田之倉稔『ファシズムと文化』

イタリア戦間期の文化(文学・美術・音楽・映画・建築)をファシズムとの関係から見ていく本
イタリア戦間期の文化、断片的に何人か名前を聞いたことある程度だったので、概観するために読んだ。ネオレアリズモがファシスト政権時代に萌芽があったとか勉強になった。
しかし、イタリア人の名前むずい。というか、慣れてないから、何人も並ぶとよく分からなくなってくる。


色々な芸術家とファシスト体制との関係・距離感みたいな話で、当たり前だが人によって色々ある。
国からの支援を引き出すために戦略的にファシストになるという選択もあり、しかし、それによって完全に体制に飲み込まれていく人もいれば、体制の中での抵抗を示す人もいる。あるいは、反ファシズムに転ずるわけではないが、中立的な距離を保つ人、そしてもちろん、反ファシストな人もいる。
あえてファシストになる人だけでなく、もちろん、そもそも思想がファシストと近くて一緒になる人もいるし、そもそもは近かったのだけど、離れていく人もいる。

時代概念としてのファシズム

ファシズム」という言葉は拡大解釈されて、色々なものをファシズムと呼ぶようになっているけれど、本来は、戦間期のイタリアの政治思想を指す。
しかし、そのように限定してなお、ファシズムという思想は多義的というか、結構幅がある。
ナチズムに比べると、文化に対して「寛容」にみえるところがあった。ただし、これもファシズムの中に幅があったので、相対的に寛容に見えるだけであって、決して自由だったわけではない。
当時の歴史や文化をファシスト側の資料からみていく、というのはあまりやられていないし、ともするとファシズム肯定と見られかねないが、無論、本書はファシズムという思想には批判的な立場をとりつつ、ファシスト側から当時の文化を概観していく。

1.ファシスト政権の成立から終焉まで

1章はまず、文化史をみていく前に、イタリアのファシスト政権の歴史を概観。
正直、「イタリアにはムッソリーニという独裁者がいて、第二次大戦では日独伊三国同盟が結ばれた」以上のことを、そういえば分かっていなかったので、勉強になった。


ムッソリーニは、もともとは社会主義者社会党に入っていた。
第一次世界大戦勃発時、イタリアは中立国であったが、のちに参戦した
(イタリア参戦の流れについては木村靖二『第一次世界大戦』 - logical cypher scape2で読んだ)
ムッソリーニも当初は中立の立場だったが、次第に参戦派となり、このあたりで右旋回が始まる。
1919年、ミラノで「イタリア戦闘ファッシ」結成
1921年、ローマで「ファシスト党」発足
各地方支部の党員がローマへ向かう「ローマ進軍」
太后ファシストに好意的であり、ヴィットーレ・エマヌエーレ3世はムッソリーニに組閣を支持し、ファシスト体制ができる
1924年の総選挙で過半数以上を獲得するが、同年、マッテオッティ事件が起きる
選挙の不正を訴えていた社会党議員のマッテオッティが、過激なファシストに殺害されたのである。
ファシストデモが起き、党内部でも対立が生じ、内外での危機に見舞われるも、国王がムッソリーニを支持したため、事なきをえる。
その後、エチオピア侵攻をはじめとしたアフリカ侵略を行い、さらにヨーロッパでも開戦し、第二次世界大戦へと突入していく。
1943年に、国王の命により逮捕され、いったん逃亡するものの、再度つかまり処刑される。逃亡の際、北イタリアのサロにサロ共和国を作っている。

2.前衛と体制

本章では、未来派、ならびにブラガーリア、ピランデッロという二人の劇作家が取り上げられる。

「未来主義」を宣言する一方、「過去主義」という言葉も作り、例えばヴェネツィアを「過去主義的都市」として攻撃し、ミラノを「未来主義的都市」として称揚した
(ミラノをめぐっては海野弘『アール・デコの時代』 - logical cypher scape2も)
第一次大戦勃発に際して、未来派は中立政策への反対運動を展開
未来派の画家ボッチョーニは戦死している
終戦後も、領土割譲されなかったことへの不満がおき、文学者のダンヌンツィオが義勇軍を率いて「フィウメ進軍」を行うが、これがのちにムッソリーニの「ローマ進軍」のモデルになったとされる。
「前衛」という点で、ファシスト党未来派には共通項があり、マリネッティムッソリーニへと接近し、ムッソリーニも当初、未来主義を支持した。
しかし、政権を握ると、急速に芸術政策は保守化していく。
未来派の中でも、ノイズ音楽や楽器「イントナルモーリ」制作で有名なルッソロや、カッラ、セヴェリーニといった画家は未来派を離れていく。
未来派1920年代にはその創造力を失っていく。
1929年、ファシスト党は、ファシズムを支持する文化人への栄誉として王立翰林院を設立。ダンヌンツィオが会長、マリネッティも会員となる

