高行健『霊山』

霊山を探して中国の長江流域をあてもなく旅し続ける男性作家の話
橋本陽介『ノーベル文学賞を読む』 - logical cypher scapeで取り上げられており、興味をもったので読んでみた。
当初想像していたのと少し違ったが、80年代中国南部の各地の様子が描かれた紀行ものとしても読めて、わりと面白かった。
後半になるにつれて、冥界が出てきたり、「小説って一体何だ」っていう断章が出てきたりして、旅行記的なものから離れていく。

霊山

霊山


「おまえ」のパートと「私」のパートが交互に進んでいく構成となっており、いずれも中国各地を旅する男性の物語だが、「おまえ」パートは虚実入り交じるようなパートで、様々な文章のリズムを駆使して書かれている。
一応、霊山を探すという目的が当初はあるが、それも次第にはっきりしなくなっていく。
各章の時間的な関係などが、ところどころはっきりしていなかったりするのと、個々の断片的なエピソードの集積という感じの話なので、一貫したあらすじを書き出すのは難しい。


高行健(ガオ・シンジェン)は、1940年生まれ、2000年に中国人作家として初めてのノーベル賞を受賞した。中国語で発表しているが、天安門事件以降中国に戻れなくなり、フランス在住。
『霊山』は、1982年から書き始め、89年に完成(既に出国後)。
高は、この時期、肺がんの宣告を受け、実際に長江流域を放浪していて、『霊山』の「私」もがんの宣告を受けて放浪の旅をする作家である。ちなみに、このがん宣告は誤診だったらしく、再び検査を受けた際には、肺の影は映っていなかったという。
また、当時の「精神汚染排除キャンペーン」により、批判を浴びていた時期でもあり、作中でも何度か、自分はもう作品を発表できなくなった旨をこぼしている。


「おまえ」パートでは、霊山を探して訪れた町でたまたま出会った「彼女」と「おまえ」がともに旅をするようになる。前半は、「おまえ」が「彼女」に対して様々な話をして聞かせる、あるいは「彼女」が身の上話をしたりするという形でおおよそ進んでいく。
様々な時代の様々な話が、(大体は)カギ括弧のない形式で語られていく。「おまえ」の子ども時代の話から、村の老人が語る匪賊が跋扈していた頃の話、さらに各地の民話・伝説の類。
中盤になってくると、「おまえ」と「彼女」との間の男女関係のもつれ的な話も増えていくようになる。
中盤以降で、「おまえ」が「私」であり、「彼女」は「私」が書いた架空の人物っぽいことが分かる
このあと、「おまえ」と「彼女」の存在がだいぶ曖昧になってきて、「私」もできたり、「おまえ」でなく「彼」になったり、あるいは具体的な描写が減り始めて、どこにいるかも曖昧になってきて、さらには、冥界にやってきたりもする。


「私」パートでは、基本的に「私」の旅行記で、大体、中国の少数民族の住んでいる町などを訪れてまわる話になっている。北京から取材にきた作家・記者であると名乗り、民謡を聞いて回ったりしている。
最初は四川省から始まるが、その後、貴州省湖南省湖北省洞庭湖付近から、最終的には浙江省紹興のあたりまで至る
この本の冒頭に地図があるので、西から東へ向かっていったというのは分かるが、中国の地理全然わからん、ということに気付いた。大都市の位置だけで、省とか全然わからんな、というのと、どんな風景の場所とかもあまりイメージはわかない。
とはいえ、大体山とか小さな町とかを回っているっぽいのだが。


第72章は、この作品に対する自己言及的な章になっているが、この作品の特徴をある程度言い表している

「すべてバラバラで、まとまりがないじゃないか。作者はまだ、ストーリーの組み立て方を知らない」
(中略)
発端から結末へと進むだけでなく、結末から発端にさかのぼったり、発端だけで結末がなかったり、結末だけあるいは一部分だけで続きがなかったり、語り終わらないもの、語りようがないもの、語りたくないもの、多くを語る必要がないもの、そして語る価値のないものもあります。それらもみんな物語です。
(中略)
「東洋に、こんなでたらめなものはない。旅行記、伝聞、感想、筆記、小品、理論とは言いがたい議論、寓言らしくない寓言、民謡の採録、それに神話とは程遠い粗雑な作り話が入り乱れている。これでも小説なのか!」
 彼は言った。戦国時代の地方誌、両漢、魏晋南北朝の人物伝や怪奇談、唐代の短編、宋元の講談、明清の長編や随筆、昔からの地理、博物、巷の噂、伝聞、異聞、雑記、いずれも小説です。
(pp.486-487)

なお、この章の後半は、〇〇と〇〇と〇〇のことと〇〇のことと、とひたすら羅列されなたら超長い一文が書かれていて、なかなか圧巻


訳者の解説からも一部抜粋

第二の長篇小説『ある男の聖書』との密接な関連は指摘するまでもない。人称を巧みに変えながら、独白、対話、回想で叙述を進めていく手法が同じだし、いくつかのエピソードもそのまま受け継がれている。(中略)湖北省神農袈地区に伝わる風俗習慣、民謡に対する興味、森林伐採やダム建設による自然破壊に向けられた抗議と憂慮などである。神話伝説の宝庫として知られる『山海経』に寄せる強い愛着は、特異な劇作『山海経伝』を生んだ。また、死後の世界や仏教への関心は、『彼岸』、『冥城』、『生死界』、『八月の雪』など、一連の劇作に結実している。
(中略)
『霊山』の中でも、作者の関心は半ば仏教に向けられているものの、それ以上に道教をめぐる描写が多い。さらには、少数民族シャーマニズムに対する興味もうかがえる。
(p.548)

湖北省神農袈地区、民謡、自然破壊については『霊山』でも出てくるし、『山海経』も何か所か言及がある。道教についても、後半の方で、道観を訪れるエピソードがいくつか出てくる。なんか怪しげな道士たちの儀式についてとか。


内容的には全く違うんだけど、読みながら『話の話』を少し思い出した。
色々なエピソードが次々とつなげられていく感じがちょっと似ている。
前半戦はほんと紀行ものなんだけど、後半戦はインディペンデント・アニメーションっぽさがなんとなくあるようなところもある気がする。