ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる』(源河亨訳)

サブタイトルは、「情動の身体知覚説」
認知科学、心理学、文化人類学などの情動研究に基づいた、情動についての哲学の本。
情動についての哲学とは、つまり、情動についての理論的・概念的な分析がなされているということ。そもそも情動とは一体何なのかという、経験科学的な探求の前段階にあたる分析をしているという点で、哲学的。哲学においてこのような分析は、日常的な言葉の使い方や直観などをベースに行われることが多いと思われるが、この本では、そうしたものも当然ベースにしつつ、それに加えて上述したような経験科学における情動研究の知見も踏まえている。
筆者は、いわゆるジェームズ−ランゲ説、近年ではダマシオによって主張されている、身体説(の改良版)を唱えている。
原著タイトルは「Gut Reactions(内臓の反応)」であり、まさにこの説をそのまま言い表しているといえる。
ちなみに邦訳タイトル「はらわたが煮えくりかえる」は、怒りについての表現だが、本書自体は怒りだけでなく情動・感情全般を扱っている。身体にまつわる情動の表現を使っていて、インパクトもあるよい邦訳タイトルだと思う。このタイトルについて、あとがきによると、植村玄輝氏の発案によるものらしい。もともと、サブタイトルをメインタイトルにする予定だったとか。


筆者は、情動の身体性評価説を唱える。
これは、まず第一に、情動とは、身体反応・身体的状態についての知覚であるという説である。
情動は、身体的状態についての知覚なので、身体的状態を表象している。一方で、その身体的状態を介して、例えば「ヘビという危険が迫っている」などの中心的関係テーマも表象している、というのがプリンツの説のポイントである。表象の名目的内容と実質的内容の区別にもとづき、身体的状態が名目的内容、中心的関係テーマが実質的内容ということになる。
これに加えて、筆者は、情動は感情価マーカーを持つと考えている。
つまり、情動=知覚表象(身体的状態/中心的関係テーマ)+感情価マーカーということになる。
身体的状態知覚を通して、中心的関係テーマについて、認知(判断や推論)を介さずに評価しているのが、情動だということになる。
これは、情動の身体説と認知説という相反する説を組み合わせたものともいえる。


情動の身体説というと、自分はかつてアントニオ・ダマシオ『感じる脳』 - logical cypher scapeを読んで感銘を受けたことがあったので、これがさらに練り上げられているものということで、面白かった。
また、認知説についても取り上げられているので、ウォルトンがフィクションのパラドックスの議論で前提にしていたのがどういう考え方なのかがなんとなく分かった。ウォルトンがいう準情動は身体性だけれども、それだけでは情動にならない(個別化できない)ので信念が必要となる、というのが、オーソドックスな身体説への批判とそれを補完する認知との複合説という感じ。


本書では、

  • 情動が自然なクラスを形成しているか
  • 基礎的情動にはどのようなものがあるか
  • 情動は、生得的なものか文化的なものか
  • 情動以外の感情的なもの(気分や動機付けなど)について
  • 情動の意識的性質について

といったことが論じられており、包括的な情動の理論となっている。

訳語について

本書では、emotionを情動、affectを感情、feelingを感じと訳している。
これら3つは、どれも「感情」と訳されることのある単語なので注意が必要である。
ちなみに、ここでは感情affectが、情動emotionだけでなく、気分mood、動機付けmotivation、心情sentimentなどを含む上位カテゴリとされている。
情動emotionは、怒り、悲しみ、喜びなどのことである。

はらわたが煮えくりかえる: 情動の身体知覚説

はらわたが煮えくりかえる: 情動の身体知覚説

はじめに──はらわたが煮えくりかえる
第1章 導入──情念の切り分け
第2章 考えられていない感じ
第3章 身体性の評価
第4章 基本情動と自然種
第5章 情動と自然
第6章 情動と教育
第7章 感情価
第8章 感情的状態の分類
第9章 情動の意識
第10章 怒ることは赤さを見るようなことなのか
おわりに──分割方法
訳者解説
参考文献
索引