  • ブラガーリア

10代の頃に未来派に参加し、第一次大戦後から演劇活動を行い、1922年に「独立芸術家劇場」を創立。実験的な演劇活動をつづけた。
彼は、ムッソリーニに手紙を書いて、国家の支援を要請し、実際、ムッソリーニの支持を取り付けた。国家は演劇のメセナたるべし、という主張で、積極的にファシスト体制を支持した。
しかし一方で、若い前衛作家の作品や、例えばブレヒトの『三文オペラ』などの海外作品を上演するなどしていて、その演劇活動自体は非ファシスト的であり、ファシスト過激派から攻撃を受けてもいる。

小説家にして劇作家
もともとイタリア国内では有名であったが、1921年初演の戯曲『作者を探す六人の登場人物』が、22年のパリ公演以降、欧米で人気を博し、世界的な作家となる。特にニューヨークで大ヒットする。
ムッソリーニにとって、イタリアの評価をあげる人物としてピランデッロは認識された。
それは、アメリカのボクサーを倒したイタリア人ボクサーのカルネロと同じだった。ムッソリーニは、自転車やサッカーなども支援した(イタリアがサッカー強国になった要因らしい)。
そしてピランデッロは、マッテオッティ事件の際、ファシスト党の危機を救うべく、自らも入党する。
ピランデッロもまた、国家を演劇のメセナとみなし、芸術活動への国家の支援を受けるべくファシスト政権を支持していた。
彼は公的には最後までファシストであり続けたが、しかし、ある時期からファシズムとは次第に距離を置くようになった。
1934年にはノーベル文学賞を受賞し、授賞式ではやはり自分はファシストであると述べているのだが、ムッソリーニはこの受賞に対して何も反応していない。内務省において、ピランデッロは、反ファシストに転ずる可能性のある文化人として監視されていた。
1936年に亡くなっているが、故人の遺志により、葬儀への党の関与を拒否している。
彼を有名にした作品は『作者を探す六人の登場人物』だが、その後も『各人各説』『今宵は即興劇で』といった前衛作品を作り、遺作となった『山の巨人たち』は『六人』との対比で、俳優が観客を探すという作品らしい。

3.国家と音楽

ファシスト時代のイタリア国歌(ファシスト党歌)は「青春」
「老衰」したイタリアの再生
とはいえ、ファシスト未来派と違って、過去を全否定しておらず、古代ローマ文化やルネサンスバロック期の音楽を称揚した

オペラの世界でのナショナリズム的運動として「ヴェリズモ」(イタリア化した、フランスの自然主義)がある
プッチーニは、その流れの代表的作曲家
もともとプッチーニは、イタリア嫌いでドイツ好きだったのだが、ローマ進軍以降、ムッソリーニに共感する。イタリアが、ドイツのような強権的な国家になることを望んだらしい。
ムッソリーニも国際的に知名度の高い作曲家を厚遇した。
しかし、プッチーニ1924年に病没する

国際的に高い評価を得ていた指揮者
プッチーニの遺作のミラノ・スカラ座での初演で指揮したが、その際、「青春」の演奏を拒否した。この時、ムッソリーニは、指揮者の国際的な知名度を鑑みて、特に責めはしなかった。
が、1931年、ボローニャでの公演で再び「青春」を拒否し過激なファシスト党員が、トスカニーニに対して暴力をふるう。
一躍、トスカニーニは、反ファシズム運動のシンボルとなってしまう。
もともとトスカニーニは、第一次大戦については参戦派、「フィウメ進軍」への慰問公演もしていて、決して反ファシストではなかったが、この事件を機に、アメリカへ亡命し、反ファシスト運動をするようになる。

  • マスカーニ

明確にファシスト化する前に亡くなったプッチーニ、結果的に反ファシストとなったトスカニーニに対して、ファシスト体制に積極的に接近していったのがマスカーニである
プッチーニと同じくヴェリズモの作曲家だが、プッチーニと比較すると知名度はぐんと下がる。
ヴェリズモは次第に時代遅れになりつつあり、マスカーニ自身も作曲活動が停滞する中で、ムッソリーニとマスカーニは接近するようになる。
マスカーニもまた、国家を音楽のメセナとして支援を要請し、その見返りとして、国家行事での音楽演奏の際には必ず指揮をふるようになる。
1929年に、ピランデッロ、マリオネッティ、マルコーニとともに翰林院会員となっている(マルコーニは、無線電信の実用化に成功し、1909年にノーベル賞を受賞した物理学者。本書では注で解説されるにとどまる)。

4.映画と政治的イデオロギー

イタリアは、リュミエールが映画装置を作った翌年には映画製作をはじめた映画大国
特に史劇に力を入れて、1910年代は「史劇の黄金時代」
が、過剰生産が仇となり不況に陥り、1920年代には一気に製作本数が落ち込む。
映画輸出大国だったイタリアだったが、逆にアメリカ映画を輸入するようになる。
ファシスト政権は、アメリカ文化を嫌ったが、実際には映画を通じて大衆はアメリカ文化に親しんでいた

  • ブラゼッティ『太陽』(1929)

政府の干拓事業を扱った作品
「都市のファシズム化」から「農村のファシズム化」への政策変化をうけた作品
一方、ドキュメンタリー性から、のちのネオレアリズモへの先鞭をつけた。
ブラゼッティは、その後も、ファシスト体制の文化政策の一翼を担うような作品を制作しつつ、大衆娯楽作品も撮っていた

