暮沢剛巳・江藤光紀・鯖江秀樹・寺本敬子『幻の万博 紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス』

1940年に、東京五輪と同時開催の計画を立てられていた幻の東京万博について、同時代の他の万博や博覧会との比較を通して浮き彫りにすることを試みる。
芸術や文化と政治・戦争の関係を万博を通じて紐解いていく。
むろん、開催されることのなかった万博について明らかに言えることは多くないが、1930年代に開催された日本国内の博覧会や、パリ万博での日本やナチスドイツの出展、東京万博と同じく開催には至らなかったローマ万博などについて論じられている。
1940年というのは、いわゆる皇紀紀元2600年にあたり、以前から万博をやる機会をうかがっていた流れがあって、このタイミングにあわせ奉祝イベントとして開催しようと企画されていったらしい。


自分の大学時代の恩師である江藤先生が筆者の1人であるのだが、最近時々、同窓会ではないのだが、他の元学生と一緒に飲んだりすることがあって、その際にこの本をいただいたので、早速読んだという次第。
そもそも、1940年に万博が計画されていたことを全然知らなかったので(幻の東京五輪は有名だと思うが)、その点だけでも非常に面白かったが、この政治と文化との関係というテーマは、単に歴史的事象というのではなく、アクチュアルでもあるなあというのが節々から感じられた。
民間からの動き、大衆文化・消費社会という側面から捉えるのが、やはり面白いかなあと思った。万博、だから当然そういう側面があるわけだけど、それと、戦前の雰囲気の結びつきというか。
ドイツやイタリアの話もなかなか面白かった。

はじめに――幻の紀元二千六百年記念万国博覧会 暮沢剛巳
第1章 幻の紀元二千六百年記念万博――開催計画の概要とその背景 暮沢剛巳 
第2章 肇国記念館と美術館――紀元二千六百年記念万博の展示計画 暮沢剛巳 
第3章 プレ・イベントからみる幻の万博――横浜復興博とプロパガンダ 江藤光紀 
第4章 パリに出現したナチのショーウインドー――一九三七年パリ万博へのドイツ出展 江藤光紀
第5章 幻のなかの経験――ローマ万博の展示空間 鯖江秀樹 
第6章 一九三七年パリ万博への日本の参加とその背景 寺本敬子 
第7章 万博という代理戦争――植民地表象を中心に 江藤光紀 
第8章 満州で考える――人工国家・満州国の実験に探る紀元二千六百年記念万博の痕跡 暮沢剛巳 
おわりに 暮沢剛巳

第1章 幻の紀元二千六百年記念万博――開催計画の概要とその背景 暮沢剛巳

サブタイトルにあるとおり、この章は、紀元2600年記念万博の計画概要について、残された資料から解説している。
この章は、元東京都知事鈴木俊一の話から始まる。
元々、鈴木が計画していた都市博について、白紙撤回することを公約に掲げて青島幸雄が出馬し、都知事となったということくらいは、自分もかろうじて知っているのだが、ここでは、鈴木が、東京万博の「延期」がなされた時期に、ちょうど内務省官僚をやっており、彼の都市博への動機はこの万博のリベンジ的な意味もあったのではということが述べられている。
さて、この紀元2600年万博は、会場が、月島や新越中島の埋め立て地として計画されていたらしい。
「ふーん、月島とか越中島とかかー」と思っていたのだが、よく見てみると、現在の晴海、有明豊洲、東雲とあり、そりゃ、月島から先の埋め立て地となれば当然そのあたりなんだけど、一気に、上述の都市博の話とつながり「なるほど」感が出てくる。このあたりが、1940年に万博会場になっていたとしたらと考えると、今現在とは湾岸区域の様相がまるで違ったものであっただろう。
なお、この万博は、ほぼ構想・計画のみで終わってしまったわけだが、唯一、現存する施設としては勝鬨橋がある。
上に「延期」と書いたが、この万博は、言葉の上では「中止」ではなく「延期」ということになっている。
その要因については、本章では、戦争の進展に伴い、軍事予算が大きくなり万博への予算がさけなくなっていったから、ということが書かれている。
ただし、第6章を読むと、また別の要因があったことが分かる。
 