第1章 導入──情念の切り分け

まず、これまで提案されている様々な情動に関する理論・説が紹介されている。
情動について考えるとき、情動に関わるエピソードの中には様々な要素が含まれている。
情動についての理論はまず、
その中の要素のうち、どれか一部を情動と同一視する理論と
複数の要素を情動とする理論とに分けられる。

感じ説

情動とは、「感じ」である。

  • 身体感じ説

感じは身体からやってくる
いわゆる、ジェームズ=ランゲ説(ウィリアム・ジェームズとカール・ランゲによってそれぞれ独自に提唱された。ジェームズ=ランゲのジェームズが、プラグマティズムのジェームズだって気付いてなかった……)
この説はわりとすぐに否定されてきた(個別化を説明出来ない)歴史を持つのだけど、近年では、ダマシオによって復活しつつある。
ダマシオの場合、「あたかもループ」というのを想定しているのが、ジェームズとの違い

行動説

情動を行動への傾向性、もしくは行動反応と同一視する。
前者はライル、スキナー、後者はワトソン

処理モード説

情動を、行動ではなく、認知的処理能力の変化・影響と結びつける。

純粋な認知説

情動を思考(判断など)と同一視する
哲学者によって擁護されていることが多い。最古の認知説はストア派まで遡る。
ソロモンやヌスバウム
思考に、欲求や願望も加えるゴードンやワーナーなど

純粋でない認知説

思考+何か(感じなど)
古くからよくある立場。アリストテレスデカルト、ヒューム、スピノザなど

認知的ラベルづけ説(「純粋でない認知説」の一種)

心理学者シャクターとシンガーによる説
身体変化と、それに続く認知的解釈が、情動

認知的原因説(「純粋でない認知説」の一種)

思考がまず生じ、これが原因となって他の状態(感じ、身体変化、行動など)を引き起こすという説
心理学者に人気

  • 多次元評価説

アーノルド、ラザルス
現代の情動研究において支配的な理論
アーノルドでは3次元、ラザルスでは6次元の軸による評価によって、情動を分類する
例えば、情動の対象が「自分の目標と関連するかどうか」「目標を促進するか妨害するか」「非難か賞賛か」など。
個々の次元による評価を「分子評価」、これらの判断の要約を「モル評価」と呼ぶ
例えば、「怒り」の分子評価は、目標と関連している・誰かが非難されるべきなど
「怒り」のモル評価は、自分が侮辱的な侵害を受けているという認識
このモル評価は、「中心的関係テーマ」を表す
情動と評価を同一視しているわけではなく、評価は情動の原因・必要条件

包括説

さまざまな要素のすべてが情動
フライダやエクマン
エクマンは、情動を「感情プログラム」と同一視する

複合理論の分類
  • 多機能複合説

情動の中の複数の要素は、ある単一の情動の複数の側面と考える
身体感じ説やアリストテレス

  • *多要素複合説

情動を、複数の要素からなる構造的なものだととらえる
認知的ラベル付け説など

  • 必要条件複合説

多次元評価説やヒュームなど

第2章 考えられていない感じ

2章では、認知説と非認知説を検証し、両者の調停を目指す

認知説を構成する3つの仮説
  • 概念化仮説

情動には概念が必要である

  • 非身体性仮説

情動に含まれる認知的要素は、身体と切り離されている

  • 評価仮説

情動と評価を同一視する
評価とは、有機体の福利に関わる、有機体と環境とのあいだの関係

認知説を裏付ける証拠
  • 哲学的なもの

合理性に関わる語彙を使って情動を判定することが多い
情動は何かに向けられている
情動は秩序だったグループから作られている
プリンツは、これら個々の議論に反論した上で、さらに「直観」を用いる哲学の方法論自体の問題点も指摘している。ただし、哲学の方法論がだめというわけではなく、哲学と科学両方の方法論が必要だという立場

