海野弘『アール・デコの時代』

1920年代のアール・デコと総称される芸術・文化・生活スタイルについて
最近、20世紀前半の文化史等についていくつか本を読んでいるが、このテーマの本を探していると、海野弘の本にあたることが多い。
ただし、アカデミックな研究者というわけではないので、この本も研究書ではない。様々な雑誌等に書いた記事を集めた本になっている。
1985年に出た本を2005年に文庫化したもので、初出は全て1980年代で、文庫化の際に追加収録したものも初出は1998・1999年である。
そういう経緯の本なので、内容としては繰り返しの部分も多い。また、記事によってはかなり短いものもある。
「デザイン」の時代であること、「女性」の時代であることが、わりと繰り返し強調されていた印象がある。
この時代のアメリカのことを知りたくてピックアップしていたのだが、内容としては、ほぼフランス・パリの話だった。まあ、それもそうか。

1 アール・デコの歴史とスタイル

一九二〇年代のアール・デコ

この記事は、1920年代から30年代にかけて普及した「三色信号機」を、現代の都市生活の象徴として、アール・デコと照らし合わせるところから始まる。
一つは、原色
アール・デコは、フォーヴやバレエ・リュスから原色を取り入れている
また、原色は人工的なものである
信号機は記号だが、ここから記号化とは複製化だと敷衍して、アール・デコのもう一つの特徴として「複製化」をあげる。
ここでアール・ヌーヴォーと対比されている。アール・ヌーヴォーがハンドメイドによる高品質な作品・製品をつくったのに対して、アール・デコはそうではない。
その例として、ルネ・ラリックがあげられる
ラリックはもともと宝石装飾を手がけていたが、1920年代からガラスへ移る。ガラスは一つの型からいくつも同じ作品を作ることができる。
筆者はそこからさらに「デザイン」が誕生したとする。
物ではなく形が重視される。パリのファッションがマスコミを通じて世界中で流行する。この時、デザインという形が商品となっている。


この「原色」「人工的」「複製」「デザイン」というのは、本書の様々なところで反復されている。ラリックの例も何度か出てくる。


アール・デコの由来は、1925年パリで開催された装飾美術(アール・デコラティヴ)の博覧会(アール・デコ展)から
狭義にはフランスのみをさすともいわれるが、広く、大戦間期の装飾スタイル一般もさす
バレエ・リュスなどのロシア趣味、ジャズなどのアメリカ趣味、ツタンカーメン発掘きっかけのエジプト趣味などが要素として入る(エキゾティシズム)。
スコットランドマッキントッシュやウィーン工房に源流がある。


少し遅れてアメリカでも広まる
第一次大戦後、アメリカ人が多くヨーロッパへと旅行へいった
(このアメリカ人がヨーロッパへ、という話も本書で繰り返し出てくる。当時のアメリカは禁酒法時代で、酒を飲みにヨーロッパへ行った、と。ジャズやドレスコードのゆるいバーなどのアメリカ文化がヨーロッパに広まり、一方、アール・デコアメリカへと持ち帰る)
エンパイヤー・ステート・ビルやクライスラー・ビルなど
アール・デコ」は、1970年代になってから再発見された
半世紀たってこれらのビルが取り壊しの対象になりはじめたことが、再発見のきっかけ
日本のアール・デコは、現在(この本が書かれた1980年代)、研究途上
日本での歴史区分は、明治・大正・昭和が一般的だが、筆者は「1920年代」という歴史区分の重要性を提言している。


なお「アール・デコ」という言い方は当時はなかったようである。もともと1つの潮流と見なされていたわけではなく、後年の再評価の中で名付けられていったようで、何を含むかは論者によって幅があるようである。上述の通り、広くは、大戦間期の装飾スタイル一般なので、内実としては違いがあるものもひっくるめて「アール・デコ」と称されていることもある。

アール・デコの二つの神話
  • プリミティズム

バレエ・リュスやウィーン工房がフォーク・アートから由来した要素を取り込んだように、アール・デコでは、プリミティズムがみられる
ここではその一例として、ファッション・デザイナーであるポール・ポワレの「マルチーヌ」というデザイン工房が取り上げられている。
1911年から1914年にかけてポワレが主宰したデザイン学校で、少女たちに自由に創作させた

  • エキゾティシズム

ここでは、彫刻家から工芸家になったジャン・デュナンが例に挙げられている。
彼は日本の漆技法を、日本人の職人から学び、取り入れていった

装飾とデザインの間

(省略)

