源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか』

サブタイトルは「音楽美学と心の哲学」で、心の哲学、とりわけ知覚の哲学や情動の哲学を用いて、美学の理論構築を行っている本である。
さらにいえば、認知科学の知見も取り入れながらの、美学の自然化プロジェクトの一環として書かれている。
1~5章は、美学一般に関わる議論。全体として、美的判断の客観主義を擁護する議論が展開されており、具体例は音楽の事例が用いられているが、音楽以外にも適用可能な議論となっている。
6~10章は、より音楽にフォーカスした議論を展開しており、音の存在論から始まって最終的には本書のタイトルにあるような音楽と情動(表出)の議論が展開されている。


具体例も豊富で、丁寧な説明とともに議論が展開されていくので、美学や哲学に詳しくない人でも議論を追いやすい本なのではないかと思う。


個人的には、第2章での経験・判断、美的と非美的といった基礎的な概念の整理、また、第3章で美的判断の客観性を擁護する論の展開の中で、評価的側面から美的と非美的の違いを説明しているあたりなど、基本的な部分で改めて勉強になった。
また、第6章の音の存在論もすごく面白かった。音とは、音波(媒質の振動)のことじゃなくて物体(発信元)の振動のことだという説の擁護。


自分は、筆者の源河による下記の著作・訳書・学会発表を読んだり、見たりしているが、本書の内容と深く関連している。
科学基礎論学会WS「現実とフィクションの相互作用」「意識のハードプロブレムは解決されたか」科学哲学会WS「心の哲学と美学の接続点」 - logical cypher scape2(源河亨「美的判断の客観性と評価的知覚」)
源河亨『知覚と判断の境界線』 - logical cypher scape2
ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる』(源河亨訳) - logical cypher scape2
『ワードマップ心の哲学』(一部) - logical cypher scape2(Ⅱ-16 美的経験と情動 情動は美的評価をもたらすのか、Ⅱ-20 認知的侵入(不)可能性 認知は知覚に影響しうるか(源河亨))
科学基礎論学会ワークショップ「芸術における感情表現」 - logical cypher scape2(源河 亨 - 「作者の感情表出と鑑賞者への感情喚起」)
セオドア・グレイシック(源河亨・木下頌子訳)『音楽の哲学入門』 - logical cypher scape2

はじめに
第1章 音楽美学と心の哲学
第2章 「美しい音楽」は人それぞれ?
第3章 「美しい音楽」の客観性
第4章 心が動く鑑賞
第5章 心が動けば聴こえが変わる
第6章 音を見る、音に触れる
第7章 環境音から音楽知覚へ
第8章 聴こえる情動、感じる情動
第9章 なぜ悲しい曲を聴くのか
第10章 悲しい曲の何が悲しいのか
結論 美学の自然化
あとがき
文献一覧
索引

第1章 音楽美学と心の哲学

本書の方針について
まず、どういう対象を分析対象としているかという点について
歌詞との関係については取り上げてないということと、個別の曲の分析は行わないということが挙げられている
また、「音楽」や「聴取」は、西洋の概念に過ぎないのではという疑念に対してもあらかじめ応答している
それから、美学の自然化について

第2章 「美しい音楽」は人それぞれ?

まず、基本概念の整理として、「美的判断」「美的経験」「美的性質」についてそれぞれ説明されている。
「判断」と「経験」を知覚の例で説明した後、美的判断と美的経験について説明し、さらに美的性質と非美的性質の関係についても説明している。
判断も経験も、対象への性質帰属であり正誤を問うことができる。
が、判断は言語で表せるものなのに対して、経験は非言語的なもので、意識に現れる状態を指す。
美的性質は、非美的性質に依存する。非美的性質を部分に持つ全体(ゲシュタルト


本書は、美的判断の客観主義を擁護する方向で進むが、その前に、客観主義と主観主義をそれぞれ説明した上で、客観主義と実在論が区別できることを、色を例に挙げながら説明している。
つまり、反実在論をとりつつ、客観主義を擁護することも理論上は可能だということである

