『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』

海外文学読むぞ期間実施中。いよいよ「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」へ突入
とりあえず短編アンソロジーから読む。
この「短編コレクション」は1と2があり、1は南北アメリカ、アジア、アフリカの作家、2はヨーロッパの作家から作品が採られている。
1の方が、名前を知ってる作家が多く、より気になったので1をチョイス。2は今のところスルーの方向で。
面白かったのは、コルタサル「南部高速道路」張愛玲「色、戒」金達寿「朴達の裁判」トニ・モリスン「レシタティフ――叙唱」マクラウド「冬の犬」
面白いというのとはちょっと違うのだが、カナファーニー「ラムレの証言」目取真俊「面影と連れて」も特筆すべき作品。

南部高速道路 フリオ・コルタサル 木村榮一

日曜日、パリに向かう高速道路で渋滞が起きる、というよくある事態から物語は始まるが、渋滞がいつまでもいつまでも解消されない、という奇妙な状況へと突入していく。
夏に起きた渋滞が冬になってもまだ解消されないくらい。
たまたま、近くで停まった者同士でグループが形成され、互いに気遣ったり、あるいは他のグループと食料や水の交渉を行うようになっていく。
亡くなってしまう人がでてきたり、その一方で、(長期の渋滞の中で親しくなって)妊娠が分かる人もいる。
しかし、登場人物たちの名前は書かれておらず、車種(ドーフィヌとかシムカとか)または職業名(技師とか農夫とか)で表記されている。
そして、ついに渋滞が解消された時、車列はばらばらに進んでいき、生活をともにしてきた者たちのグループは瞬く間に霧消していくのだった。
なお、コルタサルはアルゼンチンの作家だが、1914年ブリュッセル生まれ、1918年にアルゼンチンへ帰国し、以降ブエノスアイレスで育つが、1951年にパリへ留学し、そのままパリに居住し、1984年にパリで亡くなっている。ブエノスアイレス時代から小説を書いているが、それでも主な作品はパリ時代に書いているようだ。この作品も1964年に書かれたもの。
コルタサルは、ラテンアメリカの作家として紹介されていて、本書でもラテンアメリカ枠(?)だと思うのだが、読んでみたら、作品の舞台はパリだったので最初ちょっと驚いた。

波との生活 オクタビオ・パス 野谷文昭

海で出会った波と同棲することになった男の話
汽車の水タンクに入れて連れていく
部屋に海のものを色々置いてあげたんだけど、魚に嫉妬したり
しかし、冬になるにつれて関係が悪くなる。最後、氷の像に
オクタビオ・パスはメキシコの作家(1914~1998)。小説家ではなく詩人らしい。

白痴が先 バーナード・マラマッド 柴田元幸

自分の死期を悟った男が、白痴の息子を叔父のいるカリフォルニア行きの電車に乗せようと、金策に走る一夜を描く
なんか、男の方は死神のような奴につきまとわれている
老いたラビのところに赴くシーンもあったりして、ユダヤ人の話なんだなということが分かる。
バーナード・マラマッドは、ユダヤ系のアメリカ合衆国の作家(1914~1986)

タルパ フアン・ルルフォ 杉山晃

病苦にさいなまれる男を、妻と弟が、タルパの聖女のもとへと連れていくも、タルパで亡くなってしまう話。
この弟視点で、タルパから帰ってきたところから始まって回想形式で進む。
この妻と弟は関係を持っていて、タルパ行き自体は夫自身が望んだことではあったが、2人は半ば無理矢理タルパへと連れていき、その途上で死んでしまうだろうことを予期していた。
しかし、実際に死んでしまうと、妻の方は後悔に苛まれて、弟との関係もなくなる。
フアン・ルルフォは、メキシコの作家・小説家(1917~1986)
小説は、短編集『燃える平原』と長編『ペドロ・パラモ』の2冊のみ。その後のインタビューでは「何を書いても『ペドロ・パラモ』になってしまう」と言っていたとか。