  • ネオレアリズモの萌芽

ネオレアリズモというと、主に戦後イタリアの映画潮流を指す言葉だが、戦後イタリア映画の発展を支える基礎は、ファシスト体制の中で生まれてきた、という
1934年、大衆文化省の中に映画局設置(のちに「映画産業国民協会」に改称され、ヴェネチア映画祭を企画)
1935年、「映画実験センター」設立
映画理論誌『ビアンコ・エ・ネーロ』創刊
1937年、イタリア版ハリウッド「チネチッタ」オープン

ネオレアリズモの代表的映画監督であり、代表作として『無防備都市』(1945)がある。この作品は、反ファシズム的な作品である。
ロッセリーニは、ブルジョワの家庭に育ち、ローマの映画館に出入りし、海外映画を見て育った。彼の家は、芸術家のサロンのようになっていて、マスカーニも常連だったし、ファシスト党幹部や政府の要人も出入りしていた。そういう環境で育った。
彼が本格的に映画製作を始めたのは32歳の時で『飛行士ルチャーノ・セッラ』のシナリオライターとしてだが、この映画の監修者は、ムッソリーニの長男ヴィットーリオであった。
1941年最初の長編映画として『白い船』を撮る
海軍の広報用で、海軍の病院船をドキュメンタリー・タッチで撮影した作品。厭戦的な雰囲気の作品らしいが、ヴェネツィア映画祭で「ファシスト党賞」を授賞し、ヴィットーリオの映画雑誌でも賞賛された。
翌年『帰還する飛行士』
こちらは、原案・監修はヴィットーリオ・ムッソリーニである
さらに翌年『十字架の男』
ロシア戦線に従軍した司祭の話。ファシストプロパガンダではないが、ファシスト政府の意向にそうような作品ではあった。
ロッセリーニは、戦後、反ファシズム的な作品を撮っており、インタビューではムッソリーニが政権をとった時から反ファシストだったと語っている。
しかし、内心は反ファシズムだったかもしれないが、戦前・戦中は、外形的にはやはりファシスト体制下の中で映画制作をしている

5.芸術の超越性

ファシストは「秩序への回帰」と「正常化」

美術批評家にしてムッソリーニの側近(かつ愛人)
1910年代、デ・キリコ未来派のカッラが出会って「メタフィジカ絵画」が生まれ、これを拡大していこうとする運動もあったが、保守化の流れの中で消えていく。
サルファッティは、新しい芸術運動が必要だと考えた
彼女は「ノヴェチェント」運動というものを展開しようとして、ノヴェチェント展を企画する。
1920年代、色々な画家を集めてくるのだけれど、結局、一つの様式としてまとまることはなかった。
秩序への回帰は、自然主義への回帰という含意があったが、この当時、もはや自然主義は少数派
ムッソリーニは当初、芸術家たちに寛容な態度を示したが、次第にファシズムというイデオロギーが優位に立っていき、プロパガンダこそ芸術の役割と考えるようになっていく。結局、ローマ進軍の様子の絵とか、ドゥーチェの肖像とかを描いてほしかったのだ。

  • マリオ・シローニ

ノヴェチェント運動に参加した画家で、戦後も高い評価を受けている。
バッラ((バレエ・リュスと未来派の邂逅について海野弘監修『華麗なる「バレエ・リュス」と舞台芸術の世界』 - logical cypher scape2に少し記載がある
))の弟子。第一次大戦に従軍し、ムッソリーニが政権をとったあと、ファシスト党へ入党
ファシスト政権の企画した美術展にもおおくかかわり、完全に体制寄りの画家ではある。
ただ、体制内部では、党内右派と対立して論陣を張り、抵抗を試みてもいた。
1930年代には、壁画運動も展開している。
体制に協力しつつ、個人の創造性も発揮させるのが、理念だった。

  • ジュゼッペ・テラーニ

建築家
ル・コルビジェやグロピウスに影響を受けたイタリアの若手建築家による「グループ7」の一員で、合理主義建築運動を推進した。
ファシスト党に入党したのち、ロシア戦線へ。精神的に疲弊し、故国送還後、1943年に突然死(自殺説もある)
サンテリーアに代表される未来派建築の空想的なモダニズム(実際、サンテーリアは設計プランのみで実際に建築されていない)は否定し、現実的なモダニズムをイタリアに導入しようとした。
伝統への回帰が唱えられる中、過去のものを否定した未来派は排除されていったが、豪理知主義建築運動は、過去のものは否定しなかった。しかし、伝統への回帰もしなかった。反ファシストの側に身を投じたパガーノという建築家もいたが、基本的に、ファシスト体制下に身を置いた。
建築家は施主の意向には逆らえない。ファシスト国家は最大の施主である。その点で、テラーニは忠実なファシストではあった。
最後のほうに、ローマ万博の話も出てくる。テラーニもコンペに出したが、テラーニ案は作用されなかった、と(ローマ万博については、暮沢剛巳・江藤光紀・鯖江秀樹・寺本敬子『幻の万博 紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス』 - logical cypher scape2)。