Bence Nanay『知覚の哲学としての美学 Aesthetics as Philosophy of Perception』1・2章

知覚の哲学と美学の両方を専門とするナナイによる美学の本
知覚の哲学に出てくる概念(主に「注意」概念)を用いていくつか美学の問題に取り組むもの
ナナイについては、これまで描写に関する論文をいくつか読んで、わりと面白いなと思ったので、著作も読もうと思っていた
本書も第3章がPicturesとなっていて、主な目当てはそこ。あと、7章のThe History of Visionとか。

Bence Nanay ”Threefoldness" - logical cypher scape2
ベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」 - logical cypher scape2
ベンス・ナナイ「トロンプ・ルイユと画像知覚の腹側/背側説明」 - logical cypher scape2


全部で8章構成になっており、とりあえず最初の2章まで読んだので、そこでいったんまとめてみる。
2章まででは、主に「分散された注意」という概念を用いて「美的経験」を説明するということをやっている。
ちなみに、ナンバさんが紹介ツイートをされていたので、全体がどんなのかはこちらを参照のこと



本全体の目次

1.Aesthetics
2.Distributed Attention
3.Pictures
4.Aesthetically Relevant Properties
5.Semi-Formalism
6.Uniqueness
7.The History of Vision
8.Non-Distributed Attention

Aesthetics as Philosophy of Perception (English Edition)

Aesthetics as Philosophy of Perception (English Edition)



今回の記事で取り上げる最初の2章の目次

1.Aesthetics
1.1.Aesthetics versus Philosophy of Art
1.2 Perception
1.3.Product Differentiation
2.Distributed Attention
2.1.Varieties of Aesthetic Experience
2.2.Disinterested Attention
2.3.Distributed versus Focused Attention
2.4.The Importance of Aesthetic Attention
2.5.Aesthetic Attention and Aesthetic Experience

1.Aesthetics美学

まず、美学と知覚の哲学の話で、美学を知覚の哲学の中に組み入れてしまおうとかそういう話ではなくて、美学の人にとって知覚の哲学が、知覚の哲学の人にとって美学が、分かるような本だよーというような紹介
それから、この本は美学の本であって、芸術の哲学の本ではないといって、美学と芸術の哲学を区別している。
美学というのは、経験についての哲学。そして、経験についての哲学といえば知覚の哲学だよね
知覚の哲学は、狭義の知覚だけじゃなくて、想像のような疑似知覚過程も扱ったりする
本書のメインテーマは「注意」
注意が、美学が扱っている経験を特徴づける上で大事な役割を果たしているというのが、ナナイの主張

2.Distributed Attention分散された注意

2.1Varieties of Aesthetic Experience 美的経験の種類

この章は「注意」という概念によって「美的経験」を説明する
注意によって美的経験を説明するのは新しい考えではなくて、例えば、カントも無関心的な注意(disinterested attention)*1によって美的経験を説明しようとした。
本書は、美的経験の範例的なケースを、分散された注意(distributed attention)で説明する。
美的経験において、注意は、知覚された一つの対象に集中されている(focused)が、一方で、その対象の数多くの性質に分散されている(distributed)


ここで、「美的経験の範例的なケース」と述べているが、具体例として、プルーストの一節が引用されている。他にも、カミュオルダス・ハクスリーなど、文学や哲学から例を引用している。
ちょっと面白いのが、ウォルハイムとグリーンバーグの対比で、絵画についての美的判断を行う際に、グリーンバーグは短時間でやってたのだけど、グリーンバーグは何時間でも一つの絵の前にいたというエピソード
ここから、美的経験について、コントロールできなさという特徴を見いだしている
つまり、「美的経験がしたい・しよう」と思ったからといってできるわけではない、ということ。
それから、もう一つ、美的経験の特徴として、持続することを挙げている
持続とは、美術館や劇場から出てきた後、しばらく、世界が少し違ったように見える、といった特徴のこと。


いくつか注意事項として
この美的経験aesthetic experienceは必ずしも美beautyの経験ではないこと
また、美的経験と呼ばれる経験には、この範例的なケースには合致しないような経験もあること
つまり、典型的な美的経験は、この分散された注意で説明することができるけど、説明できないようなタイプの美的経験もあるということ
それから、過去、美学において、美的経験と芸術とが結びつけられて論じられたことがあったけど、ナナイはそうは考えていない。芸術作品の経験にとって、美的経験は必要でも十分でもない、と。
あと、知覚できない対象(コンセプチュアルアートにおけるideaとか、物語の構造とか)についての美的経験もある

2.2.Disinterested Attention無関心的な注意

カントの「無関心的な注意」について
日常的な心配とか実践的な観点から自由な経験を、カントは美的経験として、これを「無関心性」と呼ぶ
ナナイも、「無関心性」が美的経験にとって重要な特徴なのではと考えているが
この無関心性の議論には、ディッキーの批判がある。
無関心的注意で美的経験を特徴づけることができるならば、関心的と無関心的の違いを区別できないといけないが、注意に関心的な注意と無関心的な注意なんてものはない、というのがディッキーの批判
ディッキーは、注意には強弱はあっても種類の違いはないという前提をしていた
しかし、知覚心理学の面からいうと、この前提は誤り。

2.3.Distributed versus Focused Attention 分散された注意と集中された注意

注意にはいろいろな種類(overt/covert, endogenous/exogenous, focused/distributed)があるが、集中されたfocused注意と分散されたdistributed注意の違いは、1970年初頭には既に導入されていた
集中と分散は、視野のサイズとか注意が向いている対象の数とかで区別できる