色、戒 張愛玲 垂水千恵訳

第二次大戦中、日本占領下の上海が舞台
佳芝(チアチー)という女子大生が、名前と身分を騙って、易(イー)という男に近付く。
易に色仕掛けで接近し、佳芝の仲間が暗殺するという計画を立てていたが、最後の最後に佳芝が易を助ける。
易は日本側のスパイ。
佳芝はもともと大学で演劇をしていたが、その演劇仲間が易への色仕掛け計画を発案し、そこに本職の特務ものっかった。
のちに『ラスト・コーション』というタイトルで映画化された作品らしいが、物語の冒頭と結末、易夫人が他のご婦人たちと雀卓を囲んで宝石や美食について自慢話をしあうシーンだったり、そこからなんとか抜け出した2人が(暗殺実行予定地点の)小さな宝石店に訪れ2人で宝石を見ているシーンだったり、確かに映像的なシーンが多く、とてもエンターテインメント感が強い。
それでいて、池澤夏樹のコメントにある通り、短編としてまとめていることで、ある意味ではかなりあっさりとした終わりというか、ばっさりと色々切られているので、余韻がある。
(実際にあった事件をもとにしているらしい)
張愛玲は、1920年に上海で生まれた中国の作家。香港や上海で作家活動をしていたが、1955年にアメリカへ移住、1995年にLAで死去。曽祖父が李鴻章

肉の家 ユースフ・イドリース 奴田原睦明訳

後家と3人の娘がいる家。後家といっても35才と若く、娘は20才から16才と年頃なのだが、器量がよいわけでもなく、父親もいない娘たちに結婚相手は現れない。
彼女らが唯一関わりのある男性は、全盲クルアーン読みだけである。後家はこの男と再婚することになるのだが、ある時から、娘たちがその男が盲であることを利用して関係を持つようになる。
宗教的タブー(妻以外との姦淫)を犯していることに気付きつつも、結婚指輪をしているから自分は妻以外とはしていないのだ、と男の方は思うようにしている。
ユースフ・イドリースは、エジプトの作家(1927~1991)。反王政・反英闘争をしていた。

小さな黒い箱 P・K・ディック 浅倉久志

タイトルの「小さな黒い箱」は、マーサという宗教家と感覚を共有する共感ボックスのこと。
当局の宗教弾圧とそれから逃れようとする信者についての物語で、ディックはこの短編をもとに『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を書いたとのこと。
テレパスが出てきたり、当局がマーサのことを宇宙人ではないかと疑っていたりというあたりにSF要素がある。マーサ教への対応について、米ソが協力していたりする。
ストーリー自体はシンプルでわかりやすい。
ディックはアメリカ合衆国の作家(1928~1982)

呪い卵 チヌア・アチェベ 管啓次郎

天然痘によって活気の失われた市場
主人公は、許嫁と会った夜の帰りに卵を割ってしまう
チヌア・アチェベは、1930年生まれのナイジェリアの小説家

朴達の裁判 金達寿

池澤夏樹が、これは短めの長篇小説と評していて、おそらく、本書収録作品の中でページ数が最も長いと思われる作品。
物語の舞台は、朝鮮戦争直後の韓国(南朝鮮)で、朴達という男が釈放されて出所してくるところから始まる。
さて、池澤夏樹が冒頭で、左翼の文学は硬いものが多いけどこれはコミカル、みたいな内容のことをコメントしているのだけど、朴達が一体どういう経歴の男なのかというのを語り出すあたりから、一気に面白くなっていく。
これ、語り手の存在が前面に出てきている語りで、そのあたりも含めてコミカルな感じが出てくる。
で、朴達というのは学のない小作農なのだが、軽犯罪で捕まった時に、拘置所政治犯・思想犯でごった返しになっており、彼らに色々なことを学ぶようになる(そもそもの文字の読み書きから始まって、歴史や共産主義についてなどまで)。朴達は、以降、出所と逮捕を頻繁に繰り返すようになる。政治犯たちに習ったことを街角で叫べばすぐに逮捕されるし、また、朴達は拷問をうけてもこたえない体質で、いくらムチでぶたれても痛がる様子がなく、「へへっ、えらいすんません、もうやりません」と「転向」してまた出てくるのである。
官憲側からも、政治犯側からも、こいつ一体なんなんだと思われながらも、彼は彼で色々な考えを持って行動するようになる(政治犯からすれば、刑務所の中で抵抗するのが彼らの闘争のあり方だろうが、朴達は自分みたいなのは外で色々やるのがいいだろうと考えている)。
朴達のところは、第二次大戦が終わって日本が引き揚げていった後、一時的に人民委員会というのができて、すぐに米軍占領下になり、朝鮮戦争の際にはまた一時的に北に占領され、米軍の参戦とともにまた米軍占領下になったというところで、朴達は、たびたび、アメリカのみなさんは帰ってくださいみたいな内容のビラを貼ったりしている。
物語としては、再び出所してきた朴達が、インフレにあえぐ労働者たちとストを決行するというのが中心になる。なお、この町の人はほとんどが米軍基地で働いているので、その米軍基地で働く労働者による組合を結成し、組合を認めさせるためにストに入る。
朴達の存在にムキーっとなっている検察と、彼からの追求と拷問を飄々といなす朴達。朴達に協力する彼の妻。そして、町の人々が朴達の裁判へと傍聴へいき静寂を保ったままプレッシャーをかけるクライマックスシーンへとつながっていく。
どちらかといえば北寄りなのでそこに引っかかりを覚える人もいるかもしれないが、南北統一を素朴に望む庶民的な思いが主たるところだし、「えへへっ」と笑いながら飄々と「転向」し、覚えた文字を書くのが楽しくてたまらず下手くそな手書きで何枚もビラを書く朴達の姿は、上からの思想によるものというより、下からの庶民的な生活に根付いているもので、そのユーモラスな描かれ方や、語り口とあわせて、どこか民話っぽい雰囲気すらある。
金達寿は、1920年南朝鮮に生まれ、1930年に日本へ渡ってきた在日朝鮮人作家(1997年没)である。
なお、日本語で書かれた作品である。

