『ワードマップ心の哲学』(一部)

前半は、心の哲学入門としてオーソドックスな項目が並ぶが、加えて、倫理学や美学などの隣接領域とオーバーラップするような項目や、これまでの入門書ではなかなか取り上げられていなかったような近年の知見、さらにこの手の本として珍しいのは、精神医学と関連する項目が多数取り上げられていることだろう。
とりあえず今回は、全部は読まずに、一部気になった項目のみを取り上げて読んでいった。

第Ⅰ部 心身問題
Ⅰ-1 二元論    現代では何が問われているのか
Ⅰ-2 還元主義    心的性質と物的性質は同一なのか
Ⅰ-3 観念論    物的世界は心と独立に存在するのか
Ⅰ-4 現象主義    われわれは何を知覚するのか
Ⅰ-5 自然主義    自然科学の枠組みに含まれるものとは
Ⅰ-6 行動主義    心は行動のパターンなのか
Ⅰ-7 心脳同一説    心は脳と同一なのか
Ⅰ-8 機能主義    心は因果的機能によって捉えられるか
Ⅰ-9 目的論的機能主義    志向性をもつ心をどう説明するか
Ⅰ-10 非法則的一元論    物の法則性/心の非法則性
Ⅰ-11 解釈主義    合理性の観点から見られた心
Ⅰ-12 消去主義    心的状態はそもそも実在するのか
Ⅰ-13 心的因果をめぐる諸説    心は行為を惹起する因果的効力をもつか

第Ⅱ部 志向性・意識・自我
Ⅱ-1 志向性と表象    志向性は表象的特性と同一なのか
Ⅱ-2 志向的姿勢    志向的な概念はなぜ行動の予測に有用か
Ⅱ-3 心的内容    心の内容は内的状態により決まるのか
Ⅱ-4 生物的意味論    志向性をいかに自然化するか
Ⅱ-5 命題的態度    命題的態度をめぐるさまざまな論争
Ⅱ-6 意識とクオリア    意識的経験の何が特別なのか
Ⅱ-7 意識のハードプロブレム    意識の自然化はなぜ困難なのか
Ⅱ-8 意識の表象説    意識の自然化の鍵は表象にある
Ⅱ-9 意識の高階説    意識と無意識はどのように区別されるのか
Ⅱ-10 一人称的視点    三人称的に理解できるだろうか
Ⅱ-11 説明ギャップ    物理主義は意識を説明しきれるか
Ⅱ-12 現象的概念    意識の特殊性を説明しさる
Ⅱ-13 自己/自我    私は通時的・持続的に実在するのか
Ⅱ-14 意識の統一性    私の心はいかにして一つにまとまるのか
Ⅱ-15 人格の同一性    「同じ人」であるとはどういうことか
Ⅱ-16 美的経験と情動    情動は美的評価をもたらすのか
Ⅱ-17 意識と倫理    意識の有無が生み出す道徳的な差異
Ⅱ-18 倫理的徳と認識的徳    性格によるのか、それとも状況か
Ⅱ-19 知覚経験の内容    経験の存否と種類をめぐる論争
Ⅱ-20 認知的侵入(不)可能性    認知は知覚に影響しうるか
Ⅱ-21 集団心    集団が心をもつことはありえるか

