長尾天『イヴ・タンギー―アーチの増殖』

タンギーが描く不定形物体について、批評的読解を試みる、博士論文をもとにした著作。
この不定形物体は、指示対象をもたない・言語と交換不可能であるが、三次元イリュージョンとして描かれているイメージである、という特徴付けをして、これが一体何に由来しているのか、他のシュールレアリストとはどこが違うのか、また他の画家にどのような影響を与えたのか、ということを論じている。


全8章構成で、1章はタンギーについての伝記的記述と先行研究。
タンギーの作品は、従来、その伝記的事実から解釈されることが多かった(故郷の風景をもとにしている云々)が、もっと他の文脈から読み解きましょう、というのが本書
第2章が総論で、3章から8章までが各論となっている。
シュールレアリストの画家は、基本的には、部分部分を取り出せば何を描いているかは分かる(言語へ変換可能)。しかし、その組み合わせ方が非現実的なものになっている。
「傘とミシンの手術台での出会い」であって、元々シュールレアリスムは、詩から始まってるので、絵の方も、既知の記号の組み合わせでよく分からないつくる、というところがある。
一方、タンギーは、その部分自体が何を指しているのか不明(不定形物体)という特徴がある。


3章では、タンギーが絵を描くきっかけともなったデ・キリコについて、そのデ・キリコショーペンハウアーニーチェからどのように影響を受けたかを論じて、なんでタンギーが無意味を描こうとしているのかを示す。
4章は、シュールレアリスムの原理であるデペイズマンとオートマティズムズムから、どのようにこの不定形物体が生まれたかを論じる。
5章は、当時流行していた心霊学におけるエクトプラズムと不定形物体を比較する。
6章は、バイオモーフィズムという美術批評用語から、20世紀の美術史の中にタンギーを位置づけ、他の画家と比較する。
7章では、タンギーから影響を受けたという、シュールレアリスムの中でも後発の画家たちについて論じる。
8章は、タンギーの2人目の妻であり、自身もシュールレアリストの画家であったケイ・セージについて論じ、セージからタンギーを逆照射する。


サブタイトルの「アーチの増殖」は、タンギーのほぼ最期の作品『弧の増殖』からとられている。また、アーチが、デ・キリコが「記号の孤独」(閉じていない、不完全なもの)を描くのに使ったモチーフとされていることから。

序論 アーチの増殖
第1章 生涯、作品、先行言説
第2章 イメージの領域
第3章 デ・キリコの無意味
第4章 無用な記号の消滅
第5章 未知の物体
第6章 生命形態的
第7章 タンギーの星
第8章 セージの答え
結論

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序論 アーチの増殖

第1章 生涯、作品、先行言説

1908年 パリ生まれ
1925年 ブルトンと出会い、シュルレアリスムのグループ入り
1928年 タンギー作品の基本的な構造が確立される
1930年 北アフリカ旅行
1939年 アメリカへ亡命
同年  ケイ・セージと結婚(再婚)
1955年 脳出血で逝去
タンギーのイメージについては「地方起源説」というものがある
両親の生まれ故郷であるブルターニュ地方の景色、あるいは1930年に旅行したアフリカなど、タンギーにゆかりのある地方に、そのイメージの由来を求めるという言説
また、タンギーのイメージについて語る言説は、文学的比喩へ向かっていく傾向もある
タンギーの絵は「何が描いている」とはっきりと言い表すことができない。そのために、様々なイメージを読み込んでしまう。
また、1928年に確立されて以降様式の変遷が全くない、タンギー自身が自作について語ったものがほとんど残されていないといった点で、美術史の手法で語れることがあまりない

第2章 イメージの領域

シュールレアリスムでは、デペイズマンという手法がある
読解可能な・言語と交換可能なイメージを、その配置によって読解不可能なイメージにする→不透明なイメージを作る
一方、タンギーは、あの不定形物体自体が、指示対象をもたず(何についてのイメージなのかわからない)、不透明なイメージ
デカルコマニーによるイメージも指示対象をもたないが、タンギー不定形物体は、(何を指示しているのかは分からないが)3次元的な何か物体を描いている、という点で、デカルコマニーによるイメージとも異なっている
ブルトンタンギーについて「具体的なものの核心そのもの」と述べた
筆者は、この「具体的なもの」について、そのイメージ以外には還元できないイメージのことではないか、と述べる
つまり、言語化不可能なものであること、一方で、物質的なレベル(絵筆の痕跡など)にも向かわないもの

第3章 デ・キリコの無意味

タンギーは、ある日、画廊の窓に飾ってあってキリコの絵を見て、画家になることを決めた、というエピソードがある
ブルトンもまた、ほぼ同じエピソードがある(画廊に飾ってるキリコを見つける)
ちなみに、タンギーブルトンの熱心な支持者だったらしい。ただ、ブルトンがセージと仲が悪く、アメリカ亡命後はタンギーブルトンも疎遠になったらしい