夜の海の旅 ジョン・バース 志村正雄訳

冒頭の池澤夏樹コメントで、本作は「僕」や「僕ら」の正体が明かされないが、すぐに分かるのでここでも明かさないことにしよう、ということを書いている。
実際、読むとすぐに正体が分かる。池澤は伏せているが、このブログはネタバレ配慮をあまりしていないので書いてしまうと、精子の擬人化なのである。
で、自分たちは一体何で泳いでいるのだろうというのを、色々考えたり考えなかったりしている話
ジョン・バースは、1930年生まれのアメリカ合衆国の作家。

ジョーカー最大の勝利 ドナルド・バーセルミ 志村正雄訳

バットマンのパロディ
正直、バットマンが分からないので、この作品の面白さがどこにあるかよく分からず。
ドナルド・バーセルミアメリカ合衆国の作家(1931~1989)

レシタティフ――叙唱 トニ・モリスン 篠森ゆりこ訳

子どもの頃の一時期を児童施設の同室で過ごした2人の女性が、人生の中で何度か再会をするという話。
語り手(「わたし」)であるトワイラは母親が夜の仕事をしているか何かで、もうひとりのロバータは母親が病気のためそれぞれ施設に預けられている。施設の他の子はみな孤児なので、2人は施設の中でちょっと浮いている。また、年上の子たちの柄が悪くて、施設で働いている唖の職員をいじめたりしている。ロバータは先に施設を出ていくことになり、2人は分かれることになる。
トワイラがハイウェイのレストランで働いていた頃、客として現れたロバータと再会する。そのときのロバータは、これからジミヘンと会ってくるのだと言ってトワイラとの再会をあまり喜んでいない。
その後、また10年後くらいに再会したりするのだが、トワイラが貧しい生活を続けているのに対して、ロバータ上昇婚を成し遂げたりしているのだが、人種政策をめぐって2人の立場は分かれていく。
トワイラとロバータは人種が違うとは書かれているが、どちらが白人でどちらが黒人かは明示されていない。そしてもう1人、施設で働いていた唖の職員についても、トワイラとロバータの記憶は食い違っていく。彼女をいじめていたのは誰だったのか、そして彼女の人種は何だったのか……。
トニ・モリスンは、1931年生まれのアメリカ合衆国の小説家。1993年、アメリカの黒人作家としては初のノーベル賞受賞。

サン・フランシスコYMCA讃歌 リチャード・ブローティガン 藤本和子

詩を好む男が、自分の家の水道周りの配管を詩に置き換えた、というショートショート
風呂をシェイクスピアの詩にしたりしていく。が、実際に使ってみたら(?)勝手が悪くて、元に戻そうとしたら、詩たちから反発された、という話
リチャード・ブローティガンは、アメリカ合衆国の詩人・小説家(1935~1984)。池澤夏樹は、ブローディガンは小説もたくさん書いているけど、やはり詩人だったのだと思うと述べている。