第Ⅲ部 心の科学と哲学
Ⅲ-1 他者理解    他者の心はどのように理解されるか
Ⅲ-2 自己知    自分の心は特別な仕方で知られるのか
Ⅲ-3 心の理論と自閉症    心の理論は自閉症を説明できるのか
Ⅲ-4 社会性と社会脳    社会脳研究の広がりとその可能性
Ⅲ-5 自己制御と意志    情動はどう関わるのだろうか
Ⅲ-6 フレーム問題と情動    どうすれば関連性を瞬時に把握できるか
Ⅲ-7 アフォーダンスとオシツオサレツ表象    知覚と行動をどうつなぐのか
Ⅲ-8 古典的計算主義    心はコンピュータだ
Ⅲ-9 コネクショニズム    心はニューラルネットワーク
Ⅲ-10 力学系理論    認知は表象の操作ではない
Ⅲ-11 拡張された心    心と世界の境界はどこか
Ⅲ-12 予測誤差最小化理論    ベイズ推論としての心
Ⅲ-13 精神疾患    正常と異常の境界は科学的に画定できるか
Ⅲ-14 精神療法の哲学的基礎    心の治療は身体の治療とどう異なるか
Ⅲ-15 精神障害精神疾患)の分類問題    精神障害は自然種か
Ⅲ-16 EBM/VBM/NBM    証拠・価値・物語は精神医療にどう関わるか
Ⅲ-17 妄 想    どのようにして成立するのか
Ⅲ-18 自己欺瞞    自らを欺くことは可能か
Ⅲ-19 依存症    病的な依存は心をどう変質させるか

Ⅱ-3 心的内容    心の内容は内的状態により決まるのか(前田高弘)

内在主義と外在主義の論争について
外在主義は、パトナムの双子地球、バージの関節炎の思考実験によって広まったが、近年では、内在主義が勢いを盛り返しているらしい。
ここで問題になっているのは、心の現象的側面と志向的側面が切り離せるかという点らしい(外在主義は、現象的側面が同じでも志向的側面が異なることを意味する)
ここでは知識に限らず広く「心的内容」の話をしているようなので、現象的側面と志向的側面の関係も確かに、と思わなくもないのだけど、知識に関していえば、現象的側面と志向的側面が切り離されてても別にいいのではと思わなくもない

Ⅱ-10 一人称的視点    三人称的に理解できるだろうか(鈴木貴之)

知識論証とそれに対する物理主義者の応答(メアリは新たな知識を得てない説、能力仮説、面識知説、現象的概念説)
このあたりは山口尚『クオリアの哲学と知識論証』 - logical cypher scape

一人称的視点に三人称的視点から特徴づけを与えることは不可能ではないように思われる。(...)意識的経験の特徴は自己中心的な表象形式にあると考えられる。(...)もちろん、このような説明を与えられたとしても(...)われわれはコウモリと同じように世界を経験することはできない。(...)その意味では、一人称的視点そのものが三人称的視点から説明可能な現象だとしても、両者は等価なものではない。ネーゲルが問題にしているのがこのような意味での一人称的視点の還元不可能性だとすれば、それは意識の自然化が可能だとしても解消不可能な現象だろう。そうだとすれば、一人称的視点と三人称的視点のあいだのギャップは、意識の自然化が不可能であることを示すものというよりは、世界に関する根本的な事実として受け入れるべきものであるのかもしれない。(pp.118-119)

全くもってその通りなのではないかと思う
鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』 - logical cypher scapeも参照

Ⅱ-11 説明ギャップ    物理主義は意識を説明しきれるか(鈴木貴之)

説明ギャップとは
被説明項である意識的経験は、因果的役割だけでなく質的特徴をもつことを本質とする。しかし、質的特徴は意識的経験に独特のものであり、説明項である脳状態には含まれない。ここに説明ギャップが生じる。
タイプA物理主義の応答→質的特徴も因果的役割で説明する→意識の表象説
タイプB物理主義の応答→意識について説明するには「別の概念」を用いる
→「別の概念」とは何かについていくつか立場が分かれる
・直示的概念
・再認概念
・現象的概念
直示的概念や再認概念で説明できるなら、それは意識に固有の現象ではない
現象的概念は、物理主義の枠内におさまるかどうかわからない

Ⅱ-12 現象的概念    意識の特殊性を説明しさる(太田紘史)

意識は、機能的概念(三人称的視点)と現象的概念(一人称的視点)のふたつの側面
機能的概念は記述的情報を伴う
現象的概念は現象的性質を直示するだけで記述的情報を伴わない
意識の奇妙さ
(1)機能的性質の知識から現象的性質についての知識を導けない(メアリの部屋)
(2)人間と機能的性質において同型だが現象的性質を欠いているものが思考可能(ゾンビの思考可能性)
(3)機能的性質の記述では現象的性質を説明できない(説明ギャップ)
これらは認識ギャップ
認識ギャップから存在ギャップを導く論証もある
一方、現象的概念戦略は、認識ギャップを認めるが存在ギャップを認めないための戦略