  • 心理学的なもの

思考が情動反応に影響していることを示す実験
60年代から90年代にかけて、ラザルスやシェーラーらが行ってきた実験が紹介されている。
プリンツは、これらの実験結果は認知説と整合的ではあるが、決め手となる証拠には欠くとしている。

ザイアンス/ラザルス論争

1980年、ザイアンスは非認知説を主張し、これにラザルスが反論した。
ザイアンスの主張
(1)情動は系統発生的にも個体発生的にも認知に先立つ
(2)情動と認知の解剖学的な神経構造は別
(ザイアンスは、右半球と左半球の局所化を挙げているが、近年の研究の進展を鑑みて、プリンツ扁桃体の研究によって支持されると述べている)
(3)評価と感情が相関しない場合
評価が変化しても感情が変化しない場合がある(例:怒った理由が間違った認識に基づいていたことに気付いても、怒りは消えない)
(4)情動反応は評価なしにも成立する
(5)情動状態はそれに先行する心的状態が何もなくとも生じうる
「顔面フィードバック現象」→被験者は表情と一致するような評価を選んでしまう
こうしたザイアンスに対するラザルスの反論も紹介し検討した上で、プリンツは、ラザルスが(2)や(4)(5)の点をうまく説明出来ていないとしている。
しかし、ではザイアンスが全面に正しいのか
認知を「概念を含む、非身体的な」ものととらえるならザイアンスが正しいが、そもそも「認知」とは一体何なのか
認知科学において認知は適切に定義されていない、という
その上でプリンツは、有機体の制御下に心的状態を「認知」と定義し、認知作用と認知とを区別する。しかし、それでも情動は認知作用でも認知的でもないとする。
プリンツは、認知説の、概念化仮説と非身体性仮説を否定した点でザイアンスは正しく、評価説を擁護する点でラザルスが正しいと述べ、次章で展開する自説が、この両者を調停すると主張する

第3章 身体性の評価

情動についての身体性評価説

情動=心的表象

ドレツキの表象理論をもとに、まずこれを示す
情動が表象であることを示すには、情動は特定のものによって作動させられ、その特定のものによって作動させられるために備わったことを示す必要がある

個別的対象と形式的対象

情動を引き起こすものは、多様であるように思われる
これに対して、表象の個別的対象と形式的対象とを区別する。後者は、性質にあたる。例えば、悲しみは「子どもの死」という個別的対象と「喪失」という形式的対象をもつ
悲しみは喪失を表象するという考えは、ラザルスの中心的関係テーマの主張と対応する。
ドレツキによれば、複雑なものを表象するのに、表象も複雑である必要はない。表象は構造を持たなくても、複雑なものを表象することができる。

実質的内容と名目的内容

表象であるためには、単に引き起こすことを示すだけではだめ
「情動は、身体的変化と中心的関係的テーマの両方によって引き起こされるが、後者を探知する機能しかもたない→情動は、中心的関係テーマによって引き起こされるために備わった」
あるものについて本質的な性質を「実質的内容」(例えば、犬にとっての犬ゲノムなど)
本質的ではないがあるものを探知するために使える性質を「名目的内容」(例えば、犬にとっての吠える、尻尾をふる、毛があるなど)
吠えることや尻尾をふることや毛があることなどを記録することによって、犬を探知する表象を、犬の「外見追跡探知機」と呼ぶことにする。
情動は、中心的関係テーマの外見追跡探知機である。
身体状態の変化を記録することによって、中心的関係テーマを追跡する
これにより、情動は、中心的関係テーマを明確に記述することなく、それを表象することができる。
身体説と評価説の融合
この他、この章では身体説への反論などに答えている

