ベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」

Bence Nanay “Picture Perception and the Two Visual Subsystems”
https://www.semanticscholar.org/paper/Picture-Perception-and-the-Two-Visual-Subsystems-Nanay/ddfd7a7276afa17a0e8b486659ac137392c21ecc?tab=abstract


描写の理論に関する論文
二面性の経験を神経心理学的にフォローする議論
ナナイは、ウォルハイムの弟子らしく*1、二面性によって画像を説明する立場にたっている。
二面性によって画像を説明するというと経験説だが、経験説に対しては、画像経験に「二面性を同時に経験する」ことが必ず伴っているとは限らない、という批判がある(ロペスによる強い二面性と弱い二面性の区別)が、ナナイは、注意と知覚とを区別することでこれに応答している(Bence Nanay ”Inflected and Uninflected Experience of Pictures” - logical cypher scapeBence Nanay ”Threefoldness" - logical cypher scapeでも述べられている)。


二面性とは、画像の経験は、描写されている対象についての経験と画像の表面についての経験とがある、というものだが、
Nanayは、描写されている対象については腹側皮質視覚路において、画像の表面については背側皮質視覚路において、表象されている、という仮説を立てている。


ところで、一般的には、視覚の意識経験は腹側で処理された情報が関わっていて、背側はあまり関わってないと考えられている(意識との関連性と腹側・背側がきっちり分けられるのかどうかというのは議論があるっぽいんだけど、意識の本とかたいてい腹側の話をしている)。
そうだとすると、背側の方で表象されたからといって、意識にのぼるとは限らないということになる。
Nanay的には、二面性は知覚されていればよくて、意識されている必要はないい
意識されないんじゃあ、経験とは呼べないのではないかという気もしてくるが、この論文の中で「経験説」という言葉は使われていなくて、Nanayは自分の立場を二面性についての「知覚説」と呼んでいる。
ウォルハイムの説を改訂した立場だとも述べている。
いずれにせよ、画像ないし描写であるためには二面性が基礎的だと考えているっぽいので、Nanay説をウォルハイム説と同じグループに分類しても構わないだろうとは思う。
ロペスの認知説は、二面性は基礎的じゃなくて、認知能力が基礎的で二面性は派生的なことだとしている点が違う。

Introduction

Picture perception and the two visual subsystems

腹側皮質視覚経路と背側皮質視覚経路についての簡単な説明
腹側は、ものの形とかを知覚する。
背側は、動きとか距離とかを知覚する。
どちらの経路か失調するかによって症状が変わるので、それで機能が調べられたりしている
例えば、背側経路が損傷していると、optic ataxia→ものを認識することはできるが、操作したり自己中心的な位置に位置づけられない
腹側経路が損傷していると、visual agnosia→対象に働きかけられるがそれがなにであるかがわからない
腹側経路と背側経路が、対象に対して異なる性質を帰属させているのは、健康な人でも起きている→三次元エビングハウス錯視ミュラーリヤー錯視などほかの錯視でも同様のことが起きる)では、同じ大きさのチップが、違う大きさに見えるが、そのチップを掴ませるとちゃんとつかむことができる(手は正しい大きさをちゃんと把握できている)

The argument

ナナイの主張は、以下の4つの命題から構成される。

(a)The depicted object represented by ventral perception
(a)描かれた対象は腹側知覚によって表象されている
(b)The depicted object is not represented by dorsal perception
(b)描かれた対象は背側知覚によって表象されていない
(c)The surface of the picture is represented by dorsal perception
(c)画像の表面は背側知覚によって表象されている
(d)The surface of the picture is not represented by ventral perception
(d)画像の表面は腹側知覚によって表象されていない

以下、それぞれの命題について解説している。

  • (a)The depicted object represented by ventral perception

これは特に議論の分かれるところではない
Visual agnosiaの患者に線を書き写させるとできるのだが、その線が不可能物体を描いているかどうか尋ねても答えられない
(つまり、腹側経路が損傷していると、描かれている対象を表象できていない)