Ⅱ-14 意識の統一性    私の心はいかにして一つにまとまるのか(太田紘史)

統一性とは、現象的性質が意識的経験のなかで「ともに経験されている」ということ
バインディング問題とは似て非なる問題
バインディング問題は、色や形などの属性を一つの対象にどうやって結び付けているのか(それを脳内でどのように行っているのか)という問題
統一性の問題は、さまざまなものがともに経験されるのは何故なのかという問題
統一性について分離脳患者の事例が紹介されたのち、通時的統一性という観点についても解説されている。
通時的統一性には、直接的なものと間接的なものがあること
また、経験されるものと経験そのものは区別されうることがあげられている(一秒かけて落下するボールを見るという視覚経験において、その視覚経験そのものは一秒間持続しているわけではないかもしれない)

Ⅱ-16 美的経験と情動    情動は美的評価をもたらすのか(源河亨)

美的経験の評価的要素として情動を持ち出す方針について
美的経験には確かに情動を伴っているように思われる
情動は評価的な心的状態であることからも、支持できる
→しかし、何であれ情動が伴えば美的経験になるわけではない
→ある特定の情動が伴う経験が美的経験
特定の情動とは?
カント:無関心性の快
プリンツ:再較正された驚異(wonder)
「再較正」についてはジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる』(源河亨訳) - logical cypher scape
なお、美的経験を特徴づける方針は、情動以外にも、非美的性質と美的性質の付随的依存関係、学習や知識から知覚への影響、注意の向け方などがあり、これらは、心の哲学ですでに検討されてきた道具立てを用いることができる

Ⅱ-19知覚経験の内容    経験の存否と種類をめぐる論争(小口峰樹)

知覚経験について
 表象主義
 関係主義(知覚が内容をもつことを否定)
知覚経験の内容について
 概念主義
 非概念主義
神経科学などを取り込んだ近年の議論
 マッセンの感覚分類理論(概念主義的立場)
 ラフトポーロス:知覚についての神経処理の過程を二段階にわけ、前者を現象的意識、後者をアクセス意識に対応すると考える(非概念主義的立場)

Ⅱ-20 認知的侵入(不)可能性    認知は知覚に影響しうるか(源河亨)

知覚は信念から独立しているか否かという議論。
1960年代前後、心理学の「ニュールック運動」や科学哲学の「観察の理論負荷性」によって、信念が知覚に影響を与えるという考えが優勢だったが、80年代には、モジュール仮説によりむしろ知覚には独立性があるという考えが有力となっていった。現在、再び「認知侵入可能性」という言葉で議論がなされている。
ミュラーリヤー錯視→認知的侵入不可能性を支持
多義図形→侵入可能性を支持
この議論は、知覚による信念や判断の正当化の議論に影響を与える

Ⅱ-21 集団心    集団が心をもつことはありえるか(筒井晴香)

集団心で扱われるトピックとは
例えば、集団的志向性(collective intentionality)、共同注意(joint attention)、共同行為/集団行為(joint action/ shared acton/ group action/ collective action)、集団責任(collective responsibility)、集団的感情(collective emotion)、集団的罪悪感(collective guilt)など
なお、joint/ shared/ collective/ groupの使い分けは論者によって一致しておらず、定訳もないので注意、とのこと
ここでは、集団行為が特に例としてあげられている
集団に属する個人個人の考えと集団そのものの考えが食い違う場合など、集団に心を帰属させる必要があるシチュエーション(例:推論的ジレンマ)
「心」とは何か
一人称的視点やクオリアのことであれば、集団が心を持つということは確かにおかしい
一方、行為の意図や責任のことであれば、集団に帰属させることは普通に行われている
共同行為というと柏端達也『自己欺瞞と自己犠牲』 - logical cypher scape

