあると謳う哲学から、「社会は個人の人格の完成のためにそれを阻害するものを除くべきである」という社会思想まで、体系的な思想を作りあげようとした。
本講では、戦前において、河合のほか、石橋湛山清沢洌など反戦的な自由主義者はいたが、何故戦争を止められなかったのか、という問いを立てている。
河合の自由主義哲学には、理想主義哲学が背景にあるが、それはさらに新渡戸稲造や内田鑑三のキリスト教思想からの影響を受けている。さらに筆者は、石橋など他の自由主義者にも、札幌農学校クラークの教え子からの影響があることを指摘している。
また、河合は自らを「第三期の自由主義」と位置づける。第一期は自由放任主義、第二期は社会改良主義で、第三期は社会主義である。ただし、革命ではなく議会を通じた漸進的な体制変化を考える社会主義であり、現実的には社会改良主義の立場に近い。
河合は、第一次大戦後の欧州を訪れその焼け跡を見ており、次の戦争がより悲惨な結果になるだろうと考え、国際連盟がより実際的な効力を発揮するような改良案を提案していた。
ただ、自由主義は、民族の独立も主張しており、これは独立戦争は肯定している。
自由主義の中にはナショナリズムがあり、河合や石橋らは、太平洋戦争勃発後、こうした戦争に対して肯定的な見解も書くようになっている。
筆者は、しかし、河合の自由主義については、体系化を希求するあまりに、似た立場の論者との共闘などを拒んだところを問題視しており、悪い意味でアカデミズム的で大衆に影響を与えなかったことが、戦争を止められなかった理由だろうと論じている。

コラム8 戦前日本の毛沢東観 石川禎浩

毛沢東がどういう人となりをしているのか、戦前日本や、本国中国ですらよく知られていなかったのだが、そんな中、どのように紹介されていたか。

第12講 反ファシズム人民戦線論 福家崇洋

世界的に「反ファシズム人民戦線」運動があったが、それに対して日本ではどのような動きがあったか。
世界的には、コミンテルンの方針転換(社会民主主義勢力との共闘)と、フランスの作家たち(ロマン・ロランら)の動きの2つがあった。
これらは、海外にいた共産党員(野坂参三)や京都で発刊された『世界文化』や『土曜日』などの雑誌・新聞により、日本国内にも伝えられる。
世界的には、反ファシズム人民戦線は、共産党が中心になって組織されたが、当時の日本では既に共産党が壊滅しており、代わりに、反ファシズムを掲げる社会主義者自由主義者が広く集った。
しかし、当時の代表的な無産政党である社会大衆党は、反ファッショを謳いつつも人民戦線には批判的で、未組織大衆へアプローチして選挙で票を得た。また、社大党は戦時体制へ参画していく
人民戦線論者は検挙され、日本の人民戦線運動は成り立たなくなる
人民戦線運動が続いたのは中国で、中国では日本人捕虜の再教育に野坂参三ら日本の共産主義者が加わった。

コラム9 一国一党論 渡部亮

ナチスの成功に影響され、一党体制による強力な指導力の確立を目指す論が一国一党論
議会制を定める憲法に反しないよう、独裁ではなくあくまでも党による政治を目指す。
左右両翼から展開され、1940年には東方会や社会大衆党は自主的に解党した。
結果として、大政翼賛会ができるが、しかしこれは、また別の右翼から、翼賛会は事実上の「幕府」であって天皇親政を定めた憲法に反すると批判され、形骸化する。
筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2にもあった)

第13講 国家総動員論 森靖夫

従来、「国家総動員」というと戦前の軍国主義的な政策と捉えられてきたが、近年、そうではない観点から捉え直されており、本講はそれについて紹介している。
国家総動員という考え方は、第一次世界大戦から世界各国に広まり、アメリカやイギリスといった民主国でも取り入れられていたし、日本の国家総動員英米を参考にしていた、と。
民間でも兵器の生産をすることができるようにするというもの。平時には産業振興や資源調査を行い、むしろ軍事費を抑制するもので、また、強制的に行うものではなく国民の自発的な行動により成功するものであって、むしろ民主政と親和性のあるものと考えられた。
産業や資源を内閣総理大臣のもと一元的にコントロールする政策なので、軍に対してはシビリアンコントロールとして働く面をもっており、政党政治時代に進められた総動員政策に対して、軍はむしろ反発する側でもあった。

コラム10 女性動員論 堀川祐里

貧困により働く必要のある女性は既に働いていたので、戦時中は、そうではない女性の動員が必要となった。そうした女性のうち未婚女性を対象としたのが女性挺身隊。

第14講 戦時下のアジア解放論 米谷匡史

もともとは、明治から民間の右翼の間にあった「アジア主義」だが、長らく国策にはなっていなかった。
まずは、満州国において国策となり、日中戦争以降、日本でも国策化していく。
満州の「五族協和」論、日中戦争期の「東亜新秩序」、アジア・太平洋戦争期の「大東亜共栄圏」論へと変化していく。
また、実は、左翼側にもアジア主義があり、本講はむしろ左翼側がいかにこのアジア主義にのっかっていったのかを見ていく。

第15講 京都学派の哲学 藤田正勝

京都学派は、批判的に言及されることが多いが、現代からみての可能性を論じてみようという趣旨
内部での相互交流・相互批判が盛んであったことを特徴としてあげている。
例えば、西田と田辺は師弟関係にあるが、田辺側から西田を批判する論文を書いて、西田もそれに応答するというような関係にあった、と。
また、三木清や戸坂潤がマルクス主義に関心をもっていたことから、西田も現実世界・社会への関心を示し、また、下村寅太郎ライプニッツ研究や数理哲学にも影響を受けていた、と。


京都学派については、本講と同じ著者が筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2にも書いてた。

コラム11 日本浪曼派 岩本真一

橋川文三曰く、日本浪曼派=保田與重郎なので、このコラムは主に保田の思想を取り上げている。
保田の思想=近代否定の思想。
ファシズムもまた近代否定の思想であり、日本浪曼派がファシズムと接近したのはその意味で当然であった、と。
保田の近代否定がはっきり現れている「ヱルテルは何故死んだか」の再刊に見られるように、この思想は戦後にも続いていると指摘して終わっている。