  • (b)The depicted object is not represented by dorsal perception

背側知覚というのは、対象を自己中心的egocentricな空間に位置づけるという知覚。
自分に対して、どれくらいの距離や角度にその対象があるのか、という知覚で、これによって手を伸ばして掴むとかができる。
自己中心的な空間に位置づけるとはどういうことか→対象に対してインタラクトすること、エヴァンズは、自己中心的な空間のことをアクション空間として理解している
絵の中に描かれたものについて触ったり掴んだり匂いを嗅いだりすることができない
絵の表面は触ったり掴んだり匂いを嗅いだりすることができる
ところで、この理解だと、絵に描かれたものは、遠いものと同じようなものだということになってしまう
操作することができるかどうかは必要ではない
自分が動いたら、距離が近くなるという期待することが必要

  • (c)The surface of the picture is represented by dorsal perception

Matthenは、「表面は、背側知覚によって表象されうる(can be represented)」と主張した
対して、ナナイは、「表面は、背側知覚によって表象されなければならない」という、より強い主張を主張する
絵を斜めの向きから見ても絵の中の対象は歪んで見えない現象
→Pirenneが、表面の向きについての知覚が補正していると説明した
→その後、これに対する疑問が挙げられるようになった
→腹側経路と背側経路の知覚の区別を導入することで、補正説がすくいあげられる
→Prenneやそれに対する疑問において言われていた「表面の向きについての知覚」は腹側経路によるもの。背側経路によって、表面が知覚されていると考えればよい

  • (d)The surface of the picture is not represented by ventral perception

(a)〜(c)の主張は、表象しなければならない、あるいは表象していてはならない、という主張だけど、こっちは、表象していなくてよい、という主張になる。
表面の特徴を認知する必要はない。
普通は、画像の表面を腹側で知覚していることはないのだけど、腹側で知覚したからといって、画像経験でなくなるというわけではない、と。
ナナイは、seeing-inと美的鑑賞とを区別(ウォルハイムの二面性の説明は、この二つを区別していないので曖昧になっているというのが、ナナイの主張)
(1)絵の表面へ腹側的な注意を向けることは、美的鑑賞にとって必要
(2)美的鑑賞は、seeing-inにとって必要ではない
ゆえに
表面への腹側的な注意はseeing-inにとって必要ではない
→(d)

Two objections

考えられるうる2つの反論

  • (1)絵の中の絵はどうなる?

Aという絵の中にBという絵が描かれていて、Bという絵の中にCが描かれているとする。
Bは、描かれた対象なので、腹側で知覚されているけれど背側では知覚されていない。
ところで、CをBの中に見る(seein-in)ためには、Bは背側で知覚されていなければならないはず。
しかし、Bは背側で知覚されていないので、CをBの中に見るという経験が生じないことになる。
となると、Cを描いたBという絵がAという絵の中に描かれているということが説明できなくなってしまうのではないか、と。
これに対してナナイは、CはBの中に見えない、CはAの中に見えているのだと主張する方向へと進む。

  • (2)背側が失調してる人にとって画像経験はない?

画像経験であるためには、画像の表面が背側で知覚される必要があるが、背側経路が失調している人は、画像的な経験ができないということになるのか?
実験でこれを確かめた例は存在していないが、ナナイが、背側経路が失調している患者とともに研究している研究者に話を聞いたところ、患者に画像が見えないということはないと思う、と言われたらしい(private communication)。
これってナナイ説に対する反例ではないのか、と。
ナナイは、しかし、これは問題ないという。
そもそもこうした患者にとって、普通の生活においてもあまり支障はなくて、中心窩の視覚なんかは腹側で補ってしまっているのだ、と。画像経験も、腹側で補っている可能性がある、と。

Conclusions: Twofoldness revisited

ウォルハイムの二面性概念にあった曖昧さを、明確にした上で、経験的にテスト可能な形に、改訂したのが、自分の知覚説だよ、という結論。