ナナイは、一つの対象に集中した注意を向け、かつその対象の複数の性質に分散された注意をするのが「美的経験」だと

注意の在り方は、対象・性質、集中・分散で4種類に分けられる

(1)対象に関して分散されて、性質に関して集中した注意
(2)対象に関しても性質に関しても、分散された注意
(3)対象に関しても性質に関しても、集中した注意
(4)対象に関して集中して、性質に関して分散された注意

(1)は何かもの(例えば、青い靴下とか)を探している時
(2)は、例えば、病院の待合室で退屈していて、色々なものを見たりしている時
で、(4)が美的注意なわけだけど、ナナイは、(3)が「関心的」な注意で(4)が「無関心的」な注意だと考える
で、ここでいう無関心というのは、何も関心が向いていない、ということではなくて、実用的な観点での関心がないということ
実用的な観点からの注意というのは、実用的な特徴にのみ注意が向いているということかだら、つまり、対象のもついくつもの性質に注意が分散するのではなく、その対象の特定の性質に注意が集中する。
ディッキーは、こういう違いに気付いてなかった、と


美的注意の説明は、経験的な理由も持っている。
目の動きを調べる実験がある。目の動きによって、何に注意しているかが全て分かるわけではないけど、かなり多くの部分はそれで分かる。
美術教育を受けた芸術家と、素人とで、絵を見たときの目の動き方が異なる。
教育を受けたほうが、素人よりも、注意がより分散している(素人は、絵の中の人物が描かれている部分に注意が集中しがち)
もちろん、美術教育を受けていることと美的経験を経験しているかどうかに関連があるとかどうかは分からないので、これは決定的な証拠ではないけれど、この説明が正しい方向を向いていることを示しているのではないか、と。

  • コメント

1つの対象がもっているいくつもの性質に注意が分散している、というのがポイントなのだが、一方で、1つの対象に注意が集中しているということも、それなりに重要かなと思った
この節でも、「注意が向けられている対象」って一体何なんだ、みたいなことの説明が少ししてある。
例えば、もし景観について美的な注意を向けているとしたら、景観が一つの知覚された対象となっていて、その中の一本の木、また別の木といったものがそれぞれ対象になっているわけではない、ということが書かれている。
これ、木の一本一本が注意の対象になっていたら、上でいうところの(2)の注意になってしまうわけだけど、どうやって区別できるのだろう。

2.4.The Importance of Aesthetic Attention 美的注意の重要性

上であげたコメントに対応するようなことが多少書いてあったような


美的経験を説明する他の説に比べて、美的注意説の優位を解く
ライバル説として、美的経験は、対象の美的性質によって説明できるとする説と、それ自身目的としたものが美的経験であるとする説があげられる
いずれも、美的経験のもっている、コントロールできないという特徴と持続するという特徴を説明できず、美的注意説はそれらの特徴を説明できるという優位がある。

2.5.Aesthetic Attention and Aesthetic Experience 美的注意と美的経験

(省略)


ナナイ説を用いた批評

ナンバユウキさんが、ナナイの「分散された注意」概念を用いた批評を行っている。

追記(20190610)

ふと思ったことをメモ
ポルノをポルノとして見ているときの経験は、実用的な観点から見ているという意味で、関心的な注意を向けた経験であって、美的経験ではないのではないかと思うのだけど
場合によっては、分散された注意になっていることもあるのではないか、と思った。
まあ、大概においては、例えば女性を描いたポルノであれば、それを見ている人(使用している人)は、胸や尻、性器あるいはその人が性的興奮を感じる部分へ注意を集中させていると思う。そので意味では確かに、非美的な経験だと思う。
しかし、一方で、実用的な観点を持ちながら、注意が分散されている場合もあると思う。というのも、単純に裸体や性行為が描かれていれば性的に興奮するとは限らず、状況や場所、服装等々が関連していることがある。その場合、どういう部屋にいるのか、どのような服を着用しているのかなどへ注意が向くだろう。身体についても、上述したようないわゆる性的な部位に注意が集中するのではなく、顔の表情、指先、脚の向きなど様々な箇所に注意が分散するかもしれない。また、実写ではなく絵画・イラストの場合、それこそ通常の美術鑑賞と同様に、線の引き方や色の塗り方へ注意が向くこともあるだろう(それでいて通常の美術鑑賞と異なるのは、「この描き方は○○様式だな」とか「この筆致により、荒々しい感情が表出されている」とかに繋がるのではなく、「この塗り方エロい」となっている点である(もっとも、その「エロい」が、そのイラストについての記述であるならば、通常の美術鑑賞とさして変わるところはない。しかし、「使える」という意味であれば、やはり通常の美術鑑賞とは異なってくるだろう))。
しかし、そのように注意が分散されているからといって、無関心的なのかといえばそうではなく、むしろ実用的な観点から、注意が分散していっている。
まあ、これはこれで、美的経験の一種と言ってしまってもいいのではないか、という考えもあろう。
その場合、無関心性は、多くの美的経験に当てはまるが、必要条件というわけではない、というように修正していくことになる。
実際、無関心性は、美的なもののマーカーにはなりそうだが、必須かどうかはよく分からないところがある。
逆に、分散された注意だけでは、美的経験の特徴付けや定義には不足するところがあるのではないか、という方向もありうる。

*1:岩波の『判断力批判』だと、「注意」ではなく「適意」という訳語になっていると思う