Ⅲ-5 他者理解    他者の心はどのように理解されるか(信原幸弘)

理論説、シミュレーション説に加えて、直接知覚説も紹介されていた
また、fMRIによるマインドリーディングの可能性など

Ⅲ-5 自己制御と意志    情動はどう関わるのだろうか(西堤優)

時間割引(双曲的時間割引と指数的時間割引)についての言及がちょっとあって『虐殺機関』思い出した
意志の強さとは何かについて
認知資源を想定し、それを使うことが意志力を行使することと考える説と
認知資源を想定せず、異なる時点間での自分同士の交渉であると考える説とが紹介されている
認知資源が実在するかどうかについて、認知心理学で論争があったりするらしいけど、認知資源を使って意志力を行使ってゲームっぽくてちょっと楽しいw

Ⅲ-7 アフォーダンスとオシツオサレツ表象    知覚と行動をどうつなぐのか(染谷昌義)

ギブソン生態学的アプローチ=反表象主義の一つ。動物はアフォーダンス情報を直接知覚する
ミリカンのオシツオサレツ表象=世界の記述(オシツ面)と行動の指令(オサレツ面)(なお、クラークは同様な意味で行為志向的表象と呼ぶ。オシツオサレツのネーミングの由来はドリトル先生
オシツオサレツ表象は、アフォーダンス知覚の内部状態と等しい(表象という言葉を使うか否かの違い)
行動観の違い
ミリカン→機械的行動観(特定の行動が実行される)
ギブソニアン→非機械的アフォーダンスは行動の機能・目的を決めるだけで、行動そのものを引き起こさない)
行動観の違いは関心の違いに由来
ミリカン→現実の行動発生機構にあまり注意を払わない反面、人間の思考・認知活動を一貫して説明する自然主義的プログラムを目指す
ギブソン→人間の思考・認知活動に対する十分な説明はなく、一方で、生物の実際の知覚・行動を説明することに関心がある

Ⅲ-10 力学系理論    認知は表象の操作ではない(中村雅之)

力学系=「時間とともに変化する系」
認知の力学系=脳・身体・環境を力学系とみなし、系の状態が発展規則(=変化の規則)に従って状態空間(=系がとりうるすべての状態の集合)の中に描く軌道を、認知現象のモデルとして用いる発想
計算主義に変わる認知観
50年代に遡る
ブルックスのロボット工学や、テーレンとスミスの発達心理学など、多くの分野にもみられる
身体化認知、エナクティビスム、アフォーダンスとも関連
(エナクティビズム=心や世界は、行為を通じて創られる(enact)という考え)
反表象主義と結びつきやすいが、クラークは「控えめな表象」を提案するなど、反表象主義をとらない論者もいる

Ⅲ-11 拡張された心    心と世界の境界はどこか(染谷昌義)

クラークとチャーマーズによる「拡張認知仮説」
心的内容の外在主義をさらにすすめ、認知過程も環境にあるという考え
この背景として、外在主義だけでなく、80年代以降にあらわれた状況的認知論や社会文化的アプローチという立場がある
エスノメソドロジー社会人類学とも関連。
→身体化された認知論とともに拡張認知仮説を支える
クラークよりもさらにラディカルな立場
→ローランズ
ギャラガー(エナクティブな認知観)
クラーク自身は、サイボーグ化への問題へ
拡張認知仮説への批判
批判(1)因果的カップリングを構成的とする誤謬(因果的に依存している要因が構成要素となっているとか限らない)
批判(2)認知過程とそうでない過程との区別の曖昧化
→論点先取ではないかという再反論

Ⅲ-12 予測誤差最小化理論    ベイズ推論としての心(佐藤亮司)

