青田麻未『環境を批評する』

筆者の博士論文を元にした環境美学についての本
英米系環境美学をサーベイし、環境を批評するという観点から「鑑賞対象の選択」と「美的判断の規範性」という2つのテーマで整理している。
元々環境美学のいう環境は、自然環境を意味していたが、その後の発展とともに人工環境も含むようになり、本書でも環境の美的鑑賞・批評の実践例として検討されるのは、観光と居住である。
2章と3章がサーベイ
4章と5章が「鑑賞対象の選択」、6章が「美的判断の規範性」を扱っている

第1章 環境としての世界とその批評−英米系環境美学とはなにか
 第1節 美学からの環境へのアプローチ
 第2節 英米系環境美学のスタイル
第2章 知識による美的鑑賞の変容−カールソンの環境美学
 第1節 ネイチャーライティングと環境批評家
 第2節 知識によって支えられる環境批評
 第3節 影を潜める主体−カールソンの達成点と問題点
第3章 諸説の再配置−環境批評理論としての評価
 第1節 認知モデル/非認知モデル、そしてそのボーダーライン
 第2節 環境の批評はできない−ゴドロヴィッチ、キャロル、バッドとフィッシャー
 第3節 環境を批評する−サイトウ、バーリアント、ブレイディ
第4章 フレームをつくる−鑑賞対象の選択と参与の美学
 第1節 バーリアントの参与の美学とその展開可能性
 第2節 ミクロな変化のフレーミング−個別の活動と統括的活動
 第3節 美的鑑賞の始まりはどこか−美的快の源泉としてのフレーミング
第5章 観光と居住−統括的活動とフレーミング
 第1節 行って帰ってくる−観光と居住の円環構造
 第2節 観光という統括的活動−ずれては重なるフレーム
 第3節 居住という統括的活動−時間的厚みのあるフレーム
第6章 環境批評家とはだれか−美的判断の規範性
 第1節 ブレイディによる規範性の再定義
 第2節 コミュニケーションと規範の生成
 第3節 批評家たちの協働−環境の漸進的な把握のために

第1章 環境としての世界とその批評−英米系環境美学とはなにか

「環境」とは、「美学」とは、など本書がどういう話を対象としているのかの序論

第2章 知識による美的鑑賞の変容−カールソンの環境美学

英米系環境美学は、1970年代にカールソンによって始まる
第2章では、カールソンの美学(「認知モデル」と呼ばれる)がどのようなものかまとめている。
ここで指摘されるのは、カールソンが「ネイチャーライティング」と呼ばれるノンフィクション文学に注目している点である。
カールソンは、彼らネイチャーライターを「環境批評家」として位置付けるのだが、ネイチャーライティングへの注目は、カールソンに限った話ではなく、1970年代の北米において環境倫理学など環境に関する関心が高まる中で、再評価されていたという文脈がある、と。
カールソンの美学は、時に極端と考えられることもあるのだが、実際には、ネイチャーライティングの作家たちの活動を理論化しようとしたものと捉えることができる。
カールソンは、環境を美的に鑑賞する際の対象の選択と規範性が、科学的/常識的知識によって得られると考える。
芸術作品を鑑賞する際に、適切な知識を持った批評家による批評が規範性を持つように、環境の鑑賞においても、適切な知識を持った批評家による批評が規範性を持つ、と。
なお、カールソンはもともと自然環境について論じていたが、のちに、人工環境(田園風景や都市)についても論じているが、基本的な考え方は同じ

第3章 諸説の再配置−環境批評理論としての評価

第3章では、カールソン以後の環境美学について
カールソン以後の環境美学は、カールソンに対して批判的な論が起こり、それらは非認知モデルと呼ばれ、認知モデルvs非認知モデルの論争として環境美学は進展した。
ただ、それぞれの論者を分類する際に、どのような観点から分類するかで違いがあり、一言に「非認知モデル」といっても、いろいろあるらしい。
ここでは、環境を批評するという観点から、論者を整理している

  • 環境の批評はできない

→ゴドロヴィッチの「神秘モデル」(非人間中心主義)
→キャロルの「喚起モデル」
→バッドとフィッシャー

  • 環境を批評する

→サイトウの準認知モデル
→バーリアントの「参与の美学」
→ブレイディの「想像力モデル」(ブレイディは、シブリーの知覚的証明論を用いて、美的判断の規範性を論じる)
サイトウは、日常美学でも知られる。カールソンの認知モデルと近しいが、科学的知識だけでなく神話や歴史なども環境の鑑賞に用いられるとするなど、カールソンとの違いもある
バーリアントは、本書では「鑑賞対象の選択」について
ブレイディは、「美的判断の規範性」について論じる上で、特に参考にされる。

第4章 フレームをつくる−鑑賞対象の選択と参与の美学

環境を鑑賞し批評する際には、フレームが作られる必要がある。フレームというのは、どこからどこまでを鑑賞対象とするかということ。
例えば、環境は時間的変化があるが、その全てを直接知覚することはできない。カールソンは、科学的知識があれば、ひとつの石を見て、その石が川の流れの中で形を変えてきたことを鑑賞することができると考えた。これは、科学的知識によってフレーミングが行われているということ
どのようにフレーミングが行われるかを、バーリアントの「参与」という概念から捉える
筆者は、環境の中での活動を「個別の活動」と「統括的活動」とに分類したうえで、環境のミクロな変化のフレーミングのメカニズムを説明する

第5章 観光と居住−統括的活動とフレーミング

第4章の具体例として「観光」と「居住」という二つの統括的活動におけるフレーミングを論じる

第6章 環境批評家とはだれか−美的判断の規範性

環境を批評することが、単に主観的ではなく客観的であることはどのように可能なのか
ブレイディの論を参考にしつつ、最終的に筆者は、ローカルな美的熟達者たちの協働によるコミュニケーションの中に、美的判断の規範性が生まれるモチベーションを見いだす。