ポスター

アール・ヌーヴォーからアール・デコ
遠距離からすばやく見てもわかるように「単純化」されたデザインへ
主要なモチーフは「機械」と「女性」
広告でよくあらわれるオブジェは、酒のボトル
ボトルを描いたポスターは19世紀末まではない。なぜなら、酒のボトルにラベルを貼って売るのが20世紀からだから。

インテリア

(省略)

(省略)

日本のアール・デコ(1)陶磁器

(省略)

日本のアール・デコ(2)挿絵

川端康成『浅草紅団』の太田三郎による挿絵
山名文夫による挿絵は、フォト・モンタージュの技法も使われている(ダダやロシア構成派を見ていたかもしれない。
井口壽乃・田中正之・村上博哉『西洋美術の歴史〈8〉20世紀―越境する現代美術』 - logical cypher scape2でベルリン・ダダがフォト・モンタージュを用いてた旨載っていた)
新青年』の表紙、松野一夫。ウィーン分離派からの影響

2 アール・デコの女性たち

この章には、以下7つの記事が収録されているが、この章に限らず、本書全体を通して、1920年代が女性の社会進出の時代であったことが繰り返し出てくる。
ところで、女性の社会進出については木村靖二『第一次世界大戦』 - logical cypher scape2において、女性の就労人口自体は変化しておらず、就労以外の社会参加が増えたという記載があった。
本書はその点についてまで意識されてはいないと思うが、社会進出の例として度々あがるのが、女性がスポーツをするようになったことと化粧をするようになったこと(女性だけで遊びに行くなど)であり、確かに、あまり労働についての例は出てこなかった。

ソフィスティケーテッド・レディ

「ソフィスティケーテッド」という単語は「洗練された」などのよい意味で使われるが、元々はむしろネガティブな意味で使われていた言葉で、1920年代に意味が変わったらしい。
もともと「人工的な」という意味合いの言葉で、それまでは、自然がよいもの、人工は悪いものだったので、ネガティブな意味だったが、1920年代頃からむしろ人工的なものにポジティブな意味がのってくる、と。

ポスターの中のモダン・ガール

男女でゴルフかなんかをしているポスターが取り上げられている。
1920年代の女性の社会進出として、スポーツをすることになったことが書かれている。

ヌードの一九二〇年代

ポストカードに描かれた女性について
海水浴をする水着姿の女性とか(上述の通り、女性がスポーツをするようになったという意味でもあるし、一方、現在から見ると露出の多くない水着だが、当時はポルノ的にも見られていた、と)
ヌードモデルをしていた女性として、マタ・ハリやモンパルナスのキキなどが紹介されている。

グレタ・ガルボの化粧

ベルリン・ダダの画家ハンナ・ヘッヒの、とあるフォト・モンタージュ作品について
女優グレタ・ガルボの顔のパーツがそれぞれ分割されて使われている。
かつて化粧するのは「プロの女性」だけだったのが、1920年代になって一般化
それにより、パターン化(本書では「デザイン」になったとも表現している)していったのではないか、と。ヘッヒが、グレタ・ガルボの化粧された顔をパーツに分割してしまったのはそのあらわれではないかというような話

ブラジャー 一九二八年

1928年、ケストスのブラジャーの広告について

アンナ・パブロワの時代

『アンナ・パブロワ』という映画があって、そのパンフレットに掲載された文章っぽい。
アンナ・パブロワはロシアの帝室バレエ出身のダンサー。
しかし、帝室バレエの保守性に反発。パトロンを見つけて渡英。その後、ディアギレフのバレエ・リュスに一時参加している。しかし、ディアギレフのところも満足できなくなり、独立する(イギリスで出会った人に「あなたはディアギレフ派? わたし派?」と聞くくらい)。

イサドラ・ダンカン

裸足のダンサーとして知られるイサドラ・ダンカン
今まで時折名前は見かけていて気になっていたのだが、イサドラ・ダンカンその人についてまとめている文章は読めていなかったので、面白かった。
古代ギリシア風の衣装を着て、トゥ・シューズを履かずに裸足でダンスした。
当時は、裸足で人前に出るということ自体、衝撃的だったらしい。