ラムレの証言 ガッサーン・カナファーニー 岡真理訳

イスラエルのラムレに暮らすパレスチナ人の話。
いや、「ラムレに暮らすパレスチナ人の話」と書いてしまったが、これはラムレでのパレスチナ人の「暮らし」を描いた作品ではなく、あくまでもある瞬間を切り取った作品だ。
池澤夏樹が、短編小説の時間について触れている文章の中でも述べているが、本作は、描かれている作品世界の時間が本書収録作品の中で最も短い作品だろう。描かれているのは、長くても数時間程度の出来事だ。
突然イスラエル兵がやってきて、住民が集められ、小突き回される。そのさなか、理不尽に幼い子とその母親が殺される。残された男は2人を埋葬し、そして事に及ぶ。
自爆テロ」の背景が、少年の視点から静かな筆致で紡がれている。
語り手の少年は少年で、ともに広場で立たされながらも自分の身を案じている母親に対して、自分は大丈夫だとなんとかして伝えようとして、そんなさなかに、親しくしている床屋の男の身に起きた一部始終を目撃することになる。
ページ数的にはとても短いが、ずっしりとした読後感が残る。
ガッサ-ン・カナファーニーは、1936年にパレスチナで生まれ、1948年、イスラエル建国により難民となった。パレスチナ人民解放戦線のスポークスパースンとして、作家、ジャーナリストとして活動したが、1972年に爆殺された。

冬の犬 アリステア・マクラウド 中野恵津子訳

子どもたちが、クリスマスを前に雪が降ったことに歓喜して、早朝4時から起き出して外で遊び始める。隣の家の犬がいつの間にか抜け出してきて、子どもたちと一緒に遊んでいる。
遠く離れた実家で入院の話があって、カナダ中に散らばった家族たちがさてどうするかと気を揉んでいる(もしもの時には駆けつけなければならないが、季節的に移動が大変)さなか、無邪気に遊ぶ子どもたちと犬の姿を眺める父親は、自分の子ども時代を思い出す。
で、この回想が本編
牧畜犬として買った犬だったが、とんだ役立たずで、しかしソリをひかせると抜群だったその犬。主人公は、ある冬の日、自分のソリをその犬にひかせて海へと遊びに行く。流氷が着岸していて、流氷の上を進んでいく。途中、死んだアザラシを見つけ、あまりにもきれいに氷漬けになっているのを見て、主人公はそれをソリにくくりつけて持って帰ろうとする。
しかし、帰路において天候が悪化、何度か流氷の上から海に落ちたりしながら、犬とともに賢明に帰ろうとする。
流氷の上から海に落ちてぐしょ濡れになった状態で吹雪に突入して、よくもまあ生きて帰ることができたな、という話なんだけど、少年の半ば焦りつつ半ば冷静なところが書かれていて、手に汗握りつつ、冬の自然の厳しさを感じながら読むことができる。
どうにか帰り着くと、親から怒られるのが嫌だなと思って、裏口からこっそり帰って何事もなかったかのように振る舞ったりするあたりも、ある意味ほほえましい。
ただこの犬、単に役立たずなばかりか家畜に噛みついたりしてむしろ有害なので、結局、殺処理されてしまう。この犬に命を救われながら、命を救ってやれなかったことへの後悔が綴られている。
アリステア・マクラウドは1936年生まれのカナダの作家。無名の作家だったが、1999年に発表した長篇がヒットし、これまでに発表された短篇が再刊されたらしい。
この長篇、カナダの島を舞台にしたファミリー・サーガものらしいので、ちょっと気になる。

ささやかだけれど、役にたつこと レイモンド・カーヴァー 村上春樹

8才の息子の誕生日のためにケーキを予約する母親。そのパン屋は無愛想で母親は苦手に感じている。そして誕生日の日の朝、登校中に息子は轢き逃げにあい、緊急入院。医者は問題ないと請け負うが、息子はなかなか目覚めない。
子を案じ続ける夫婦の心情が胸にくる。
レイモンド・カーヴァーは、アメリカの詩人・小説家(1938~1988)

ダンシング・ガールズ マーガレット・アトウッド 岸本佐知子

主人公は、カナダから留学してきて都市デザインを学んでいる女子大生で、安い下宿暮らしをしている。
大家さんの声が筒抜けの下宿で、隣の部屋には、大家さん曰くアラブ系だという男が住んでいるが、非常に静かなので当初は全然気づかないほどだった。
その部屋にはもともとトルコ人の女子大生が住んでいて、主人公と親しくしていたが、さすがに安普請すぎて出ていった。この下宿にはほかに中国人留学生も住んでいる。
とまあ、留学生が多く住む下宿なのだが、主人公は大家さんから留学生だと思われていない(カナダ人なので)。
ある時、その物静かな男が友人や踊り子を部屋に招いてパーティをして、大変やかましいために大家さんから追い出されてしまう。
しかし、主人公はそんな彼に対して、友人がいたことに少し安心しながら、多国籍な人々の暮らす緑豊かな都市を夢想する。
マーガレット・アトウッドは1939年生まれのカナダの作家。『侍女の物語』が有名。
ところで、カナダ文学ってこれまで全く意識したことがなかったが、南北アメリカ、アジア、アフリカから作品を集めたアンソロジーでカナダ文学が2作品入っているのは、なんかすごいな。