情動は、身体変化を追跡することによって、有機体と環境の関係の変化を表象している。情動は、生理的反応のパターンを記録することで評価を下しているのである。そして、この主張が重要な調停となっている。一般的には、情動と評価を結びつける考えは、情動と生理的変化を同一視する考えとは折り合いがつかないとみなされている。だが私は、この断絶は見せかけだと主張した。情動は、身体変化を記録することで評価を下す状態なのである。この考えを「身体性評価説」と呼ぶことにしよう。(中略)感じがあれば認知は必要ではなくなる。というのも、感じは情報を担っているからである。(p.132)


第4章 基本情動と自然種

この章は、いかにも哲学ならではの論点だなという感じ
情動は自然なクラスを形成しているのか、情動は自然種であるのか、という論点を取り上げている。
ただ、この章の始まりの論点は、確かに自然種かどうかという、哲学やってない人には馴染みのない論点ではあるのだけど、その後、基本情動と派生情動の話になり、これは比較的馴染みやすい話題だと思う。
そして、この議論に対してプリンツが提示する解決策は、その後の議論にも影響してくる

不統一テーゼ

「情動は自然なクラスを形成しない」=不統一テーゼ
アメリー・ローティ、ド・スーザ、ポール・グリフィスが展開
特にこの章では、グリフィスによる議論が紹介・検討される。
自然種については、ボイドの恒常的性質クラスター説が採用されている。
グリフィスは、情動が少なくとも2つの相容れないサブカテゴリーに区分されると述べる。
1つは、エクマンがいうところの「感情プログラム」
もう一つは、高次認知情動(嫉妬、罪悪感、恥、埃、忠誠心など)
前者は、モジュラー的なシステムで、人間以外の動物も持っている
後者は、非モジュラー的で、信念と相互作用するコミットメント固定装置で、人間特有
カニズムも進化的説明も異なる、とグリフィスは主張
素朴心理学でこれら2つが同一カテゴリーとされるのは、どちらも「侵入性の動機付け」を行うから
どちらも「侵入性の動機付け」を行うなら、それをもとにより、高階のカテゴリーとなっていると考えればいいのでは? →疲労など明らかに情動でないものを侵入性の動機付けとなるので、あまりよくない

基本情動

情動クラスの統一性を主張するためには、基本情動を仮定し、情動は、基本情動と派生情動からなると考える
基本情動があるという考えは、古くから多く主張されてきた
アプローチも様々で、心理学的なもの、解剖学的なもの、概念分析的なもの
プリンツは、何が基本情動か判定する決定的なテストはないが、様々な証拠を集めていくことで、リストが作れるのではないかと考えている。
これまで無数の基本情動リストが作られてきたが、全然一致していないということから、基本情動への懐疑論もあるが、プリンツは情動の科学がまだ未成熟なだけで、基本情動という枠組そのものへの疑いにはならないとしている。

高次認知情動と身体性

感情プログラムと高次認知情動は別物、というグリフィスに反論するために、身体評価説は、高次認知情動は、派生情動であることによって説明し、身体性の評価と結びついていることを論じる
高次認知衝動にも身体反応が含まれるという質問調査や、脳活動イメージング研究からの証拠もある。また、部分的にモジュラー性があることを示す証拠もある。

情動の認知的精緻化(表象の較正)

高次認知情動には、身体性の評価と非身体的な判断とを組み合わせたように思えるものがある。
認知的に精緻化された身体性の評価、と考えることで、身体性評価説に組み込む
ここで、ドレツキによる表象の較正・再較正という考えが導入される。
表象は、その機能を進化的に獲得するが、その後、別の使い方をすることもできる
表象ではない例として、例えば「咳」は、喉を掃除するために進化的に獲得されたが、スパイ同士の間で何かを連絡するためにも使うことができる。
例えば、「怒り」が進化的に獲得されたものだとして、不貞を表象するものとして再較正されたものが「嫉妬」である、と。
このような再較正を引き起こすためのメカニズムとして、長期記憶の中に蓄えられるデータを「較正ファイル」と呼ぶことにする。
プリンツは、基本情動と派生情動とを、この較正ファイルの起源によって区別するという説明の仕方を提案する。
つまり、較正ファイルが自然選択によるものは基本情動、そうではなく新しいファイルを組み入れたら基本的ではない情動、というように。