1877年サンフランシスコ生まれ。4人兄妹の末っ子。父親が破産していなくなったため貧窮しており、幼い頃からダンスをしたり、兄と芝居をしたりして、日銭を稼いでいた。
ニューヨークを経て、1900年にロンドンへ
当時のアメリカは価値観が保守的であり、彼女のダンスはアメリカよりもヨーロッパの方で受け入れられた。
1900年のパリ博で、ロイ・フラー貞奴のパフォーマンスや、ロダンの彫刻を見て、強い影響を受ける。
また、大英博物館ルーブル古代ギリシア彫刻を熱心に研究した。
1902年ロイ・フラーに誘われドイツへ行くが、ロイ・フラーのもとを離れる。
1903年ブダペスト公演を行う。彼女にとって初めて劇場での公演。これまで、富裕層のパーティなどで披露していただけだったので、ここで初めて一般客にも披露した。また、当時のブダペストは、パリなどで公演する前の前哨戦的な立ち位置で、後にバレエ・リュスもブダペスト公演を行っているとのこと。
1905年ペテルブルクへ来訪し、ディアギレフなどと出会う。
1904年に舞台演出家ゴートン・クレイグとの恋に落ちる。彼との出会いの際にフォーレの曲を演奏していたというエピソードがあった。以前、青柳いずみこ『パリの音楽サロン――ベルエポックから狂乱の時代まで』 - logical cypher scape2を読んでなかったら、フォーレに気付かなかったと思う。クレイグとの間に子どもができるが、結婚はしなかった。天才と天才の交際という感じ。お互い惹かれ合ってはいたけど、自分の活動を重視していた。
1909年には、パリス・シンガーと関係をもつ
パリス・シンガーは、シンガー・ミシンの御曹司でポリニャック大公妃の弟! ポリニャック大公妃については、やはりこれもまた、青柳いずみこ『パリの音楽サロン――ベルエポックから狂乱の時代まで』 - logical cypher scape2に出てきていた。
シンガーとの間にも子どもができ、結婚を迫られるが、これを断る。
その後、子供が2人とも事故死してしまうと、ダンススクール構想へとのめりこんでいく。
世界各地を巡ったが、1921年ソ連への移住を決める。周囲からは反対されるも、ダンススクール設立の希望を見ていたようだ。
言葉も通じない青年エセーニンと恋に落ち、結婚。アメリカ公演へ彼を同行させるための結婚だったとも言われているが、アメリカではよく思われなかった。エセーニンは別れて自殺している。

3 アール・デコの都市

“イン・スタイル”の時代

(省略)

パリ(1)エコール・ド・パリの時代

前半では、クロフツの『樽』というミステリ小説を解題しながら、当時のパリにいた若い画家志望者の典型例を紹介している。
モンパルナスを中心としたセーヌ左岸
これに対して、セーヌ右岸にはシュルレアリストたちがいた。
左岸は貧しく、右岸は富裕層が多いという違いがあり、シュルレアリストたちは左岸を蔑視していたらしい。
青柳いずみこ『パリの音楽サロン――ベルエポックから狂乱の時代まで』 - logical cypher scape2で、グロスコクトーを左岸へと結びつけた、というようなことが書いてあった気がする。


1920年代の特徴として、さまざまな階層や芸術家の交流をあげている。
つまり、上流階級とそれ以外の階級の間でも交流があったことと、画家と詩人などジャンルの違う芸術家同士の交流があったこと。後者は、バレエ・リュスなどにつながっていく。
それから、女性について
シルヴィア・ビーチの書店には、ジョイスヘミングウェイ、スタインが集った。ジョイスユリシーズ』はアメリカで発禁処分を受けており、シルヴィア・ビーチの手によって刊行された、とか。
また、パトロネスの時代でもあったとして、ガートルード・スタインペギー・グッゲンハイムミシェル・セール、ココ・シャネルの名前が挙がっている。
セールとシャネルは青柳いずみこ『パリの音楽サロン――ベルエポックから狂乱の時代まで』 - logical cypher scape2で読んだ。スタインについても名前は知っていたが、ペギー・グッゲンハイムはノーマーク(?)だった。
ココ・シャネルから、ファッションの一般化について
デザインが流通するということや、シャネルが漁民の作業服に着想を得てデザインした服があることなど

パリ(2)マン・レイのパリ、ナンシー・キュナードのパリ

右岸と左岸を行き来したマン・レイ
セーヌのサン・ルイ島に居を構えたナンシー・キュナード
ナンシーはイギリスの上流階級出身、1920年代のパトロネスで、シュルレアリスムをイギリスへ紹介した。
「一度見たら忘れられないような印象的な顔立ちやスタイル」と書かれているが、確かに眼光鋭い美人という感じである。象牙のブレスレットをいくつもつけていた、と。
ツァラと親しく、ブランクーシが彼女をモデルにした彫刻作品を作った。また、ルイ・アラゴンと交際していた。
アン・チザムによるナンシー・キュナードの伝記では、シュルレアリストが、女性観については保守的であったことを批判しているという。