第3章 「美しい音楽」の客観性

美的判断の客観主義を擁護するためには、美的判断が時に食い違うことを説明しなければらない。
本章では、客観主義の立場にたつ論者の議論が検討されている。
まず、ゼマッハは、客観主義かつ実在論に立つが、標準的観察条件という考えを導入する。適切な知識や感受性を持っているといった条件。
次に、ウォルトンのカテゴリー論があげられ、適切な条件として知識があることが論じられる。
ところで、ゼマッハもウォルトンも美的経験の知覚的側面について論じているが、評価的側面について論じていないという問題がある。
ゴールドマンは、特にゼマッハに対して、評価的側面の議論が不足している点を批判。
美的性質の経験と非美的性質の経験の違いは評価に関連する。
反実在論と客観主義の組み合わせを擁護し、評価的側面について、感受性グループ相対的な客観主義を提案する(例えば、ジャズ愛好家グループとクラシック愛好家グループとでは、ある曲に対する評価は一致しないことはある。しかし、ジャズ愛好家グループの内部では、客観主義が維持される、と)。
レヴィンソンも、知覚的側面(記述的側面)と評価的側面の両方があることを指摘し、前者については正誤が問えることを論じている。
美的判断の客観主義を擁護するためには、知覚に訴えるのは有効そう。
しかし、美的経験の評価的側面も見逃せない。
そのためには、この2つが密接に繋がっている美的経験のモデルを構築する必要がある、と筆者は述べる。

第4章 心が動く鑑賞

前の章からの続きで、知覚的側面と評価的側面を結びつける美的経験のモデルとして、情動に注目したモデルが提案される。
そこでまずは、情動とは何かということから説明される。
情動は、「身体反応の感じ」「感情価」「評価」の3つの要素から鳴ることが説明される。
この情動論は、前述したプリンツ本に依拠している。
情動は、置かれた状況に対する評価である。
例えば、クマが接近していて「恐怖」という情動を覚えるとき、それは危険が迫っているという評価なのである(それはネガティブな感情価に結びつき、逃避行動へと繋がるし、逃避行動をするため、心拍数をあげるなどの身体反応を生じさせる)。
この点で、情動は実は客観性がある。

 
美的経験には、感受性を洗練させる学習が必要
感受性の学習については、それが知覚的学習とは異なることと感受性の可変性を説明する必要があり、情動に訴えることで説明できる
知覚的学習と感受性の学習の違いは、情動反応が伴うかどうかで区別できる
情動反応は、学習によって変化することがある(その一例として、単純接触効果がある)
例えば、ジャズの曲をたくさん聴いて、それらの曲にポジティブな情動を抱くように学習することが、ジャズを聞くための感受性の学習ということになる。

第5章 心が動けば聴こえが変わる

まず、認知的侵入可能性について
1960年代に「観察の理論負荷性」「ニュールック心理学」と呼ばれていたもの。のち、1980年代には「心のモジュール説」の隆盛により下火になったが、近年、再び注目を集めるようになっている。
情動が知覚に影響するという実験結果もある。
なお、認知的侵入可能性について、知覚に影響を与えているのか、知覚から判断に至る過程のどこかで影響を与えているのか、という点で論争があるらしい、本書はこの論争については中立的な立場をとる(どちらが正しいかは問わない)。


筆者は、美的判断の知覚的側面と評価的側面について、認知的侵入可能性で結ばれているというモデルを提案する。
情動が知覚(非美的性質の知覚と、その全体であるゲシュタルト知覚)を変化させ、美的性質の経験がされる。
情動によって評価もなされる。
(なお、知覚に影響を与える評価であれば、情動でなくてもいいのではないか(思考でもいいのではないか)という反論に対して、シブリーによる美的判断の個別主義をあげて、情動である必要性を述べている。個別主義とは、美的判断は、一般法則によってえられるものではないというもの。情動も、一般的な評価を与えるものではなく、個別な状況への評価を与えるものである)
情動や知覚は正誤を問うことができる。
また、情動は適切な学習により得られた感受性によって生じる。
逆に言えば、そのような感受性がないと、適切な美的経験は得られない。