第5章 情動と自然

情動は、生得的なものか文化的なものか
生得的かどうかという検討を第5章で、文化的なものかという検討を第6章で行っている。
ここでは、情動を単に生得的であるというだけでなく、適応であると考える立場を「生物学的還元主義」と呼ぶ
全ての情動についての還元主義を「包括的還元主義」
基本情動だけの還元主義を「限定的還元主義」
また、生得的な情動は、情動についての英単語(例えば「恐怖fear」など)に対応づけられるという考えを「翻訳可能性テーゼ」とし、これを支持する立場を「強い還元主義」と呼ぶこととする。

普遍性からの主張

エクマンによる文化横断的な表情の研究など、文化を越えて普遍的であることを証拠に生得的であることを主張する
エクマンの研究に対しては、ラッセルからの批判がある
ラッセルは、エクマンらがとった「強制選択法」をまず批判している(この表情はどの情動をあらわしているか問う時に、予め準備された選択肢から選ばせていること)。これに対して自由選択法による実験も行われているが、ここでは、複数の語が同義語として扱われている(悲しみや憐れみ、悩みを全て苦痛の同義語としている)。
また、一致のパーセンテージが決して高くないことも挙げている。
エクマンはこれに対して、完全に文化相対的であれば、もっとバラツキが大きくなると反論している。しかし、プリンツは、文化相対主義への反論としては有効だが、包括的な還元主義を支持することができないとしている。
エクマンは、類似したいくつかの情動がグループになって「家族」を作っているという調停案を示しているが、これは、ラッセルが「クラスター」と呼んだものと似ている。
この情動の家族説は、しかし、もはや強い還元主義には反している(ちなみに、その後の記述をみるに、プリンツはこの説に好意的)

乳幼児や人間以外の生物からの主張

乳幼児や人間以外の動物にも、情動のような反応が見られるという主張
これは確かにもっともであり、確かに情動には生物学的な基礎があるだろう、と
しかし、乳幼児や人間外の動物が、成人の人間と連続的であるということであって、成人のもつ情動が、文化に影響されていないことまでは示せない。

遺伝からの主張

情動そのものの遺伝子は見つけるのが難しいが、性格や気質の遺伝、気分障害の遺伝などからの主張
これもまた、情動に生物学的基礎があることを示す証拠にはなっているが、情動の還元主義までは示すことができない

進化心理学

これについては、それなりにページをさいているけれど、論調としては厳しめ
よくある進化心理学批判で、よくできたストーリーを提示してはいるけれど、生得的である証拠にはなっていない、と。
もし、その性質が生得的ならば(進化で獲得されたのであれば)、このようなストーリーによって獲得されたのだろう、ということは述べられているのだけど、肝心の前件の証拠はなく、そのストーリーを証拠だとしている。
しかし、非進化的な説明をするストーリーを作ることも可能で、結局、どちらの説明の方が正しいのかという証拠を示せていない、と。


結論

情動に対して、生物学的なものが重要なかたちで貢献しているのは確かだが、
包括的還元主義、限定的還元主義、強い還元主義いずれも支持できる十分な証拠はそろっていない。
情動は、生物学的な部分と文化的な部分、両方の影響を受けている

第6章 情動と教育

情動が、文化によって多様であることから、情動が社会的に構成されていると考える社会構成主義
こちらにも、「包括的構成主義」「限定的構成主義」「翻訳不可能性テーゼ」がある
限定的構成主義と限定的還元主義は、両立する
ダマシオや近年のエクマンは、両立論っぽい
むろん、本書も両立論の立場をとる