ロンドン ブライト・ヤング・ピープル

1920年代のロンドンには、ブライト・ヤング・ピープルと呼ばれる若者たちがいた。
ミッドフォード・シスターズ(ミッドフォード男爵の娘たち)、作家のバーバラ・カートランド、さらには後のエドワード8世もブライト・ヤング・ピープルだった。
かつて、男女交際するには事前に友人も含めてディナーをして、などがあったが、大戦後、そういう金銭的余裕がなくなり、直接ダンスに誘うようになった。また、女性も女性だけで出歩くようになった。父親を戦争で亡くした家族がロンドンへ出てきたり。
ダンスホールやナイトクラブで遊ぶ。
メイフェア地区がロンドンのモンパルナスのようになった。
貴族の住宅地であるウエストランド(メイフェア地区含む)で、貴族の邸宅がホテルやアパートに変わっていき、住人が変化した。

ミラノ 一九二五年

ミラノは、自動車やファッションの街
イタリアでは、ローマ、フィレンツェ、ミラノなどがファッションの中心地となるべく互いに競い合っていたが、ミラノは、国際港があり、衣料の原料地とも近く、既製服の中心となる。
ミラノは国際都市でありビジネス都市であったが、それは全くイタリア的ではなかった。
しかし、シチリアから出稼ぎでミラノに流入してくるため、イタリア的でもあった。
ムッソリーニがその政治的勢力を拡大したのはミラノであったが、最後に処刑されたのもミラノであった。
ミラノ出身であるヴィスコンティの映画は、ミラノへの両義的な思いがこめられている。
この時代のイタリアの近代化を象徴するような街だが、相反する要素がせめぎあっている

ニューヨーク(1) アール・デコ・ハント

(省略)

ニューヨーク(2) ジャズ・エイジへの挽歌

映画『ワンス・アポン・タイム・イン・アメリカ』について

4 アール・デコの生活

ジャズ・エイジの自動車

初出は『Road Star』1983年1号~1984年6号とのことで、以下7つの記事
車は、現在の車もあんまりよくわかっていないので、クラシック・カーとなるとなおのこと無知で、読んでいても知らない固有名詞ばかりだった。あとからググって、こういう車なのかーと写真を見たりはしたが。

  • モードと自動車

1920年代の自動車メーカー・ハップモビールについて
独特の広告ポリシーを持っていた、と
ニュー・センチュリーという車を出しているが、広告には女性のイラストが使われている。
男性と女性の両方をターゲットにしており、男性が求める機能性だけでなく、女性が求める外観も重視した。
細かい違いで価格帯の異なる選択肢を用意するなど
1941年になくなっている

  • ブガッティ家の人々

ブガッティの創設者エットーレ・ブガッティは、ミラノ生まれのイタリア人だが、ドイツの会社で働いたのち、アルザス地方(第一次大戦を境にドイツ領からフランス領)に工場を作った。
祖父は彫刻家、父カルロは家具、食器、宝飾細工を手がけるデザイナーという芸術家一家に生まれる。
カルロはアール・ヌーヴォースタイルで、1900年のパリ万博にも出品している。
1910年に工場設立、1920年代に黄金期を迎える。1923年、ブガッティを代表するT35がつくられる。1930年代には息子のジャンがロワイヤル・ロードスターを作るが、ジャンは自動車事故で亡くなる

  • ハリウッドではなんに乗るか

イソッタ=フラスキーニについて
1900年にミラノに作られた会社で、一時期、ブガッティも属していたフランスのド・ディードリヒの配下にあったが、そこから抜けて、イタリアの会社であり続けた。
フィアットやイタラと並ぶイタリアを代表する自動車に
豪華でエレガントな外観で、多くがアメリカへ輸出された。
最後に、キャサリン・ヘップバーンのエピソードが紹介される。1932年にハリウッドに移った彼女が手に入れた車が、イソッタ=フラスキーニであった。ところが、映画でよく使われていた車の払い下げであったため、近所の人から笑われた、というエピソード
筆者は、しかし、映画によく使われたということは、それだけイソッタ=フラスキーニがかっこよかったということだろう、としている

  • ジョセフィン・ベーカーと車

ジョセフィン・ベーカーは、1920年代のパリを席巻したアメリカ出身の黒人ダンサー
車をたくさんプレゼントされており、その中でも有名だったのが、内装に蛇皮を用いたヴォワザンであった。
ガブリエル・ヴォワザンはもともと飛行機を作っていたが、第一次大戦終結後、自動車に転業。しかし、あまり売れず、1938年に閉じてしまうので、戦間期にのみ作られた自動車となった。
飛行機作りの経験を生かした、流線型のボディが特徴であった。
なお、ベーカーは、免許を取得し自分でも運転をしていたらしい。