これだ!
以前、科学基礎論学会の「源河亨著『知覚と判断の境界線 :「知覚の哲学」基本と応用』合評会」(美学会・科学基礎論学会・科学哲学会 - logical cypher scapeにおいて、飯島さんの発表で、知覚をベイズ的に説明するという説が近年有力説となっているというのを聞いて、気になっていた
これだった
予測誤差最小化(prediction error minimisation)または予測処理(predictive processing)または予測符号化(predective coding)
フリストンのグループを中心に展開
知覚・注意・夢・情動・社会認知・精神疾患など心を理解するための統一的な理論
脳が暗黙的な推論をしているという考えは、ヘルムホルツやグレゴリーが先駆者
脳=近似的なベイズ推論を行うメカニズム
ベイズ推論自体は計算的に負荷が高い
予測誤差最小化=近似的にベイズ推論を行う仕組み
疑似的な感覚刺激を生成する「生成モデル」をもち、疑似的な刺激と実際の刺激との誤差を計算し、誤差が最小化されるようにモデルを修正していく
感覚刺激の信頼性についての見積もり=精密性予期
精密性予期の設定がうまくいかない場合→精神疾患(予測誤差の精密性が過小評価されると妄想、精密性が過大評価されると自閉スペクトラム症になるのではないか)
階層構造が必要
下位レベルから上位レベルへ予測誤差が送られていく
各レベルにおいて精密性予期が行われる
受動的に刺激を受け取るだけでなく、自分の行為によって能動的に仮説にあう刺激を探しに行く=行為推論(active inference)(注:サッケードなど無意志的な行動も含む)
哲学的な論点
(1)4E認知(環境に埋め込まれた、身体化された、行為化された、拡張された認知)との相性の悪さ→クラークは、近年、むしろ適合すると論じている
(2)知覚と思考の区別に対して再考を促す→知覚と思考の差は階層の差にすぎない。知覚情報が階層をあがるにつれて概念になっていく

Ⅲ-13 精神疾患    正常と異常の境界は科学的に画定できるか(榊原英輔)

精神疾患の定義など→身体的損傷説(精神疾患は実在しない)から反本質主義(疾患とは価値判断)、多元主義など

Ⅲ-14 精神療法の哲学的基礎    心の治療は身体の治療とどう異なるか(田所重紀)

因果関係と理にかなった関係(いわゆる合理化関係)
この二つの関係を取り結ぶものとして「語り」を引き出すのが、精神療法ではないか、という論

Ⅲ-15 精神障害精神疾患)の分類問題    精神障害は自然種か(石原孝二)

精神障害は自然種なのか、という議論が紹介されている
精神障害は、ハッキングがいうところのループ効果を生じるものであり、自然種ではないのではないか、とか

Ⅲ-16 EBM/VBM/NBM    証拠・価値・物語は精神医療にどう関わるか(榊原英輔)

エヴィデンスベースの医療(EBM)に加えて、価値観ベース(VBM)、ナラティブベース(NBM)の医療について
患者のケアにかかわる意思決定のためにエヴィデンスを用いるのがEBM
医師と患者の共同意思決定するためのVBM
医療者と患者との対話によって新しい物語を共同構成していくNBM

Ⅲ-17 妄 想    どのようにして成立するのか(宮園健吾)

妄想は、信念なのか想像なのかという論争があるとか
妄想の因果説は精神医学では広く受け入れられていたが、心の哲学では、その因果的役割をめぐって、信念説と想像説との間で論争がある
そもそも信念は因果的役割で定義されるものなのか、という点での検討が必要
妄想の形成・維持について
二要因理論と予測誤差理論の二説がある

Ⅲ-18 自己欺瞞    自らを欺くことは可能か(金杉武司)

自己欺瞞パラドックスについて、心が分割されていると考えることで回避しようという考えがある。しかし、その場合、分割されている部分についての自己知はどうなるのか。自己知が成り立つならやはりパラドックスは避けられない。

Ⅲ-19 依存症    病的な依存は心をどう変質させるか(信原幸弘)

依存を引き起こすのは何かという説明のあと、依存の種類も紹介されている。
その中で、例えば「家族がいないと生きていけない(家族が生き甲斐である)」という健全な依存を「実存的依存」と呼び分けているのだけど、健全な場合、わざわざ「依存」と呼ばなくてもよいのではないだろうかと思った。