科学基礎論学会ワークショップ「芸術における感情表現」

ワークショップ「芸術における感情表現」
オーガナイザ:源河 亨
http://phsc.jp/dat/rsm/20181024_05.pdf
源河 亨 - 「作者の感情表出と鑑賞者への感情喚起」
http://phsc.jp/dat/rsm/20181024_06.pdf
松永 伸司 - 「例示としての表出:ネルソン・グッドマンの立場から」
http://phsc.jp/dat/rsm/20181024_07.pdf
森永 豊 - 「音楽鑑賞における感情の身体性」
http://phsc.jp/dat/rsm/20181024_08.pdf
田邉 健太郎 - 「音楽学から見た分析美学の「表出」論争」
http://phsc.jp/dat/rsm/20181024_09.pdf


内容はおおむね上にリンクをはった発表要旨のとおり

源河 亨 - 「作者の感情表出と鑑賞者への感情喚起」

表出説、喚起説、類似説、ペルソナ説の説明
表出説と喚起説はどちらも、「用語の不一致」と「説明が逆」という問題点を抱えており、不人気
類似説は、表出的性質と人間の情動表出行動との類似から説明するが、それは人間が人間でないものに対して擬人化してしまう傾向を持っているがゆえ
擬人化傾向によってとらえられているのは、表出のようなものであって、文字通りの表出ではない
一方、ペルソナを仮定し、そのペルソナの表出として聞いている、というのがペルソナ説
ペルソナ説も、類似があるという点は一緒
高次情動を曲に帰属させられるという点が、ペルソナ説と類似説の違い(の1つ)


2019年に、Theodore Gracyk On Musicが『音楽の哲学入門』として出るらしい

松永 伸司 - 「例示としての表出:ネルソン・グッドマンの立場から」

例示、隠喩あたりの話
もっかい、『芸術の言語』のこのあたり読み返しておこうかなーと思った
このワークショップに関わる主張としては、グッドマン的にいえば、感情用語が使われるのは隠喩的な適用だが、それは別に感情用語に限った話ではない。
で、作品の性質を記述するのに感情用語を使っているからといって、作品の表出と感情の間に何か一般的な関係が生じているわけではない、と


レジュメでは、隠喩的な記述について、James Grant"Metaphor and Criticism BSA Prize Essay, 2010"やNick Zangwill, Music and Aesthetic Reality(2015)が紹介されている

森永 豊 - 「音楽鑑賞における感情の身体性」

キヴィの議論を紹介したのち、それに反論する形で「習慣化した連合」による説明(森永説)を展開
キヴィの議論は、人が音楽に感情表出との類似を聞き取るのを、進化論的な仮説によって説明することで、生物学的な基盤を与えようとする。
森永は、これはあんまりうまくいかないだろう、と。社会の中で音楽を聴いてきた様々な経験(習慣)から説明する。

田邉 健太郎 - 「音楽学から見た分析美学の「表出」論争」

キヴィはのちに立場を変えて、類似説を批判するようになって、音構造、音のパターンによって説明しようとしている、らしい
レヴィンソンは、ペルソナ説で、曲の主題や動機の他に、演奏者の身振りによっても説明しようとする(レヴィンソンは、演奏も作品の一部とする立場
あと、そもそも感情表出って音楽にとって重要なの? という疑問(ハンスリックら形式主義は、重要ではないと考える)
スクルートンは、共感との関係で重要という
バー・エリは、表出的性質によって音楽的諸要素が結びついている、また、予期の形成を基礎づけている、から重要だと考えている
中村美亜による、複数のレベルのナラティビティ

感想