第2章 肇国記念館と美術館――紀元二千六百年記念万博の展示計画 暮沢剛巳

第1章は紀元2600年万博の概要であったが、第2章ではより踏み込んで、予定されていた様々な陳列館の中から、肇国記念館と美術館に絞って、その計画を見ていく
肇国記念館は、いわば万博のメイン会場となる施設
建築コンペでデザイン案が選ばれており、それの絵が掲載されているが、日本風の切妻屋根の建物に、真ん中に塔があるという、なんじゃこりゃという建物っだったりする。ただ、同じくこの章で、サンフランシスコ万博やニューヨーク万博での日本館の写真が載っているのを見比べると、まあそれの延長線上にはあるのかな、とは思うのだけど、それでもやはりなかなか奇抜な見た目のデザイン案ではある。
日本の「国史」を展示する計画であったようだが、万博の計画と同時に、国史館構想というのが動いており、本章ではそれとの比較から展示内容を推測している。
国史館というのは、歴史学者黒板勝美が提案し、記紀神話を中心とした国体史観を展示するための博物館構想だったようだ。
万博の一環として建てるのか、独立した博物館として建てるのかとかで、色々すったもんだがあり、結局、万博がなくなってしまい、国史館自体立ち消えになってしまう。のだが、戦後この構想が紆余曲折あった末に、千葉の歴史民俗博物館として結実するらしい。むろん、内容は全く異なるものではあるのだが、初代館長は黒板の孫弟子にあたる人だったりするらしい。


美術について
洋画より日本画。帝展中心の画壇ヒエラルキーを反映した展示。これも実際には東京で万博は行われていないので展示内容は分からないが、1940年に実際に開催された紀元2600年奉祝美術展や、サンフランシスコ万博、ニューヨーク万博での美術展示がどのようなものだったのかが紹介されている。
国内での評価と国外での評価が完全に割れていたようだというのがあって、「あ、あー」という気持ち
最後に、もし万博が開催されていたら出展されていたのではないかと夢想される作家、日名子実三について
日名子は、日本サッカー協会八咫烏のエンブレムのデザインをした人
本章では、日名子は師匠と仲違いした結果、帝展と距離を置いていたので、実際に万博があっても参加はしなかっただろうとしつつ、日名子が宮崎に1940年に立てた八紘一宇の塔について紹介している
この時代の思想がどのように芸術にあらわれたのか、の極北とでもいうべき塔で、なんというか、やべーな、としか言いようのない塔
しかも、GHQによって、一度、八紘一宇の文字は外されたのだが、何故かその後復活している、という別のやばさもある。

第3章 プレ・イベントからみる幻の万博――横浜復興博とプロパガンダ 江藤光紀

1章・2章はどちらかといえば、国策としての万博の面を見るようなところがあったが、万博は実際には官民がともに行っていくものである。
この章では、1930年代に日本国内で行われた博覧会などの比較を通して、民間側あるいは官民の協働での動きをみていくもの
大衆文化としての万博、大衆消費社会を反映したものとしての万博という側面である。
ラジオやレコード、新聞や印刷など大衆向けメディアが、宣伝に使われたとあるが、特に注目すべきは「参加型」という点だろう。
この時期、歌の公募なんかを非常によくやっていたようである。
最近、大塚英志が、大政翼賛会とメディアミックスというテーマを論じているけれど、あれと通じる話なんじゃないかなというところ。


宣伝に関しては、官製プロパガンダを担当していた情報委員会(のちの内閣情報局)が、紀元2600年に関する宣伝についても基本方針みたいなのを打ち出していた、とか
一方、民間側では、万博宣伝委員会というものがあって、この中には、官僚の他、東京音楽学校長、松竹創業者である大谷竹次郎阪急電鉄宝塚歌劇団の創業者である小林一三らが入っていた、と。
ここでちょっと、小林と宝塚の話がちょこっと書かれているのだけど、阪急宝塚線の開発にあたって、宝塚大劇場だけでなく、博覧会を毎年のように開催して集客を図っていたらしい。
あ、あと、帝国劇場ってもとは松竹で、それを小林が譲り受けたって知らなかった

第4章 パリに出現したナチのショーウインドー――一九三七年パリ万博へのドイツ出展 江藤光紀

ナチスドイツが唯一出展した、1937年のパリ万博
この時期は、まだフランス側が宥和的で、一方のドイツも戦争までの時間稼ぎをしたくて、思惑としては別だが、双方、友好的なムードを出したかった時期で、かなりフランスに金を出させる形でナチスドイツの参加がなったらしい。
すごく象徴的な写真が掲載されているのだが、エッフェル塔が真ん中に写って、その両サイドに、ナチスのシンボルである鷲のエンブレムが掲げられたドイツ館と、鎌と槌を掲げる男女の像のあるソ連館が向かい合って立っているというものである。
なお、このパリ万博には、スペイン館に『ゲルニカ』が展示されていたというのだから、まあとにかくすごい時代だとしか言いようがない。
ナチスドイツは、もちろんモダニズム絵画とかは排斥していたので、芸術の面では非常に古典主義的な作品が並ぶ一方で、レーシングカーやテレビなど先端技術も並ぶというものだったらしい。
パリ万博は、ライトアップが定番のショーとなっていたらしいが、ドイツは、サーチライトを柱のようにして、光の聖堂をつくるような演出をしていたらしいが、これはナチスの党大会でも使われたもの
万博ドイツ館やゲルマニア計画など、ナチスは、新古典主義的な建築で、永続性や荘厳さを示そうとした。光の聖堂はそのような政治のスペクタクル化・芸術化のある種の到達点というような旨が論じられている。
 