第6章 音を見る、音に触れる

第1章~第5章は、美学一般の話であった(音楽以外にも当てはまる話)。
第6章からは、より音楽にフォーカスした話となるが、第6章はしかし、音楽ではなく「音」の話
本章では、近年の知覚の哲学で支持を集めているという、音の遠位説を擁護する議論が展開される。
この、音の遠位説、一瞬びっくりするのだけど、説明されると「なるほど、確かにその通りだ」としか思えなくなって、すごく面白い。


音の存在論については、3つの説がある*1
1.近位説
音とは、聴覚システムが反応するという出来事である。知覚主体が存在しなければ存在しないので、反実在論
2.中位説
音とは、媒質のなかを伝わる振動(という物理的な出来事)である。知覚主体が存在しなくても存在するので、実在論
3.遠位説
音とは、音波を生み出した物体の振動(という物理的な出来事)である。同じく実在論


音が聞こえる時は、音がどこから聞こえてくるかという音の聞こえ方
例えば、向こうにある机の上で携帯電話が鳴っている時、机の上で音が鳴っているように聞こえる。空気の中を伝わって鳴っていたり、耳や頭の中で鳴っているようには聞こえない。
これが、遠位説の支持理由


恒常性知覚の話や、マルチモダリティ知覚の話からも、遠位説を擁護している。
特に、マルチモダリティ知覚の話が面白い。
聴覚と視覚、あるいは聴覚と触覚は互いに影響しあっていることを示す錯覚の事例がいくつか紹介されている。
こうした錯覚は、聴覚と視覚ないし聴覚と触覚が、ともに同じ対象を知覚するために情報を調整し合っていることを示す
音波は視覚で捉えることはできないが、物体の振動は視覚や触覚で捉えることができる。
つまり、聴覚と視覚・触覚が互いに調整し合いながら知覚している同一の対象とは、物体の振動であり、音=物体の振動とする遠位説は、音のマルチモーダル知覚を説明することができる、というわけである。

第7章 環境音から音楽知覚へ

本章では、音楽とは何かということと、音楽のマルチモーダルな鑑賞について論じられている。
1つ目については、典型的な音楽と環境音を区別しておこうという話で、音楽は人工物であるということが論じられる。
2つ目の、音楽のマルチモーダルな鑑賞が面白い
音楽、特にライブパフォーマンスについては、聴覚だけでなく視覚的にも鑑賞されているのであり、音楽の美的判断するにあたって、視覚情報も大事だ、という話がされている。

第8章 聴こえる情動、感じる情動

芸術作品・パフォーマンスで「悲しい」「怖い」「喜ばしい」などの情動用語を使って記述されるような特徴を「表出的性質expressive property」などと呼ぶ
ここで扱うのは、連合や言語の理解といった場合を除く、という注意がなされたあと、表出的性質が一体なんであるのか、4つの説がまず紹介される。
本章ではそのうち、表出説と喚起説について検討される。
残りの類似説とペルソナ説は、第10章で検討される。
1.表出説
作曲者の情動を伝えるものだという説
2.喚起説
鑑賞者に情動を喚起する力ないし傾向性だという説
3.類似説
人の表出行動と似たものとして認知されるものだという説
4.ペルソナ説
情動を抱く架空の人格(ペルソナ)を想像させ、その人格の情動の表出であるという説


表出説と喚起説の問題は、そもそも作り手や聞き手の情動と、その作品の表出的性質はしばしばしば一致しないということである。
悲しい曲を作る人が必ず悲しみを抱いているわけではないし、
聞いている人も、その曲を聞いて悲しくならなくても、悲しい曲だなという判断はつく

第9章 なぜ悲しい曲を聴くのか

喚起説のもう一つの問題点として、負の情動のパラドックスがある。
悲しみは、ネガティブな感情価を持ち、ネガティブな感情価のある情動を抱くとき、人はその対象を避ける行為をとる。
しかし、悲しい曲を聴いても、人はその曲の鑑賞をやめたりはしない。
悲劇のパラドックスとかフィクションのパラドックスとか、類似の問題は美学には色々ある。


