田口晃『ウィーン 都市の近代』

19世紀から大戦間期にかけてのウィーン市政についての歴史
自由主義市政→キリスト教社会党市政→社会民主党市政という変遷を三部構成で追っている。
ウィーンという都市から見るヨーロッパないし中欧の近代政治史、とも言えるかもしれない。国政ではなく市政なので、時にかなり細かい話も出てくるけれど、人々の生活が多少は垣間見えるとも言えるかもしれない


世紀末から大戦間期のウィーンというと、哲学史的に言えば、論理実証主義ウィトゲンシュタインがいるし、フロイトもいるし、もちろん芸術分野には沢山いるし、経済学でもウィーン学派とかいるし、興味深い時代と場所なので、ちょっと何かしら本を読んでみたいなあと思っていた
あと、「シュピーゲル」シリーズの舞台も、ウィーン(作中では、ミリオポリスに改名されている)というのもあって、気になっている。

第1部 皇帝と市民のウィーン
 第一章 都市ウィーンの生い立ち
 第二章 市民の時代
 第三章 リング大通りの建設
第2部 青年ヒトラーのウィーン
 第一章 政治勢力の再編とキリスト教社会主義
 第二章 ルエーガーのウィーン
 第三章 世紀転換期ウィーンの文化と政治
第3部 赤いウィーン
 第一章 社会民主党市政
 第二章 “赤いウィーン”の実験
 第三章 大都市と住宅政策
 第四章 “赤いウィーン”の限界

ウィーン―都市の近代 (岩波新書)

ウィーン―都市の近代 (岩波新書)

第1部 皇帝と市民のウィーン

ざっと19世紀以前のウィーン史についておさえたのち、19世紀ウィーンについて


三月革命は弾圧されるが、その後、市政に議会制度が導入される。自由主義的で「小さい政府」志向。ガスや清掃、馬車交通など民間会社に任された


自由主義的な中で、言論の自由と新聞が隆盛する
そこに出てくるのが、カール・クラウス
シュピーゲルシリーズで同名の登場人物が出てくるが、元ネタの人か
自由主義の負の側面である腐敗を、党派によらず、一個人として批判(p.54)」
『炬火(たいまつ)』という個人雑誌を発行(1899〜1934)
ウィーンの言論・公共圏について「公私の混同と言語の二重基準が存在するウィーンでは本当の公共社会は成立しない」と評価していたらしい
本書では、このあとも時々登場する


19世紀の都市大改造の典型例が、第二帝政下のパリと、フランツ・ヨーゼフ治世のウィーン
人口増加に伴い城壁を壊す、というのはヨーロッパの各都市がやっているのだけど、ウィーンはウィーン包囲の記憶があって遅くなったらしい
ナポレオン戦争の頃に、城壁自体はもう意味ないという認識が広まっていたらしいが
ウィーンの大改造は国が決めてウィーン市は蚊帳の外だったらしいが、道路整備とかは市がやらされたらしい
で、リング大通りだけど、あれ工事に40年かかっているらしい。道路工事に40年……!


本章の後半は、リング大通り沿いの様々な建築物や、どの地域にどのような人々が住んでいたのか、といったことが書かれている。
建築物は、建築様式がどれもバラバラで、ひっくるめて「歴史的様式」と呼ばれているらしいが評価はさまざま
国会議事堂は、アテネの民主制にあやかってヘレニズム様式、市庁舎は中世自治都市の象徴でゴティック様式、大学は学芸復興の象徴でルネサンス様式などなどといった次第
モダニズム様式の建築家からは不評だったらしいが、それはそれとして、シュピーゲルシリーズの舞台であるミリオポリスの特徴を考えると、どこかしら、なるほどと思わせるところがある。

第2部 青年ヒトラーのウィーン

青年期をウィーンで過ごしたヒトラーに、影響を与えた人物として、シェーネラーとルエーガーがいる。
第2部では、特に、ルエーガーを中心人物としながら書かれている。


1890年代、反自由主義として3つの勢力が台頭する
ドイツ民族派キリスト教社会主義派、社会民主主義派である
ウィーンでは、1890年代半ばから第一世界大戦まで、キリスト教社会主義派が市政の権力を握り、第一次大戦後は、社会民主主義派が権力を取る。
第2部は、キリスト教社会主義の時代、ということになる


シェーネラーはドイツ民族派の指導的思想家
ドイツ民族派は、反ユダヤ主義から、さらに反カトリック、反ハプスブルクに至り、支持は限定的なものにとどまった


ルエーガーは、元々は自由主義的なグループから立候補して市議となるが、自由主義市政の腐敗を批判する立場にたち、自由主義から離れ始める
その後、落選などがあり、新たな支持層を必要とし、反ユダヤ主義が席巻し始めていた小市民層へと目をつける
選挙権資格の条件が緩和され、有権者層が拡大するとともに、ルエーガー派は勢力を拡大していく。反ユダヤ主義の流れから、カトリックキリスト教社会主義と結びついていく。一方、カトリックと結びついたことで、自由主義者民族派とは決別していく。
1891年の市議会選挙では、自由主義の方がまだ優勢であったが、1895年には、キリスト教社会党がいよいよ勝利を収める。皇帝がルエーガーを市長とすることを認めなかったので、即座に市長となることはできなかったが、1897年に、ついにルエーガーはウィーン市長に就任数
ルエーガー市政において、ガス、交通、電気などが市営化、水道の整備、食糧供給政策、小学校の整備や教員養成、市営病院、緑地整備などが行われている
19世紀末に露わになった自由主義資本主義的近代化による社会問題に対して、「都市社会主義」による解決を目指した、と。
こうした都市社会主義的発想は、マンチェスター(ガス市営化)、ニューヨーク(水道市営化)、バーミンガムなどでも見られ、日本でも片山潜安部磯雄によって議論されていたそうだ。
キリスト教社会主義は、労働者を階級ではなく「身分」とみなすという社会主義で、また、レオ13世が、貧富の巨大な格差の発生は許されない旨述べたことから端を発する社会改革論
ベルギーとオーストリアが代表的
ルエーガー市政では、福祉政策や墓地運営などにカトリックからの影響があり、また、キリスト教社会党支持者への利益政治も見られる。他に、支持基盤として、教会を中心にした結社、婦人会や老人会やボーイスカウトなどの「陣営」が背景にある。
一方、ルエーガー市政は、借金財政であり、また、住宅事情について無策でヨーロッパ最悪とも言われる住宅事情となっていた、という欠点がある。
ルエーガーの死にあたり、政敵であった社会民主党の新聞は、ルエーガーを民主主義をデマゴキーに代えてしまった人物と述べていたらしい。
冒頭にも述べたとおり、ヒトラーは、このルエーガーに影響を受けており、彼のことを高く評価しているのである。


