セオドア・グレイシック(源河亨・木下頌子訳)『音楽の哲学入門』

タイトルにある通り、音楽の哲学についての入門。ラウトレッジ社のThe Thinking in Actionシリーズの一冊で、原著タイトルはOn Musicであり、同シリーズには、ジジェク『信じるということ』、ドレイファス『インターネットについて』、キャロル『批評について』などがあるとのことである。
4つの章からなり、音楽と芸術、音楽とことば・知識、音楽と情動、音楽と超越性がそれぞれテーマになっている。
「音楽の哲学」の入門であるが、同時に音楽の話題を通して「哲学」に入門する本ともなっていて、関係する様々なトピックに触れられている。
哲学を進める上での方法としても参考になる。というのは、具体例が多く出てくる点だ。本書の方針として、必ずクラシック音楽とそうではない音楽(ロックやジャズ、民族音楽など)の両方に触れるということを心掛けているらしいし、また、何らかの論点を説明する際に、音楽以外の具体例から始める場合も多い。
ピーター・キヴィやスティーブン・デイヴィスといった現代の美学者(いわゆる分析系)への言及も多いが、それ以上に、ウィトゲンシュタインの考えからかなり影響を受けているのがうかがえるし、カントやショーペンハウアーについての検討も行われている。
なお、本書の中で触れられている曲については、下記のプレイリストにまとめられており、9割方はこれで聞けることができる。超便利!

第1章 耳に触れる以上のもの――音楽と芸術
 1 鳥の歌
 2 音楽であるもの/音楽的なもの
 3 「芸術」に関して
 4 音楽と文化
 5 美的側面
 6 文化、コミュニケーション、スタイル
第2章 言葉とともに/言葉なしに――理解して聴く
 1 教養なき知覚
 2 純粋主義
 3 言語と思考の交わり
 4 命題知と技能知
 5 音楽の四つの側面
 6 歴史、スタイル、美的性質
 7 芸術としての音楽、再考
第3章 音楽と情動
 1 しるしとシンボル
 2 表出と表出的性格
 3 ウタツグミ
 4 喚起説
 5 カルリの悲嘆、アメリカのジャズ、ヒンドゥスターニー・ラサ
第4章 超越へといざなうセイレーンの声
 1 実在の語りえなさ
 2 美から崇高へ
 3 ショーペンハウアーの音楽観
 4 崇高さは主観的なものか
 5 崇高さの経験
 6 例示

音楽の哲学入門

音楽の哲学入門


第1章 耳に触れる以上のもの――音楽と芸術

筆者は、音楽は全て芸術である、と述べる。
音楽は芸術であるということで、2つのものを音楽から排除している
1つは、「天球の音楽」である。かつて音楽というのは、数学的構造・調和だと思われており、天球も音楽の一種だと思われていた。この考え方だと、音楽にとって音は必ずしも必要ではない。地上の音楽にはたまたま音があるというだけで。
芸術というのは、知覚可能なものである、という点から、こうした考え方を退けている。
まあ、天球の音楽を音楽だと考える人は、現代ではほぼいないだろうし、本章においても、ここはそれほど大きな論点ではない。
もう一つは、「鳥の鳴き声」などである。
例えばサヨナキドリの鳴き声を「歌」(音楽)と称することがあるけれど、筆者は、これを「音楽的」であることは認めるが「音楽」ではないとする。
芸術というのは、文化的伝統の中にあり、文化的探求を体現するものだからだ。
鳥の鳴き声は、社会的なコミュニケーションの道具ではあるかもしれないが、文化的伝統・文化的交流はそれ以上のものだと。
ある作品一つとっても、そこにはその作品が属するジャンルの歴史が背景にある。
また、この章では、ハンスリックとワーグナーのあいだにあった、純粋音楽をめぐる論争についても取り上げられている。
何かを伝えるための音楽と、音楽のための音楽。この対立に対して、合目的性という観点から答える。
目的に合意しないとしても、その目的のためにどのように作られているかを鑑賞することはできる。
音楽は、単なる音のパターンではない。文化的な合目的性をもった人工物である。

第2章 言葉とともに/言葉なしに――理解して聴く

音楽鑑賞について、純粋主義を巡る議論
純粋主義というのは、音楽を鑑賞する上で、言葉(専門用語や分類など)はいらないという立場
これに対して、筆者は、言葉が必要で不可欠であることを論じる
専門用語を知っている必要はないが、少なくとも、それに対応する概念を分かっている必要はあり、概念を理解するためには言語能力を持っている必要がある(だからこそ、言語能力を持たない鳥には「音楽」はできない)。
例えば、「チューニング」と「演奏」は異なり、演奏は鑑賞の対象だがチューニングは鑑賞の対象にはならない。しかし、この概念の違いが分からないと、誤ってチューニングを「鑑賞」するということが起きてしまう。

第3章 音楽と情動

表出説と喚起説をそれぞれ批判する
表出と表出的とを区別することなど

第4章 超越へといざなうセイレーンの声

この章が一番面白かった
音楽には言葉では語りえない側面があり、それは神秘的・超越的・超自然的なものを示すものである、という主張が検討される。
感覚経験は言葉では語りつくせないから、音楽も言葉で語りえない側面がある。これは当たり前すぎるし、これだけだと神秘的・超越的な側面については何も説明できない
筆者は、崇高という美的性質を通じて、音楽によって超越的な面が示されているのではないかと考える
その前にショーペンハウアーの考えを検討。ショーペンハウアーは、崇高ではなく美によってそれがなされると考えている
美的性質や美的判断は主観的かが検討される
美的性質は、主観的なものではなく、知覚されるもの
美的判断は、判断であるという点で情動と似ている
音楽が超越的なものを示すということが論じられる際、作曲者というのは妨げになると考えられることが多いが、筆者はむしろ、作者の介入や文化的慣習によってこそ、それがよく達成されるされるのだと考える
音楽は、崇高などの美的性質を例示する。例示は、作者の意図や文化的慣習を通じてなされる。