この章では、デ・キリコが一体何を描こうとしていたのか、彼が依拠していたショーペンハウアーニーチェから
生の無意味さ=形而上学的な根拠・真理などはないということ
(この要約はちょっと乱暴で、ショーペンハウアーニーチェで「無意味」という時にちょっと意味が違っていて、さらにキリコは、ショーペンハウアーの語彙を使ってニーチェの内容に近いことを言ってたりしているらしいが)
デ・キリコは、記号をコンテクストから切り離し(記号の孤独)、無意味でありなおかつ無限に解釈可能な、そういうのを描こうとしていた、と

第4章 無用な記号の消滅

シュールレアリスムの技法・原理である、デペイズマンとオートマティスム
当初、タンギーは、デペイズマン的な記号並置を行っている。他のシュールレアリスムの画家のモチーフを借用して、記号並置の実験をしている。
その後、オートマティスムへと移行していく。
下書きをせずに描く
オートマティスムは、そのままでは完全に抽象的なものになってしまう。シュールレアリスムは「形や色、絵の具や支持体そのものといった造形的、物質的要素のみに還元されることを拒む」。オートマティスムを使う画家であるマッソンは、女や魚など既知のものをイメージに読み込むことでこれを回避する。
が、タンギーは、オートマティスムを徹底するため、既知のイメージを読み込まない

この問題を解決するために、地平線を伴った空間が機能する。デペイズマンにおいてこの空間は、互いに隔たった記号を遠近法と言う統辞構造において結びつける手術台の役割を果たしていた。タンギーオートマティスムにおいてこの空間は、純粋な手の動きから生じる痕跡を(中略)三次元的イリュージョンに変換する装置として機能する。
p.126

地平線を伴った空間、あるいは影を付けることによって、オートマティスムで描かれた形を、三次元的な「物体」とする。
抽象でもなく、既知の何かを描いたものでもない、不定形物体ができあがる

第5章 未知の物体

当時流行していた心霊学における「エクトプラズム」と、不定形物体との類似を論じる。
まず、見た目が似ているのだが、それ以外に、性質が似ているという。
というのは、心霊学というのは、心霊現象を科学的に明らかにしようとする立場なので、エクトプラズムは物質である、実在していると主張するが、その一方で、常に未知のものでもあり続けなければならない。未知の物体である、という点が、似ている、と。
何故、エクトプラズムは未知のものでなければならなかったかというと、筆者は「トリックの産物だったから」と。一方でトリックの産物なのだけれど、他方で(科学なので)トリックを防ぐような条件がつけられていく。そうすると、不定形な物体になっていく(当初、顔のイメージとかも使われたけど、それだといかにもトリックになってしまう)。
証拠写真とされたものが何枚が掲載されていて、紙とか布とかをぐしゃぐしゃとまとめたものをそれっぽく撮っているという代物なんだけど、既存のイメージを使うよりは、トリックっぽさを減らせる、と。
で、未知を保持しようとする、という態度が、心霊学とシュルレアリスムに共通しているのではないか、と。


なお、タンギーは自作のタイトルを『心霊学概論』から引用しており、心霊学自体は知っていたと考えられる。が、影響を受けた可能性はあるとしても、タンギーが心霊学やエクトプラズムに基づいて不定形物体を創り出した、というわけではない、と筆者は述べている。
未知に対する態度が似ている、という類似なのだ、と

第6章 生命形態的

バイオモーフィック(生命形態的)ないしバイオモーフィズムとは、1930年代から60年代頃の美術批評で使われていた用語
非常に幅広く、様々な作家に対して使われていて、何か一つの様式を指すような言葉ではない。
抽象絵画シュールレアリスムの両方を総合するような概念として用いられていた。抽象と具象の中間としてのバイオモーフィック

バイオモーフィックなイメージは「生命」や「自然」といった指示対象を不可避的に含んでしまう点で純粋な「抽象」ではない。だが一方で、形が曖昧であるということは、その形が持つ意味もまた曖昧になるということである。
p.162


タンギーを、バイオモーフィズムの潮流に位置づけ、他の画家と比較する
まず、タンギーは、アルプやミロの影響を受けている。
アルプやミロの場合、タンギーのように三次元的ではなく、点や円が書き込まれることで、それが目になって、人や動物などの記号として機能する。
タンギーにはそういうのはない。
タンギーと同じような不定形物体を描いている画家として、マグリットがいる
しかし、マグリット不定形物体は、言語などと組み合わされることで、意味が生じている。
タンギーから影響を受けたと考えられる画家にダリがいる、逆に、タンギーもまたダリから影響を受けている。
ダリからの影響、及びアフリカ旅行・アフリカ旅行後に実験的に下書きがなされたこと経て、タンギーのイメージは少し変化して、不定形物体の輪郭がはっきりして「硬質かつ明瞭」になる。ふわふわと漂っていたのが地面についたものになる。
これは、バイオモーフィズムの「実体化」と並行した動きだとも指摘される
バイオモーフィズムの「実体化」とは、ピカソやミロ、ジャコメッティなどの彫刻作品のこと
しかし、タンギーは、彫刻を作ることはなかった。三次元的なイリュージョンによって描くが「実体化」はせず、あくまでもイメージの領域にとどまるタンギー