第2部の最後は、20世紀初頭から第一次大戦の頃、ウィーンで社会民主党が広がっていく過程に触れられている
「水曜会」というグループをともに立ち上げるも、のちに決裂したフロイトとアードラーの話なども書かれている。
また、スターリントロツキーもこの時期ウィーンに滞在しているが、トロツキーはウィーンの労働運動の「ブルジョワ」的性格を指摘している。


うーん、ところで、アードラー多すぎ問題
精神分析・心理学のアルフレート・アードラー
社会民主党の左右対立を一本化した、医者のヴィクトール・アードラー
そして、第3部に出てくる「新しい人間」というスローガンの元となった思想家のマックス・アードラー

第3部 赤いウィーン

第一次大戦後、オーストリアは帝国から共和国へ
ここで社会民主党が躍進する。オーストリアでも評議会(レーテ、ロシア語でいうところのソヴィエト)独裁を目指す動きがあったようだが、評議会も社会民主党が多数派だったので、それほど議会との対立は起きず、この方向には進まず
オーストリア帝国多民族国家だったが、共和国化で各民族はそれぞれの国に移動していった、と
また、オーストリアは、人口比でウィーンが異様に大きいこともあって、ウィーンは州となる


共和国連邦政府においては、連立を解消し、社会民主党は野党に
ウィーン州政府においては、社会民主党が与党に
「赤い」ウィーン政府と「黒い」連邦政府


ウィーンは、財政改革、税制改革を行う。累進課税を行うことで、多くの市民の税負担を抑えつつ、税収を増やす
で、様々な福祉政策・教育政策などが展開されていく
その中で「新しい人間」という労働者文化を担う者の理想像というものが掲げられて、これがいわば熱狂的に推し進められていった、らしい。
予防医学、救貧事業、乳幼児の健診、幼稚園・保育園の整備、学校医制度の新設、非行少年施設(従来のカトリック的な矯正から教育への変換)、市民大学などで、まあ普通の政策かなって感じなのだけど
「新しい人間」運動の熱気を示すエピソードとして、社会民主党系の青年の間では、挨拶が「こんにちは」ではなく「友情!」になった、とかがちょっと面白い
また、火葬場が作られており(カトリック系の国なので反発もあった)、火葬というのが、「新しい人間」にふさわしい人生の締めくくりと考えられたらしい。社会民主党系の「ほのお」という火葬のための互助組織があった、とか。
それから、学校教育のカリキュラムにおいては「総合教育」と「郷土学」が導入されたが、教員は昔からいる人たちであって、指導部の理想主義とのあいだで軋轢はあったらしい。
他に面白いのは、社会民主党の中にアードラー派が結構いて、アードラー心理学が教育改革の中で次第に中核に据えられていったこととか
あともう一つ、新設された「社会経済博物館」にオットー・ノイラートがいて、イソタイプというピクトグラムを作っていることとか。


ルエーガー市政で問題として残されていた住宅問題
1920年代から、市営の集合住宅がどんどん作られていく
色々なタイプはあったらしいが、1DK38?タイプがもっとも多かったらしい
大型の集合住宅には、共同浴場やプール、公園、保育所、生協、図書館などが併設されていた、とか
ちなみに、市営住宅政策に、ハイエクは反対していたらしい。市営住宅は、労働者のスト継続能力を高め、長期的には国際競争力を下げるから、という理由だったらしいが、実際には、市営住宅のおかげで低賃金が維持できた、という評価らしい。


性労働問題やアードラー派の左右分裂など、社会民主党の限界について


第一次大戦後、オーストリア国軍は縮小され、地方では、キリスト教系・ナショナリスト系の自衛武装組織が次々と結成
社会民主党も、23年に共和国防衛同盟を結成する
ところで、ここでさりげなく「武器工場や兵器廠の労働者の自発的な武装組織」と書いてあって、そういうところにいると、自発的に武装するもんなのかー、と思った。
リング大通りでパレードやデモ行進などを行ったりしていて、次第に、地方の武装組織との小競り合いや衝突が起きるようになる。
1930年代に入ると、オーストリアに、ドルフスという独裁者が現れ、1934年には内戦に突入し、社会民主党が敗れる
そのドルフスも暗殺され、1938年にオーストリアナチスドイツに併合されることとなる


カール・クラウスは、言葉だけの急進性をみせる社会民主党を批判し、もともと啓蒙絶対主義を理想としていたこともあって、ドルフスを支持していたらしい。ヒトラーよりはまし、という判断でもあったらしい。