第5章 幻のなかの経験――ローマ万博の展示空間 鯖江秀樹

ムッソリーニ率いるファシズム政権が、1942年の開催を予定していたローマ万博について(これもまた、実際には開催されなかった万博である)
元々、1941年の開催を国際博覧会事務局(BIE)からは求められていたが、これを政権樹立20周年にあわせるため42年に開催予定年をずらしていた。このあたり、紀元2600年にあわせて1940年開催にこだわった日本と近いものがある。
この章では、特にローマ万博で中心になるはずだった「文明館」をメインに、ローマ万博が一体どのような経験をさせるようなものであったのかを論じている。
ローマ万博跡地(エウル)は、今ではオフィスビルやマンションが立ち並ぶ街区になっているらしいが、これが、デ・キリコの絵画に喩えられるような雰囲気の街らしい。フェリーニらの映画で使われたり、『エル』や『ヴォーグ』といった雑誌のグラビア撮影に文明館が使われたこともあったとか。
ローマ万博は、ファシズム全体主義帝国主義といったイデオロギーとは別に、軽やかな「気分」を演出し、新しいライフ・スタイルを示そうとするものでもあったのではないか、と。
ここでも、大衆消費社会的なものと万博とのつながりが、示唆されているようである
 

第6章 一九三七年パリ万博への日本の参加とその背景 寺本敬子

前半は、1937年のパリ万博への日本の参加経緯、出品内容などについてだが、後半は、1940年の万博開催に向けての日本の交渉の経緯が書かれている。
万博、開催がどんどん増えていった結果、大変になってきたので、1928年に国際博覧会条約というものが締結され、国際博覧会事務局(BIE)が各国の万博を統括するようになった、と。
BIEで認可されないと、万博が開けない。
で、日本は実はこの時、条約未締結。
さらに、万博は開催の間隔が決められていて、39年にニューヨーク万博が決まっていたので、1940年の開催は無理とされていた
一般博ではなく、特定のテーマを定めた特別博ならいいよ、と言われ、日本は「東西文化の融合」というテーマを決めて特別博を装うのだが、内容はほとんど変更せず、BIEからは再検討とされていた。
この時期、日本は国際的に孤立を深めていた時期でもあり、万博開催についてもこれが悪く影響していて、BIEからの認可は下りずじまいだったらしい。
それでも日本はかなり無理矢理開催しようとしていたとか。
第一章では、戦争の長期化に伴い、予算面の問題で万博は「延期」になったと述べられていたが、それだけではなく、BIEとの交渉がうまくいかなかったというのも、万博を行うことのできなかった、かなり大きい要因のようである。 
なお、戦後の大阪万博の際には、64年に条約を批准したことで、有利にことを進めることができたらしい。

第7章 万博という代理戦争――植民地表象を中心に 江藤光紀

万博と満州
日本各地で開かれた博覧会では植民地館(朝鮮・台湾・(名目上は植民地ではないが)満州)があるのが普通だった
一方、海外で開かれた万博では、満州館的なものはあったが、独立国として認められていないのでなかなか扱いが微妙だったよう
奉祝イベントとメディア(テレビ技術)
建国神話と芸術
第2章でふれられた八紘一宇の塔や、管弦楽曲『海道東征』など、皇紀というフィクションの中から生まれてくる芸術について。ベースは紛れもなく西洋でありつつも、意匠として純日本風のものをまとう。
 

第8章 満州で考える――人工国家・満州国の実験に探る紀元二千六百年記念万博の痕跡 暮沢剛巳

これは、この研究のために、大連・長春ハルビンを実際に旅行した時の記録をもとに、これらの都市の建築物や、これらの都市で開催された博覧会について述べられている。
満映についても、ページがそこそこ割かれている。
人工都市であること、実験国家であることをもって、ある意味で、満州自体が巨大な万博のようなものだったのではないか、といいう話をしている。