構成主義を示す議論

この章は、色々な文化の色々な情動について紹介されていて面白い
例えば、ミクロネシアの「ソング」(怒りに近い)、日本の「甘え」「いじらしさ」*1アメリカの「愛国心
また、文化に依存するとされる精神障害として、ネイティブ・アメリカンの「ウィティコ」(食人鬼になってしまうことへの恐怖)、マレーシアの「ラタ」(過度な驚愕や口汚い言葉の連呼など)、インドのアッサムや中国南部の「コロー」(性器が身体の中に入り込んでしまうことへの恐怖)、ニューギニアでの「野ブタになる」症例、欧米の「拒食症」など
ここらへんの議論をまとめると、構成主義者は、情動の原因や結果が、文化ごとに多様であることは示している。しかし、情動の原因や結果は情動そのものではない。情動そのものは、同じかもしれない。
3章に出てきた、個別的対象と形式的対象の区別が挙げられる。個別的対象は違うけれども、形式的対象は同じかも

身体評価説からみた構成主義

構成主義は、認知説の立場をとることが多い(文化によって変わりうるので、思考と関わっていると見なす)
しかし、身体評価説から構成主義を捉え直すことができる。
名目的内容として、身体的変化がある。例えば、呼吸の仕方は情動に対応するが、呼吸の仕方は学習や文化によって変えることができる。呼吸は文化的な影響を受ける。
「ラタ」や「野ブタになる」ことによる身体状態も名目的内容になる。
表情の作り方なども、文化によって異なるが、作られた表情のパターンは名目的内容になる
そういう形で、情動は文化に影響しうる
しかし、文化が情動を構成するのに寄与するとまではいえない。
名目的内容が異なっても、実質的内容が同じであれば、同じ情動とみされうる
実質的情動が同じものどうしで「家族」ないし「クラスタ」が作られ、その下位分類として、名目的内容が異なる情動がある、というようなカテゴリー分けとして考えられるのではないか。

文化の情動に対する構成的な寄与

文化的な影響によって、情動が派生する
派生のやり方には2つある

  • 混合

例えば、怒りと嫌悪が混合して軽蔑が生まれるのかも知れない
仮に、軽蔑が全ての文化でみられるとしても、軽蔑=生得的とはならない。簡単に混合するので、あらゆる文化でみられるということかもしれないから。
混合によって、実質的内容も変化する

  • 較正

シャーデンフロイデや恥、不名誉の感じなどは、較正された情動かもしれない
つまり、他人の苦しみに反応するように較正された喜び、自分が道徳に違反したことに較正された悲しみ、侮辱に較正された怒りなのかもしれない。

基本情動

ここで、基本情動の暫定的なリストを挙げられている
作業としては、基本情動としてあげられることの多いスタンダードな項目を挙げて、しかしそれらが派生的な情動であることを示している。
ここでこのような作業をしているポイントはおそらく、基本情動としてスタンダードな項目というのが、全て英語で名前の付けられている情動なのだが、実際に、基礎情動と英語で名付けられた情動とは完全に対応していないだろう、という点だろう。
また、較正の具体例も沢山出てくる。
また、やはり、情動を家族として語るやり方を支持している。
筆者が挙げた基本情動のリスト自体には、それほど意味はないと思う(暫定的なもの、思索的なものなので)が、一応挙げておくと、欲求不満、パニック、不安、身体的嫌悪、分離苦悩、自己嫌悪意識、充足、刺激、愛着である。

第7章 感情価

情動には、正の情動と負の情動があると考えられている。
この正負を「感情価」と呼ぶ
プリンツは、全ての情動は身体性評価と感情価マーカーをもつとする。
本来的に正のもの(喜び)、負のもの(悲しみ)、両方どちらかを持ちうるもの(驚き)、両方をもつもの(郷愁)

感情価の理論
  • 快不快説

感情価は快ないし不快とせする説
しかし、これは全て情動は意識的であることを前提としている。

  • 多元評価説からの説明

目標と一致するか否かとする説

  • 行動説

正の感情価は接近、負の感情価は撤退と結びつくという説
しかし、例えば怒りは負だが、接近を伴う

  • 学習理論に基づく説

特に、グレイによる理論
学習理論の強化子と結びつける
また、脳の中に、行動抑制系と行動接近系という神経回路があり、これらが正負の強化子に反応しているとする
これらの系が重要な役割を果たすことをプリンツは否定しないが、これらを感情価や情動と同一視することはできないとする