ここでは、音楽を聴いたときに悲しい状態になったとして、それは一体どのように説明されるのかという観点から、「エラー説」つまり、悲しい状態になったのは錯覚で、実際には悲しい音楽を聴いても悲しくなってはいないという説が擁護される。
実際に行われた実験結果などを交えて、エラー説が擁護され、喚起説が退けられている。


また、悲しい曲は悲しみを喚起しないが、音楽情動という特殊な情動を喚起するというキヴィーの見解がここではあわせて論じられている。

第10章 悲しい曲の何が悲しいのか

最後に、音楽の表出的性質についての、類似説とペルソナ説が検討される。
結論からいうと、この二つは音楽美学では区別されているが、実際には大して変わらないのでは、という話がされている。
類似説は、(^_^)という顔文字が人の笑っている顔と形が似ているから「楽しい」を表しているとされるように、悲しい音楽も、そのテンポや抑揚などが悲しんでいる人のしゃべり方のテンポや抑揚と似ているから「悲しい」のだと考える。なお、類似説は輪郭説とも呼ばれる*2
ここでは、人のもつ擬人化傾向に訴えられている。
(^_^)は記号列なので、実際には楽しいという情動を持っていないし、楽しさを表出しているわけでもないが、人はこの記号を擬人化して、表出らしきものがあらわれていると捉える。
一方、ペルソナ説は、音楽とは架空の人物を想像させるものであり、その架空の人物が情動を表出していると考える。音楽の物語的解釈や高次情動の帰属が可能になるという利点がある。例えば、悲しいメロディで始まった曲が喜ばしいメロディに変わるという展開をする曲があったとして、後者の喜ばしさは単なる喜びではなく、希望の表出だといえる、など。


これに対して、類似説とペルソナ説をそれぞれ特徴付ける「擬人化」と「想像」って、そもそも区別できるのか、という点が指摘されている。
類似説は知覚心理学的な説で、ペルソナ説は音楽批評の影響を受けた説で、着想元の違いが説明に用いる概念の違いを生んでいるが、しかし、その概念を担っている心的能力は同じものなのではないか(「水」と「H2O」が概念としては異なるが、指示対象は同一であることを喩えとして出しながら)と論じている。
また、仮に区別しようとするならば、心理学や神経科学の知見が必要となることにも触れている。


個人的には、表出的性質については隠喩説に親近感を持っているので、後半の議論は「ふーん」という感じもしないでもないのだが。
表出的性質も美的性質の一種であって、特別な説明はいらないのではという意味で。
まあ、隠喩は隠喩であまり説明できている感じがしないのでアレなところはあるが。
その点、ゲシュタルト知覚になっているというと少し説明できている感じがする。
さらに、何故情動用語を適用するのかという時に、類似に訴えるのは、まあ悪くはない方針なのかー。
(^_^)が「楽しい」なのは、ゲシュタルトっぽいけど美的性質ではなさそうだし、隠喩でもなさそうで、輪郭が類似しているからとしか言いようがない。
それはそれとして、個人的には、情動用語を適用することについての問題よりも、美的性質を表す用語をどう適用するのかという問題の方が興味があるので、情動にのみ着目している議論にあまりのれないのかもしれない。
「悲しいメロディだな」と判断するのと同じように「重たいメロディだな」とか判断することがあり、音楽はそれ自身が悲しむような主体ではないのと同様、重さという性質を持つような存在者ではないわけなので、何故そういう述語を適用できるのか問題が生じるが、類似では説明できないはず。まあ、ここでいう重いは隠喩だろうな、と。
あるメロディを評して悲しいという時は類似に訴えていて、重いという時は隠喩に訴えている、という風に説明を区別するのもなんか妙な気もしている。

*1:なお、ストローソンやスクルートンが主張する非空間説という4つめの説もあるにはある、らしい

*2:絵画の表出において輪郭説を論じているものとしてD.Lopes "The 'Air' of Pictures" - logical cypher scape2がある