  • スペインの王様が愛した車

スペインとスイスの自動車イスパノ・スイザ
革命で王位を追われたアルフォンソ13世は自動車ファンで、自動車レースを主催し、イスパノ・スイザには「アルフォンソ」というモデルもあった。
イスパノ・スイザは1911年にパリに工場を作り拡大していく。1920年代以降は、スペインよりもフランス工場の方が大きくなっていった。アルフォンソ13世も1931年に王位を追われる。

オハラは、日本ではあまり読まれていないが、アメリカでは人気の作家らしい。1930年代から作家活動を行い、ハリウッドのスクリーン・ライターとしてヒットした。
そんな彼か乗っていた車がデューセンバーグ
1920年から1937年まで作られていた車
シャーシだけを購入し、ボディをカスタムメイドするのが特徴。ハリウッドで人気があった車で、オハラもハリウッドで購入した。

  • 君はデュージイを見たかい

引き続きオハラとデューセンバーグ
オハラ自身をモデルにした作家の主人公が中古自動車を購入する小説が紹介されている

スポーツ ラグビーはジェントルマンズ・スポーツ

(省略)

ホテル 虚栄と孤独の劇場

世界最初のホテルは、1829年アメリカ・ボストンの「トレモント・ハウス」
ホテルの語源はホスピタルで、ホスピス、ホステルも同根
近代的なホテルと、従来までの宿屋(イン)との違い
(1)豪華で大きな建物
(2)絵看板や馬をとめる柵がない
→客は文字が読める・交通機関の変化
(3)入口に入るとまずロビーがある(インは、まずバールーム)
(4)客室はシングルとダブル
 「ボウル・アンド・ピッチャー」部屋で手が洗える
 部屋に鍵がついている
1920年代、観光旅行が盛んになりホテルが重要に
さらに、ホテルで生活する人も出現
ホテル生活の孤独と自由
ホテルは、パブリック・ルームがあるのも重要
1920年は広告の時代。セレブたちが自分たちをみせびらかすのが、ホテルのパブリック・ルームだった

バー ヘミングウェイの好きなバーで

(省略)

腕時計(1) エルキュール・ポワロの腕時計

アガサ・クリスティ『青列車の謎』から
青列車は、カレーから地中海のニースまでいく特急
この列車で富豪の娘が殺され、ポワロが事件を解決する。その際、列車に乗り合わせていたキャザリンがポワロを手伝う。
キャザリンは、英国の片田舎から旅行しにきていた女性。女性の一人旅というのが、1920年代の新しいライフスタイル
1920年代、時計は懐中時計と葉巻から腕時計とシガレットへと変わろうとする時代。
ポワロは腕時計をつけてシガレットを吸う。
ポワロはキャザリンのことを「人間牡蠣(ヒューマン・オイスター)」と評する。
ここから筆者は、ポワロの腕時計をロレックス・オイスターと結びつける。
ロレックス・オイスターは、1927年に英仏海峡を泳いで渡った女性、メルセデス・グライツがつけていた世界初の完全な防水時計
メルセデスは、自立する女性の象徴であり、筆者は、ともに英仏海峡を渡った女性として、キャザリンとメルセデスを重ねる。


この記事は、この後、アール・ヌーヴォーアール・デコの時代を整理した後、実際に、この時代の腕時計のデザインを確認している。
アール・デコを、1920年代のジグザグ・デコ、1930年代のストリームライン(流線型)・デコに分割している。
生井英孝『空の帝国 アメリカの20世紀』 - logical cypher scape2でマシン・エイジの美学としての「流線型」というのがあげられていたなあ。
本書では、リンドバーグが腕時計の広告に使われたという話もあった。

腕時計(2) カルティエアール・デコの時代

(省略)

腕時計(3) 一九二〇年代と腕時計

(省略)

三〇年代のざわめき ルシアン・エニェの世界

エニェは、1931年にベルサイユ宮殿での大統領選の様子をとった写真が出世作で、1935年に、国会復帰してごきげんのチャーチルや、同じく1935年に、緊張して鼻をつまむムッソリーニの写真を撮ったりしている。
政治的な時代となっていった1930年代に、それを少し斜にかまえて、政治的な人間の人間らしさを撮影した、と筆者は整理している。
また、パリの街頭を撮影した写真で、水着やマーティニのポスターが写されている。これらは1920年代から現れた新しい風俗だが、人々はこれらのポスターを見ておらず、参戦か非戦かという政治ビラを見つめている、という。
20年代と30年代は、戦間期としてひとつづきの時代だが、大恐慌を挟んで差異があるのだ、と。