感情価=内的強化子

正の内的強化子は「これを増やせ」という指令で
負の内的強化子は「これを減らせ」という指令
行動の傾向を説明出来る上に、単純な行動説における問題点を回避できる
また、プリンツは感情価はそれ自体は感じをもたない、としている


プリンツは、情動をアルコール飲料にたとえ、身体性の評価が風味、感情価はアルコールだと述べる。

第8章 感情的状態の分類

この章は、情動emotionの仲間ともいうべきカテゴリーについて
身体性の評価と感情価マーカーで特徴づけられる、感情affect的なものが分類されている

態度的情動

これは、情動の中のサブカテゴリーとされる。
情動の中で、傾向性であるようなもの
ここで、ウォルハイムが出てくる。ウォルハイムには、On the emotionという著作があるらしい。

気分(mood)

気分と情動は、よく似ているが別物とされている。
結論からいうとプリンツは、気分もまた、情動の中のサブカテゴリーだと考えている。
気分と情動を区別するものとして、一般的に挙げられるのは、持続時間の長さ、傾向性かどうか、あるいは志向性を持つか否か(気分は何も表象していないと言われることがある)だが、プリンツはこれらの基準はどれも疑わしいとしている。
気分は、情動とほぼ同じものだが、情動が個別的なものを指示するのに対して、気分はより一般的なものを指示するという違いだとする。役割が、微妙に異なっていて、気分の方が情動に比べて、より大局的な判断に影響を与えるのではないかとしている。

心情(sentiment)

情動と同じ意味で使われることもあるが、プリンツによると、最近は「好き嫌い」を指す言葉らしい。
プリンツは、心情を情動の傾向性であるとしている。

感情価をもつ身体状態

疲労や痛み、かゆみ、くすぐったさなど、これらはどれも感情価を持ち、身体状態の変化と関わる。
プリンツの定義で、情動に含まれそうではあるが、情動ではない。
情動は、身体状態そのものの表象ではない。身体状態を記録することによって、中心的関係テーマを表象するもの
それに対して、疲労やかゆみなどは、身体状態そのものを表象する。
ただし、情動と関係する場合もある。プリンツは、痛みは情動そのものではないが、情動を含む状態であると考えている。

動機付け(motivation)

動機付けとは、飢え、渇き、性衝動など
これも情動と関わりあっているが、情動と違う点は、これらが行為指令だということ
情動は、内的強化子である感情価マーカーを持つが、行為を直接指令するものではない。動機付けは、情動によって引き出された行為指令

第9章 情動の意識

まず、プリンツは、無意識の情動というものを擁護する議論をする
情動とは常に意識的であるように思われるが、無意識のそれもあるのだ、と
身体評価説に従えば、情動とは知覚のことであり、知覚には無意識的なものもあるのだから、情動にもあるということになる。

意識のAIR

プリンツは、情動に限らず、意識についてAIR説というものを唱えている。
これは「注意を向けられた中間レベル表象Attended Intermediate-leve Representations」の略である(ジャッケンドフの知見に基づく説だとのこと)。
プリンツ本人がいうとおり、AIR説は、意識のハードプロブレムに応えるものではないが、意識という機能が脳の中のどの位置で担われているかという解剖学的な研究や、病理的な研究につながるような説にはなっている。
知覚は、低レベル、中間レベル、高レベルにわけられる。視覚であれば、低レベルは形や色などの断片、中間レベルはそれを統合させたもの、高レベルはより抽象的で、視点によらない認識となる。
中間レベル表象がワーキングメモリーへとつながるときに、意識が生じる、というのがAIR