第7章 タンギーの星

ブルトンは、1930年代末から1940年代頭にかけて、シュールレアリスムの最近の動向として「オートマティスムへの回帰」があること、そして、若い世代んいタンギーの影響があることを指摘している
ここで若い世代として挙げられているのは、1910年代生まれの、ロベルト・マッタ、ゴードン・オンスロー-フォード、エステバン・フランセスらである
また、オートマティスムへの回帰という点では、ヴォルフガング・パーレンなども挙げられる
彼らは指示対象をもたないようなイメージを描いている。
オンスロー-フォードは、アメリカ亡命後に行った講演で、自分たちの動向を、ユングの「集合的無意識」というキーワードを使って述べているが、筆者はこれを「心的エネルギーの場」と捉える。そして、タンギーもまた、心的エネルギーの場として、フロイトエスをとらえていたのではないか、というような話

第8章 セージの答え

タンギーの2番目のパートナーであるケイ・セージについて
彼女は1898年アメリカ生まれだが、子どものころから母に連れられてヨーロッパ旅行をしており、両親の離婚後は、母とともにヨーロッパで暮らす。30代にパリで暮らし始め、シュールレアリスムのグループへ参加。その後、シュルレアリストたちのアメリカ亡命を支援。1940年には、アメリカでタンギーと結婚(再婚)。タンギーの死後、精神状態が悪化し、1963年にピストル自殺
彼女の絵の特徴として、筆者は、ヴェール(何かを覆い隠す布)とフレーム(建築物の鉄骨のような構造体)を挙げる
これもまた、キリコやタンギーと同様、意味作用の可能性と不可能性を表したものだと論じられているが、特に、不可能性、空虚さが強調されている、とする。
ブルトンはセージと折り合いが悪く、またタンギーもセージの絵についてはあまり評価していなかったらしいのだが、筆者は、セージの絵がタンギーの絵の不可能性という側面を特に反映するような作品だと解釈している

感想というか

ここ最近の自分の読書の流れからすると(美術関係の本を読んでいるとはいえ)、やや唐突なタンギーかもしれない。
実際、シュールレアリスムはそこそこ好きで、過去にいくつか展覧会を見に行ったりもしているが、タンギーに特に注目していたり、好きだったりということもあまりなかった。
ただ、この本でまさに特徴付けられている通り、何か具体的な対象を描いているわけではないのだが、抽象絵画とかそういうわけではなく、なんかなにかを描いている、というのに、興味をひかれて、実はタンギーは気になっていた。
で、この本を数年前からいつか読むリストに入れていて、ようやく読む順番が回ってきた。


具象と抽象の間、みたいなのが、美術の中でも好きだし興味のある領域で*1、美術以外でも、『フィクションは重なり合う』で触れたミュージックビデオの話とか*2、『PRANK!』に投稿した「渦巻きの上を走る」で論じた渦巻きの話とかは、そういう関心のもとで書いている


この本は、タンギーについての研究書なので、ポップカルチャーへの言及などはないが、例えばシュールレアリスムとマンガについては鈴木雅雄編著『マンガを「見る」という体験』 - logical cypher scape2という本があったり、シュールレアリスム研究から色々応用して考えることもできなくはない気はする。


4章と6章が特に面白かった
エルンストのデカルコマニーとか、ダリとかは、何か既知のものに見立てたりするけれど、タンギーの場合、地平線を描くことと影をつけることで、オートマティスムで描かれたよくわからないものを、三次元の「物体」としている、というあたり
具象でもないけれど、抽象でもなく、絵の具や支持体などの物質的な次元にも向かわず、イメージの領域にとどまり続けた、というところが、やっぱり惹かれるところ
バイオモーフィックという言葉、全然知らなかったのだけど、具象と抽象の間にあるようなもの、あるいはシュールレアリスムと抽象表現主義を総合してしまおうとする概念、という意味では面白いなあ、と。というか、まさに自分の好きなのが大体そのあたりなので、好きなものが集まっている感じなんだけど、一方で、指しているものがあまりにも広すぎて、使い物になる概念なのかどうかはかなり謎(アール・ヌーヴォーにまで遡るとか言われてるし、シュルレアリスムだけでなく、ピカソデュシャンカンディンスキーもクレーもカルダーもポロックもロスコもデ・クーニングも入ってんだって)

*1:まあ、一番好きな画家は、思い切り抽象であるロスコなんだけど

*2:石岡良治『視覚文化「超」講義』 - logical cypher scape2によると、MVとシュールレアリスムは関係している