母 高行健 飯塚容訳

40過ぎの主人公が、学生時代に亡くなった母親について追悼するというか回想するというかという作品
母に対して「あなた」という二人称で語りかけるような文章になっていて、自分は確かに作家として有名にはなったけれど、亡くなった時に間に合わなかったし、墓の登記はなくすし、母のことを思い出すことも少ないし、ひどい親不孝な息子ですと延々懺悔している。
母親の若い頃(より正確に言うと結婚してすぐで主人公を身籠っていた頃)の写真で旗袍(チャイナドレス)を着た姿で写っているものを、文革時代に色々な本や原稿と一緒に焼いてしまった(旗袍も打破すべき旧習の一つとされていた)ことを、特に悔やんでいるのだと思う。
文学的には、自分を指す人称代名詞が「ぼく」になったり「彼」になったりはたまた「おまえ」になったりと変わる、というのがポイントなのだと思う。
高行健は1940年生まれの中国の作家。
以前、高行健『霊山』 - logical cypher scape2を読んだことがある。

猫の首を刎ねる ガーダ・アル=サンマーン 岡真理訳

レバノン出身で今はパリで生活している主人公が、故国の伝統的な価値観と西欧の自由主義的な価値観の間で揺れる話だが。
主人公は同じくレバノン出身でパリ育ちの女性と付き合っており、プロポーズしようかと思っているところ、家に、パリでは珍しく自分の本名を知っている謎の婦人がやってくる。母を訪ねてきたのかと思ったら、自分に対して、花嫁を紹介しはじめる。
ここで、この仲人をしようとしている婦人が語る釣書のようなものがすごくて、とにかく徹底して夫に隷従する妻だということを述べている。
タイトルの「猫の首を刎ねる」だが、結婚の際に、新郎が猫の首を刎ねて新婦は夫に付き従うことを誓うみたいな風習があるらしい。
レバノンでは、男に生まれたというだけで優遇され、主人公もパリに移住してくるまではそうであって、この婦人の登場に、そのことを思い出し始める。
一方の恋人というのは、男女は対等であるということを常々言っている。主人公は、恋人のそういうところに魅力を感じると同時に、戸惑いも覚えている。
かつて、彼女からバンジージャンプに誘われながら、怖くて結局跳ぶことができなかったというのと、プロポーズをしようと思っているけれど結局まだできない、というのが重ね合わされている。
最後にこの婦人らが実は伯母の幽霊だったということが分かる。
ガーダ・アル=サンマーンは、1942年にシリアで生まれた小説家、ジャーナリスト

面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ) 目取真俊

ある女性が、自分の一生を「あなた」に語るという体裁の作品で、うちなーぐちで書かれている。
池澤夏樹のコメントにもある通り、客観的に見れば悲惨な人生だったとしか言いようがないのだが、その語り自体に悲壮さはあまりない。
彼女は那覇の生まれだが、発達に遅れがあったために両親は彼女のことを北部に住む祖母のもとに押しつける。彼女は神女をしていた祖母のもとで育てられ、自身も霊感があって、幼い頃から亡くなった人の魂の話を聞いたりしていた。小学校にあがるとすぐにいじめられるようになり、以降、学校には行かなくなる。祖母が亡くなったあとはスナック勤めをするようになり、そこで1人の男性と出会う。
この男性と過ごした3ヶ月間が彼女の人生の中の短い幸福な時(むろん、祖母と暮らしていた頃もそうだっただろうが)なのだが、この男性は姿を消してしまう。さらに最終的に彼女は、集団にレイプされ殺されてしまう。つまり、この語り自体が、既に魂となっている者の話だったというのが最後に分かるつくりになっている(ネタバレ)。
この男性は一体何だったのかというと、どうもひめゆりの塔事件 - Wikipediaの犯人だったということらしい。ただ、Wikipediaによるとこの事件の犯人は現行犯逮捕されているが、この作品の中では、逮捕されていないっぽい。).
目取真俊は、1960年沖縄生まれの小説家。1997年に芥川賞