情動のAIR

神経科学的な、あるいは脳機能イメージング的なダマシオの研究やレインらの研究に基づき、情動にも神経システムの処理において、階層分けされていることが示唆されており、AIR説と整合的だと述べられている。
また、視覚において、どのレベルで損傷が起こるかによって、異なる疾患が現れる(例えば、視覚経験がなくなるとか、視覚経験はあるけどそれが何なのか認識できないとか)
情動においても、無動無言症であるとか失感情症であるとかがあり、例えば失感情症は、情動の経験はあるがそれが何であるか認識できていない、高レベルの疾患なのではないかと

意識の役割とは

ワーキングメモリは、「熟慮」のための経路
低レベル表象は、熟慮のためには役に立たない
高レベル表象は、熟慮には使われているが、抽象的でそれだけでは足りない。
中間レベル表象は、視点的な表象なので、熟慮反応によく利用できる。
(例えば、クマが現れてそれに追いかけられているという状況。高レベル表象で、それが「クマ」だということが示されるが、自分から見て一体どこの方向からやってきているのか、などは中間レベル表象に属する。情動についても同様)

第10章 怒ることは赤さを見るようなことなのか

情動は知覚である、というのが本書の主張だが、そうはいっても、情動と知覚は違うのではないか、という疑問に答える章

観察不可能性

中心的関係テーマは観察不可能だが、知覚は、観察可能な性質にかかわるのではないかという反論
まずこれに対して、観察可能かどうかは知覚できるかどうかという意味だから、論点先取になっていることを指摘
また、中心的関係テーマは外界に存在しないという反論には、二次性質など知覚可能な関係性質があることをあげる

持続時間

トマトの知覚は、トマトが目の前にある間しか続かない
しかし、侮辱発言に対する怒りの情動は、その発言がなくなったあとも続く、という反論
これに対して
個別的対象と形式的対象の区別を持ち出すか(情動の知覚対象は、発言そのものではなくて、侵害という性質)
あるいは、怒りの向けられている対象は、発言ではなく人であると応答

行為

情動は行為を引き起こすが、知覚はそうではないという反論
これに対して
情動は、確かに行為を動機づけるけれども、直接行為を強制するわけではない
また逆に、知覚であっても、行為を促すものはある

間接性

情動は、間接的(ヒュームが、印象の印象だと述べたように)という反論
これに対する応答はちょっと面白い
例えば、共感覚の場合、あるいは視覚障害の人などが触覚を通じてものの形を知るような補助装置を用いて、「見る」感覚を獲得した場合、これらは間接的ではあるけれど、知覚ではないということはできないのでは、と
情動が、他の典型的な知覚と同様の意味で直接的ではないことは認めつつ、それによって知覚ではないということはない、という反論

モジュール性

知覚はモジュール性があるけど、情動はないのでは、という反論に対して
情動にもモジュール性っぽう性質は持っているよ、と

規範的評価

情動は、規範的な基準を与えられることが多い
例えば「その怒りは正当ではない」とか「その恐怖は非合理だ」とか
しかし、知覚に対してそのように言われることはない。
情動は、確かにこの点で知覚とは少し異なる。
情動の前提になる認識か、あるいは、情動をもたらす較正ファイルの中に含まれている信念などに、本人が責任を持つ部分があって、そこに対して「正当か」「合理的か」問われる余地があるのだ、と。
また、知覚によっても、場合によっては規範的基準が用いられる例を挙げている。

その他

本の内容は文句なしによいものであるが、残念なところをあげると、脱字が異常に多いということ。
脱字の箇所をいちいちチェックはしていなかったので、具体的な箇所の指摘はできないけれど、とにかく、助詞の脱字を主として、相当数の脱字があって、正直、今まで読んできた本の中でこんなに脱字が目に入ったものは他にないってレベルであったので、さすがにここに書かざるを得ない。
あと、「例えば」を「例ばえ」にしてしまうようなタイプの誤字も1,2箇所は見かけた気がする。

*1:ところで、本書の「いじらしい」の説明はなんか変な気がするのだが